2020.05.30 【1527日連続投稿】
この約2ヶ月、「自粛」という名に変わった誰か・何かからの抑圧で、いつもの生活が送れなくなった人がほとんどではないだろうか?
同時にこんなことも思った人も多いのではないか?
「暇だなぁ」
「家で何をやればいいのか分からない」
「家でできることを見つけるのに必死」
逆にこんな人もいるのではないか?
「普段、こんなにもゆとりを持つことはなかった」
「いつもは仕事のことしか考えてなかった」
「意外と一人でいることが好きだ」
それは、いつも何かに駆られている自分がいたという証拠ではないかと思う。
仕事に駆られる。
部活に駆られる。
恋に駆られる。
遊びに駆られる。
ドラマや映画やマンガやアニメに駆られる。
何かやっていないと不安になるのは、何かに駆られることを必要としていることだと思う。
何かに駆られることがいけないわけではないが、
何かに駆られることを自覚していることは大切だと思う。
今回のコロナで、何かに駆られていた人が駆られないことを知る機会にもなったとも思う。
自分自身もそうである。
そして、ふとエーリッヒ・フロムの言葉を思い出しました。
愛は活動であると言ってしまうと、いささかめんどうな問題が生じる。「活動」という言葉の意味が曖昧だからである。現代の用法では、「活動」というと、エネルギーを費やして現在の状況に変化をあたえるような行為を指す。したがって、事業に取り組んだり、医学を勉強したり、はてしないベルトコンベアーのうえで働いたり、テーブルを作ったり、スポーツに興じたりすると、その人は活動的だとみなされる。これらの活動すべてに共通しているのは達成すべき目標が自分の外側にあるという点である。活動の動機は考慮に入っていない。たとえば、つよい不安と孤独感にさいなまれて休みなく仕事に駆り立てられる人もいれば、野心や金銭欲から仕事に没頭する人もいる。どちらの人も情熱の奴隷になっており、彼の活動は、能動的に見えてじつは「自動的」である。自分の意志ではなく、駆り立てられているのだから。
一方、静かに椅子に座って自分自身に耳を傾け、世界との一体感を味わうこと以外何の目的も持たずに、ひたすら物思いにふけっている人は、外見的には何もしていないので、「自動的」といわれる。だが実際は、この精神を集中した瞑想の姿勢は、最も高度な活動である。内面的な自由と独立がなければ実現できない、魂の活動である。活動の一つの意味、すなわち現在における意味は、自分の外にある目的のためにエネルギーを注ぐということであり、もう一つの意味は、外界の変化にはかかわりなく、自分に本来備わっている力を用いるということである。
外見的には何もしていないので、「自動的」と言われる。だが実際は、この精神を集中した瞑想の姿勢は、最も高度な活動である。内面的な自由と独立がなければ実現できない、魂の活動である。活動の1つの意味、すなわち現代における意味は、自分の外にある目的のためにエネルギーを注ぐと言うことであり、もう一つの意味は、外界の変化にはかかわりなく、自分に本来備わっている力を用いると言うことである。
エーリッヒ・フロム
訳:鈴木晶
『愛するということ』p.41〜42
《本日の晩酌》
GOOSE IPA
おわり。