名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.454 〜谷川俊太郎×荒木経惟 『やさしさは愛じゃない』〜

2017.06.26  【462日連続投稿】

 

先日、半年以上前に下書きはしていたけどやっと投稿できた記事をきっかけに「愛」をテーマに記事を書こうと思考が偏ってます。「愛」っていうのを語ろうとすると、小っ恥ずかしい気持ちになるんですが、こうやって書くのであれば、何とか表現できそうな気がしています。

 

せっかくの機会なので、続くとこまで「愛」をテーマに記事を書いてみようと思います。

 

やさしさしかなかったんだね、

でもやさしさは愛じゃない、

やさしさはぬるま湯、

私はふやけてしまったよ。

 

ひっぱたいてくれればよかったのに、

怒り狂ってほしかったのに、

殺してもよかったのに。

 

あなたは私を誉めたたえてばかりいた、

その眼鏡の奥のひんやりしたふたつの目で、

男の、

欲望の、

きりのない、

みのりのない、

やさしさで。

 

谷川俊太郎×荒木経惟   『やさしさは愛じゃない』より (幻冬舎

 

胸に釘を刺されるような気持ちになります。

 

「やさしさ」とは何か?

 

「愛」とは何か?

 

自分に問われている気持ちになります。

 

おわり。

本日のつれづれ no.453 〜第3回人狼ゲーム会@サムハプを終えて〜

2017.06.25  【461日連続投稿】

 

 人狼ゲーム会を私が住んでいるシェアハウス「サムハプ」で行いました。

 

過去に2度やったことがあり、今回はその様子を知ってやりたいと言ってくださった方の要望で2ヶ月前から企画を始めました。

 

前回の記事

↓↓↓

本日のつれづれ no. 333 〜人狼ゲーム@サムハプ〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

過去の経験から8、9人が理想だなっと思い、結果8人の方に参加頂けました。こういうイベントや集まりをやる度に思いますが、本当に来てくださる方には有難い気持ちでいっぱいになります。

 

 本題の人狼ゲームに関してですが遊びを真面目に振り返るってことを今日はしたいと思います。笑

 

人狼ゲームの概要はこち

↓↓↓↓↓

【究極の心理戦ゲーム】初心者でもわかる『人狼』ゲームの遊び方【決定版】 | ロケットニュース24

 

まずは、前回も書きましたがゲームだからこそ安心して他人を疑えるってことがやはりいいなぁと思います。

疑って確認するために様々な角度からの問いを出す、今の現状を把握しなければならない、いかに決められた時間内に合意形成を取れるかなど、日常に役立つ要素が高度な次元で要求されるゲームなのだと振り返ると思います。

 

まぁ、アルコールが入ると私は墓穴を掘ってしまうことが多く「ポンコツ」の称号を獲得しているわけですが、今回もビールを飲んでしまうとポンコツ具合は出てしまいました。笑

 

人狼ゲームは人が変われば、また違った雰囲気でやることになるので、まだまだやり込みそうです。

 

次回は8月に企画できればいいかなぁと思っています。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.452 〜エーリッヒ・フロム『愛するということ』 -83ツイートで読む-より〜

2017.06.24  【460日連続投稿】

 

私がエーリッヒ・フロムを知ったのは、近年のアドラー心理学ブームの火付け役となった「嫌われる勇気」の続編で書かれた「幸せになる勇気」を読んでからです。

 

フロムの代表作『愛するということ』を早速書い3回は読んだと思いますが、この本も一生かけて読んでいく本だなぁと思っています。内容が難しいこともあり、なかなか手軽に読めないことから100分で名著からも本が出ています。

 

愛するということ

またネット上で『愛するということ』を83ツイートでまとめられた記事がありましたので、紹介させていただきます。初めの10ツイートほどでもフロムが考える愛が深いんだということが分かると思います。

 

引用サイト

エーリッヒ・フロム『愛するということ』を83ツイートで読む : 八嶋聡ブログ

 

