2019.06.01 【1163日連続投稿】
何度も述べたように、世の中には「何を言ってもいい」場がほとんどない。自由にものが言えなければ、自由に考えることはできない。そこでは、本来考えるべき人から考えることが奪われ、考えるべき人は自ら考えることを放棄している。考えなければ、自由を失う。そして誰かが代わりに考えたこと、決めたことにありがたく、あるいはしぶしぶ従うしかなくなる。
『考えることはどういうことか』梶谷真司 p.99
確かに、「何を言ってもいい」場がほとんどないと思う。何も言ってもいい場がないことで影響することが、自由を奪われるということも思っていたが、それがどれほどの不利益を個人・二人の関係・集団・組織が被っているのか分かっていなかった。
上記の引用部を読んでハッとさせられたのは「本来考えるべきひとから考えることが奪われ、考えるべき人は自ら考えることを放棄している」という部分だった。
これは、他人のことを考え、どれだけ素晴らしいアイディアが生まれても、当事者が考えていない環境では、その考えは当事者の考える環境を侵害しているのかもしれない。素晴らしいと思われる意見がでることより、本来考えるべき人が考えるということにもっと重きを置いていいのではないか。
たしかに、何を言ってもいい場はなかなかない。
しかしながら、本来考えるべき人が考えられるために、「何を言ってもいい」環境を作ることはできるのではないかと思う。
おわり。