名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.735 〜精神の変化は「駱駝・獅子小児」?〜

2018.04.24  【764日連続投稿】

 

 わたしは君たちに精神の三様の変化について語ろう。すなわち、どのようにして精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、獅子が小児となるかについて述べよう。

 畏怖を宿している、強力で、重荷に耐える精神は、数多くの重いものに遭遇する。そしてこの強靭な精神は、重いもの、最も重いものを要求する。

 何が重くて、担うのに骨が折れるか、それをこの重荷に耐える精神はたずねる。そして駱駝のようにひざまずいて、十分に重荷を積まれることを望む。

(中略)

 すべてこれらの最も重いことを、重荷に耐える精神は、重荷を負って砂漠へ急ぐ駱駝のように、おのれの身に担う。そうしてかれはかれの砂漠へ急ぐ。

 しかし、孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。そのとき精神は獅子となる。精神は自由をわがものとしようとし、自分自身が選んだ砂漠の主になろうとする。

 その砂漠でかれはかれを最後に支配したものを呼び出す。かれはその最後の支配者、かれの神の敵となろうとする。勝利を得ようと、かれはこの巨大な龍と角逐する。

 精神がもはや主と認めず神と呼ぼうとしない巨大な龍とは、何であろうか。「汝なすべし」それがその巨大な龍の名である。しかし獅子の精神は言う、「われは欲す」と。

 「汝なすべし」が、その精神の行く手をさえぎっている。金色にきらめく有隣動物であって、その一枚一枚の鱗に「「汝なすべし」が金色に輝いている。

(中略)

 わたしの兄弟たちよ。何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念にみちた駱駝では不十分なのか。

 新しい諸価値を創造することーそれはまだ獅子にもできない。しかし新しい創造を目指して自由をわがものにすることーこれは獅子の力でなければできないのだ。

 自由をわがものとし、義務に対してさえ聖なる「否」をいうのだ。わたしの兄弟たちよ、そのためには、獅子が必要なのだ。

 (中略)

しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行なうことができなかったというのに、小児の身で行なうことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。

 小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。

 そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する・

 

ニーチェツァラトゥストラ』第一部「三様の変化」より

 

泉谷閑示さんの著書『「普通がいい」という病』という本で、紹介されていた一節です。

少し説明をしましょう。

ニーチェは人の精神の変化、成長の過程を駱駝→獅子→小児というなんとも繋がりがないと思われる単語で表現しています。

しかし、一つ一つちゃんと意味があります。

まずは駱駝は、勤勉、従順、努力、忍耐の象徴として表されています。「どうぞ自分に色んな重荷を積んで下さい」と言っているかのように、言われたことはなんでも従ってやる存在です。

次の獅子は、そんな従っているだけの環境が窮屈だと気がつき、自らの主体性や能動性を獲得していきます。むしろ、今までの窮屈さがバネになるくらい自分という存在を意識し俗に言う「トガった人」「突き抜ける人」になります。

最終的に小児になるわけですが、「自分」と言う存在を突き詰めていったことで「あるがまま」の存在になっていきます。従い尽くすこともなく、戦うわけでもなく、純粋無垢な存在として創造の世界に没頭する。

 

そんなことをニーチェが言っているのです。

 

そう思うと、「あの人は、自分がないく軸がない」「あの人は独りよがりすぎる」なんて思っても、「この人にとって重要な過程なんだと思えるし、自分自身も今大切な時期なんだなぁと思えて、全て今の積み重ねなんだなと思います。

 

おわり。