エーリッヒ・フロム『愛するということ』(鈴木晶訳・紀伊国屋書店)から

(フロム愛1)
愛というものは簡単に浸れるような感情ではない。
真の意味で人を愛するには、自分の人格を発達させ、それが生産的な方向に向くよう全力で努力しなければならない。

(フロム愛2)
われわれが生きているこの社会では、愛する能力を身につけることは容易ではない。
実際、真に人を愛することのできる人は驚くほどに少ない。
しかし愛する能力を身につけるための仕事が困難だからといって、その努力を放棄してはならない。

(フロム愛3)
人びとが愛を軽く見ているわけではない。
それどころか誰もが愛に飢えている。
ところが、愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。
それはなぜだろう。

(フロム愛4)
愛について学ぶことはないと考える第一の理由は、たいていの人は愛の問題を、「愛する能力」の問題ではなく、「愛される」という問題として捉えているからだ。
つまり人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるかということなのだ。

(フロム愛5)
愛について学ぶことはないと考える第二の理由は、愛の問題は「対象」の問題であって、「能力」の問題ではない、という思い込みである。
愛することは簡単だが、ふさわしい相手をみつけることはむずかしい、人びとはそんなふうに考えている。

(フロム愛6)
愛について学ぶことはないと考える第三の理由は、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。

(フロム愛7)
愛の失敗を克服するただ一つの方法は、愛の意味を学ぶこと、その第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であるということを知ることである。
愛の技術を習得するには、理論に精通し、その習練に励み、その技術を習得することが究極の関心事にならなければならない。

(フロム愛8)
人間は孤立することを最も恐れている。
孤立は強い不安を生む。
人間の最も強い欲求は、孤立を克服したいという欲求である。
人間はいつのどの時代でも、同じ一つの問題の解決に迫られている。
いかに孤立を克服するか、いかに他者との一体化を得るか、という問題である。

(フロム愛9)
人間は孤立感から逃れるために、「祝祭的な興奮状態」「集団等への同調」「創造的な活動」といった方法をとるが、完全な答えは人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち「愛」にある。
自分以外の人間と融合したいというこの欲望は、人間の最も強い欲望である。

(フロム愛10)
愛は人間のなかにある能動的な力である。
人を他の人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。
愛によって、人は孤独感や孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。

(フロム愛11)
愛においては二人が一人になり、しかも二人でありつづけるというパラドックスが起きる。

(フロム愛12)
静かに椅子にすわって自分自身に耳を傾けひたすら物思いにふけっている人は、外見的には何もしていないので「受動的」と言われる。
だが実際は、この精神を集中した瞑想の姿勢はもっとも高度な活動である。
内面的な自由と独立がなければ実現できない魂の活動である。

(フロム愛13)
愛は能動的な活動であり受動的な感情ではない。
そのなかに「落ちる」ものではなく「みずから踏みこむ」ものである。
愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。
たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。

(フロム愛14)
愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。
「愛は愛とだけしか交換できない。もし人を愛してもその人の心に愛が生まれなかったとしたら、その愛は無力であり不幸である。(マルクス)」

(フロム愛15)
真に人を愛するには、その人の性格が生産的な段階に達していなければならない。
この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとなんでも貯めこもうする欲求を克服し、自分の中にある人間的な力を信じ、自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。

(フロム愛16)
愛の能動的性質を示す基本的な要素に「配慮」がある。
愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。
この積極的な配慮のないところに愛はない。
愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。
愛と労働は分かちがたいものである。

(フロム愛17)
愛の基本的要素「責任」。
責任とは他の人間が何かを求めてきたときの私の対応である。
「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。
愛する心をもつ人は求めに応じる。
おとなどうしの愛の場合は、相手の精神的な求めに応じることである。

(フロム愛18)
愛の基本的要素「尊敬」。
尊敬とは人間のありままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。
自分が独立していなければ人を尊敬することはできない。
自由であってはじめて人を尊敬できる。
「愛は自由の子」であり、けっして支配の子ではない。

(フロム愛19)
愛の基本的要素「知」。
人を尊敬するにはその人のことを知らなければならない。
自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。

