名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

no.2449 ~正解主義について①~

2023.01.20 【2483日連続投稿】

 

先日、書こうとして書かなかった「正解主義」について書きたいと思う。

 

正解主義というワードを知ったのは、後少しで読み終わる『観察力の鍛え方』(佐渡島庸平)の本書だった。

 

正解主義をやめることはなかなか実践できない。

息子の通っている塾とのやりとりで、僕自身も正解主義にどっぷり浸かっていることを思い知らされた。息子は、『ドラゴン桜』の編集をやっていた時に知り合った高濱正伸さんが代表を務めている「花まる学習塾」へ通っている。そこで、小学2年生の次男が作文指導を受けたとき、保護者に説明があった。「子どもに対して、漢字や句読点を始めとした言葉遣いの間違いを指摘するのは控えてください」と言われた。なぜなら作文で大切なのは、正しい言葉遣いではなく、「自分の感情」を伝えることだからだ。

間違いを放っておくのはよくないとも思うかもしれない。しかし言葉遣いの間違いは本質的な間違いではない。ミスを指摘するのは、親としては簡単だ。言葉遣いの間違いは、どんな子でもある程度の年齢になれば自分で直すことができる。2年生のときのミスのまま、大人になる子はいない。

親が間違いを細かく指摘しだすと、子どもは間違いのない作文を書くことを優先させてしまう。間違いのない作文を書くことを目的にした子どもに、感情を出せるのは難しい。だから、細かい間違いを指摘するのではなく、作文に書かれている子どもの感情に対して、感想を伝えるようにしてほしいというのだ。

僕は、自分がどれだけ正解主義の中にいるのかを実感した。もしも、間違えている人がいたら、それを指摘するのが「親切」だと思っていた。しかし、それは正解主義の中の親切だ。あいまいな世界の中にいたら、間違えている事は気にもならない。そして、その間違いに、本人は自分で気づく。そのときに、本人が改めればいい。他者が関与する必要はない。

『観察力の鍛え方』p.208〜210

 

仕事柄ついつい、正解主義に浸かってしまうことがあるが、伝えることも伝えないことも時には簡単で時には簡単ではない。

正解をつくることなく、何が大切かを見極めることを忘れずにいたい。

 

おわり。