名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.1733 ~健康と病気・健常と障害について思うこと~

2021.02.03 【1764日連続投稿】

 

本日は、久しぶりに本に引用から。

最近の関心は、仕事柄「健康と病気」「健常者と障害者」といったテーマです。

 

 精神病をつくりだしいている澄みきった世界では、もはや現代人は狂人と交流してはいけない。すなわち、一方には理性の人が存在し、狂気にむかって医師を派遣し、病気という抽象的な普遍性をとおしてしか関係を認めない。他方には狂気の人が存在し、やはり同じく抽象的な理性、つまり秩序・身体的で精神的な拘束・集団による無名の圧力・順応性の要求たる理性を介してしか理性の人と交流をもたない。両者のあいだには共通言語は存在しない、むしろもはや存在しかないのである。十八世紀末に狂気が精神病として制定されてしまうと、両者の対話の途絶は確定事実にされ、区別は既成事実になり、狂気と理性の交換がいとなまれていたところの、一定の統辞法を欠く、つぶやき気味のあの不完全な言葉のすべてが忘却の淵にしずめられた。狂気についての理性の側の独白(モノローグ)にほかならぬ精神医学の言語は、その基礎には上述の沈黙しかもちえなかった。

ミシェル・フーコー『狂気の歴史』「序言」より田村俶訳 新潮社

 

この一文は、『普通がいいという病』(著:泉谷閑示)に引用されている分ですが、現代は「健康・病気」「正常・異常」が明確に分かれやすくなっています。

分かれていることで、病気の人は医者に行ってみてもらわなきゃいけない。

異常の人は、一般企業で働くのは難しいという価値観の形成に一助してしまっているんだろうと感じます。

 

経緯として、精神病が確立されるまでは、そのような明確な規定はなくごく普通に関わりを持っていたとされています。

他の著書でもそのような記述を目にしたことが多々あります。

 

「健康・病気」「正常・異常」と分けている価値観こそが、病気や障害がある方を苦しめている面もあることを自覚しておきたいと同時に、「私は正常だから、病気や異常の方の助けになりたい」という気持ちもまたこの価値観によるものだと思いました。

 

今月は「心や精神」をテーマに仕事で利用者(障害者の就労支援に来られている方)に対してセミナーをしますので、ブログで書く機会も多くなると思います。

 

【本日の晩酌】

休肝日。

 

おわり。