(フロム愛20)
他の人と融合したいという基本的な欲求は、「人間の秘密」を知りたいという人間的な欲求と密接にかかわっている。
秘密を知るための方法が一つある。ただし絶望的な方法ではある。
それは、他人を完全に力で抑えこむことである。
「秘密」を知るためのもう一つの方法が愛である。

(フロム愛21)
愛とは能動的に相手の中へと入っていくことであり、その結合によって相手の秘密を知りたいという欲望が満たされる。
融合において、私はあなたを知り、私自身を知り、すべての人間を知る。
愛こそが他の存在を知る唯一の方法である。

(フロム愛22)
人間を知るという問題は、神を知るという宗教的な問題と平行関係にある。
神学の論理的帰結が神秘主義であるように、心理学の究極の帰結は愛である。

(フロム愛23)
成熟した人間とは、自分の力を生産的に発達させる人、自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、全知全能というナルシシズム的な夢を捨てた人、純粋に生産的な活動からのみ得られる内的な力に裏打ちされた謙虚さを身につけた人のことである。

(フロム愛24)
母親の愛は無条件の愛である。
母親に愛されるというすべての経験は統合され、私は愛されているという経験へと結晶する。
しなければならないことといったら、生きていること、そして母親の子どもであることだけだ。
無条件であるだけに、どんなことをしても創りだすことはできない。

(フロム愛25)
十歳くらいの年齢に達するまで、子どもにとって問題なのはもっぱら愛されること、つまりありのままの自分を愛されることだけだ。
やがて子どもはナルシシズムと自己中心主義によって築かれた孤独と隔離の独房から抜け出す。
愛することを通じて、愛を生み出す能力を自分の中に感じる。

(フロム愛26)
幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。
成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。
未成熟な愛は「あなたが必要だからあなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているからあなたが必要だ」と言う。

(フロム愛27)
父親の愛は条件つきの愛である。
子どもを教育し、世界へつながる道を教える。
条件つきなので、父親の愛を受けるには資格がいる、つまり期待にこたえなかった場合にはその愛を失うということである。
父親の愛の性質からすると、服従こそが最大の美徳である。

(フロム愛28)
やがて子どもは成熟し、自分自身が自分の母親であり父親であるような状態に達する。
成熟した人間は実際の母親や父親からは自由になっており、自分の内部に母親像と父親像をつくりあげている。
母親的良心と父親的良心は矛盾するように見えるが、成熟した人間はその両方で人を愛する。

(フロム愛29)
母親への愛着から父親への愛着へと変わり、最後に双方が統合されるというこの発達こそ、精神の健康の基礎であり、成熟の達成である。
神経症の基本原因は、この発達がうまくいかないことである。

(フロム愛30)
愛とは、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。
一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。

(フロム愛31)
誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。

(フロム愛32)
兄弟愛とは、あらゆる他人にたいする責任、配慮、尊敬、理解(知)のことであり、その人の人生をより深いものにしたいという願望のことである。
もし愛する能力がじゅうぶんに発達していたら、兄弟たちを愛さずにはいられない。
兄弟愛の底にあるのは、私たちは一つだという意識である。

(フロム愛33)
すべての人間がもつ人間的な核は同一であり、それに比べたら、才能や知性や知識のちがいなど取るに足らない。
この同一感を体験するためには、表面から核まで踏みこむことが必要である。
この中心と中心との関係が「中心的関係」である。

(フロム愛34)
自分の役に立たない者を愛するときにはじめて、愛は開花する。

(フロム愛35)
母性愛は子どもの生命と必要性に対する無条件の肯定である。
母性愛の一つの側面は、子どもの生命と成長を保護するために絶対に必要な、気づかいと責任である。

(フロム愛36)
母性愛のもう一つの側面は、生きることへの愛を子どもに植えつけ、「生きているというのはすばらしい」「子どもであるというのは良いことだ」「この地上に生を受けたことはすばらしい」といった感覚を子どもに与えるような態度である。

