2019.09.19 【1274日連続投稿】
現在、少しずつ読み進めている本である『勉強の哲学』(著:千葉雅也)に人間は大抵環境のノリによって生きていると書かれている。
私たちは、いつでもつねに、環境のノリと癒着しているはずです。
会社のノリ、育った家族のノリ、地元のノリ、・・・自分にとって、とくに支配的なノリもあるでしょう。たとえば、中学時代の仲間のノリが何をするのでもベースになっていて、その延長上にいまの仕事のやり方もある、というような。
たいていは、環境のノリと自分の癒着は、なんとなくそれを生きてしまっている状態であって、分析的には意識されていない。
千葉雅也『勉強の哲学』p.28〜29
本書に書かれているとおり「たいてい」というところに私は注目したい。
ほとんどの人という意味での「たいてい」とも捉えられるし、
ほとんどの場面という意味での「たいてい」とも捉えられる。
「たいてい」というところに気になったのは、環境のノリに乗れない人が一握りいるということではないかということである。
本書の意図ではないと思うが、環境のノリきれないで、弾き出される一握りの人も存在する。
弾き出されるか、環境のノリに癒着し生きていくか。
そこから自由になるには、
弾き出されても生きていく力をつけていくか。
ノリに乗らなくても生きていく力をつけていくか。
ということではないでしょうか。
だから、環境のノリに乗れても困るし、乗れなくても困る問題両方あるんだと思いました。
本書を読み進めながら、解決の糸口があるのか考えてみたいと思います。