(フロム愛37)
母性愛の二つの側面は、聖書の象徴にも表現されている。
約束の地(大地はつねに母の象徴)は、「乳と蜜の流れる地」として描かれている。
乳は愛の第一の側面、すなわち世話と肯定の象徴である。
蜜は人生の甘美さや、人生への愛や、生きていることの幸福を象徴している。

(フロム愛38)
たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることのできる母親はごく少数で、そのためには母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親はめったにいない。

(フロム愛39)
人生にたいする母親の愛は、不安と同じく子どもに感染しやすい。
どちらも子どもの全人格に深刻な影響をおよぼす。
実際、子どもたちのなかに——いや大人たちのなかにさえ——「乳」だけを与えられた者と、「乳と蜜」を与えられた者とを見分けることができるくらいである。

(フロム愛40)
母性愛の本質は子どもの成長を気づかうことであり、これはつまり子どもが自分から離れてゆくのを望むということである。
母親は子どもの巣立ちを耐え忍ぶだけでなく、それを望み、後押ししなければならない。

(フロム愛41)
愛情深い母親になれるかなれないかは、すすんで別離に堪えるかどうか、そして別離の後も変わらず愛しつづけることができるかどうかによるのである。

(フロム愛42)
異性愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいという強い願望である。
異性愛はその性質からして排他的であり、普遍的ではない。
またおそらくはもっとも誤解されやすい愛の形である。
愛は自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。

(フロム愛43)
誰かを愛するというのは単なる激しい感情ではない。
それは決意であり、決断であり、約束である。
もし愛が単なる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束はなんの根拠もないことになる。

(フロム愛44)
愛は誰かに影響されて生まれるものではなく、自分自身の愛する能力にもとづいて、愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである。
一人の人間を愛するということは、人間そのものを愛することでもある。

(フロム愛45)
自己愛。
私自身も他人と同じく私の愛の対象になりうる。
自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊敬・責任・理解(知)に根ざしている。
もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。

(フロム愛46)
自己愛。
もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。
利己主義と自己愛とは、同じどころかまったく正反対である。
利己的な人は自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。
いや実際のところ彼は自分を憎んでいるのだ。

(フロム愛47)
子どもをかまいすぎる母親は、意識の上では心から子どもを愛していると思いこんでいるが、実は深く抑圧された憎悪を抱いている。
彼女が子どもをかまいすぎるのは、子どもを愛しすぎているからではなく、子どもを全然愛することができず、それを償おうとしているからだ。

(フロム愛48)
神への愛。
真に宗教的な人は、もしも一神教思想の本質に従うならば、何かを願って祈ったりしないし、神に対していっさい何も求めない。
そういう人は、自分の限界を知るだけの謙虚さを身につけており、自分が神について何一つ知らないということを承知している。

(フロム愛49)
彼はこう考える。
人生は、自分の人間としての能力をより大きく開花できるような機会を与えてくれるという意味においてのみ価値があり、能力の開花こそが真に重要な唯一の現実であり、「究極的関心」の唯一の対象なのだと。
そして彼は神について語らないし、その名を口にすることもない。

(フロム愛50)
従って神を愛するということは、最大限の愛する能力を獲得したいと願うことであり、「神」が象徴しているものを実現したいと望むことなのである。
神への愛とは思考によって神を知ることではなく、神との一体感を経験する行為である。
それゆえ正しい生き方が重視されることになる。

(フロム愛51)
神への愛は、はじめは母なる女神への無力な者の依存であり、次に父性的な神への服従となり、成熟した段階になると、人間は神を、人間の外側にある力とみなすことはやめ、愛と正義の原理を自分自身のなかに取りこみ、神と一つになる。

(フロム愛52)
そして最終的には、詩的にあるいは象徴的にしか神について語らないようになる。
問題はその人がどこまで成熟したかということなのである。

(フロム愛53)
西洋文明の社会構造とそこから生まれた精神は、愛の発達を促すものではない。
現代の社会が必要としている人間は、大人数で円滑に協力しあう人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて外からの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。

(フロム愛54)
また自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従せず、それでいて命令には進んで従い、期待に沿うように行動し、摩擦を起こすことなく社会という機械に自分をはめこむような人間、命令に黙々と従って働く人間である。

(フロム愛55)
その結果、現代人は自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている。
誰もが孤独で、孤独を克服できないときにかならずやってくる不安定感・不安感・罪悪感におびえている。

(フロム愛56)
愛があっても対立は起きる。
二人の人間の間に起きる真の対立は決して破壊的ではない。
そういう対立はかならずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって二人はより豊かな知識と能力を得る。

(フロム愛57)
二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。
この「中心における経験」の中にしか人間の現実はない。

(フロム愛58)
人間の生は「自分の中心における経験」の中にしかなく、従って愛の基盤もそこにしかない。
そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である。
それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。

(フロム愛59)
調和があるのか対立があるのかは、根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。
根本的な事実とは、二人の人間がそれぞれの存在の本質において自分自身を経験し、自分自身と一体化することによって相手と一体化するということである。

(フロム愛60)
愛があることを証明するものはただ一つ、すなわち二人の結びつきの深さ、それぞれの生命力の強さである。
これが実ったところにのみ、愛が認められる。

(フロム愛61)
どうしたら愛することができるのか。
愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。
目標への階段は自分の足で登っていかねばならない。
とはいえ習練を積むためには、規律、集中、忍耐、技術の習得に最高の関心を抱くことが必要である。

(フロム愛62)
現代では、集中力を身につけることは規律よりもはるかに難しい。
集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。

(フロム愛63)
一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。

(フロム愛64)
集中力を身につけるためには、くだらない会話をできるだけ避けることが大事だ。
くだらない会話を避けることに劣らず重要なのが、悪い仲間を避けるということである。

(フロム愛65)
他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず相手の話を聞くということである。
集中するとは、今ここで全身で現在を生きることである。
自分に対して敏感にならなければ、集中力は身につかない。

(フロム愛66)
重要なことは、変化に気づくことと、手近にある理屈に飛びついてそれを安易に合理化しないことである。

(フロム愛67)
自分自身に対して敏感になるには、完成された健康な人間の精神というのがどういうものなのかを知らなければならない。
私たちは知識を教えるが、人間の成長にとって最も重要な教えを授けていない。
その教えは、人を愛することのできる成熟した人間でなければ決して授けることができない。

(フロム愛68)
成熟した人生とはどんなものかという青写真を生き生きと保っていないと、私たちの文化的伝統は全面的に崩壊してしまうかもしれない。

(フロム愛69)
客観性。
どんな種類の精神病者も客観的にものを見る能力が極端に欠如している。
狂気に陥った人や眠っている人は、外界を客観的に見ることがまったくできない。
愛の技術を身につけたければ、あらゆる場面で客観的であるように心がけなければならない。

(フロム愛70)
「信じる」ことの習練。
理にかなった信念とは自分自身の思考や感情の経験にもとづいた確信である。
信念は、人格全体に影響をおよぼす性格特徴であり、ある特定の信条のことではない。
この信念は、自分自身の経験や、自分の思考力・観察力・判断力にたいする自信に根ざしている。

(フロム愛71)
理にかなった信念は、大多数の意見とは無関係な、自分自身の生産的な観察と思考に基づいた、他のいっさいから独立した確信に根ざしている。
他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。

(フロム愛72)
同じ意味で私たちは自分自身を「信じる」。
私たちは、自分の中に一つの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する。
この芯こそが「私」という言葉の背後にある現実であり、「私は私だ」という確信を支えている。

(フロム愛73)
自分自身を「信じている」者だけが他人に対して誠実になれる。
なぜなら、自分に信念を持っている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、従って自分が予想しているとおりに感じ行動するだろう」という確信を持てるからだ。
信念は人間が生きてゆくための前提条件の一つである。

(フロム愛74)
愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛に対する信念である。
つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

(フロム愛75)
他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。
その信念があるかどうかが教育と洗脳のちがいである。
他人を「信じる」ということをつきつめていけば、人類を「信じる」ということになる。
信念にしたがって生きるということは、生産的に生きることなのだ。

(フロム愛76)
勇気。
信念をもつには勇気がいる。
勇気とはあえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。
愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。

(フロム愛77)
信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことから始まる。
第一歩は自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。

(フロム愛78)
人は意識の上では愛されないことを恐れているが、本当は無意識の中で、愛することを恐れているのである。

(フロム愛79)
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全面的に自分を委ねることである。
愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかしか愛することができない。

(フロム愛80)
愛の習練にあたって欠かすことのできない姿勢、それは能動性である。
能動とは、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いることである。
愛は能動である。

(フロム愛81)
現在のようなシステムのもとで人を愛することのできる人は、当然例外的な存在である。
人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。
人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。

(フロム愛82)
愛の発達を阻害するような社会は、人間の本性の基本的欲求と矛盾しているから、やがては滅びてしまう。
実際、愛について語ることは「説教」ではない。
その理由は簡単だ。
愛について語ることは、どんな人間の中にもある究極の欲求、ほんものの欲求について語ることだからである。

(フロム愛83)
愛の可能性を信じることは、人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、理にかなった信念なのである。

 

おわり。

本日のつれづれ no. 451 〜愛の前提にあるもの〜

2017.06.23 【459日連続投稿】

 

誰かを愛するならまず自分を愛そう。

 

誰かを愛している自分に酔うな。

 

それはインチキ自己肯定。

 

相手に分かってもらおうとするより、まず自分を知ろう。

 

支配でも依存でもない関係。

 

それが愛し合っている形の前提にある。

 

おわり。

本日のつれづれ no.450 〜『無敵のソクラテス』を読んで、「見方を変える二つのポイント」〜

2017.06.22  【458日連続投稿】

 

昨日の記事を書いている時(正確に言えば、本の一部を引用している時)に、感じたことを書こうと思います。

昨日の記事

↓↓↓↓↓

本日のつれづれ no.449 〜池田晶子『無敵のソクラテス』-流行らすことは偉いのか- 〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

【色んなことは相互関係によって成り立っている】

 昨日の記事では、クリエイターやコピーライターが流行をつくって大衆を動かしており、そそのかされる大衆は哀れだなということを言ってることに対して、ソクラテスが「そもそも大衆がいなけりゃ、君たちは存在すらしてないんだよ」って一言で一蹴している箇所があります。

 これはそもそも、ほとんどのことについて言えることであって、つい当たり前のように過ごしている自分がいるなぁと思いました。

 今は教師をしていますが、そもそも子どもが学校に来なければ、子どもがいなければ教師なんて仕事はない訳です。色んな商品を売っている会社だって、消費者がいなけりゃ成り立たないんです。それなのに、与える側はついつい相手より上に立っているような感覚になってしまうことが時にしてあるんではないかぁと思いました。

 そもそも色んなことが相互に存在するからこそ、あり得ることなんだと思えば、見えてくる世界は変わりそうだなと思いました。

 

【一つの基準で良し悪しを図ることは、ドツボにハマる】

 再び、昨日の記事に関していうと「新しさ」の基準だけで物事をみてると、「絶対的によいもの」を見過ごしちゃうよってことをソクラテスが言っていました。

 「新しさ」だけでなく、「面白さ」「かっこよさ」「綺麗さ」「好きか嫌いか」「はやさ」「高さ」など沢山の基準がありますが、一つの基準で見てしまうと優劣が生まれます。「新しいか新しくないか」という具合に、二つに分け、「じゃあ、どっちがいいかな?」という思考が生じやすくなるのではないかと思います。それって、端的に言えば物事を「良いか悪いか」と見てしまうことになってるのではないかと思うのです。

 でも、本当は人はもちろん物事にも色んな側面があって一概に判断できないことが沢山あるのではなだろうか。一つのことでみるのではなく、色んな基準でみてみると物事っているのは色んな角度から見えて、また自分が見える世界が変わるんじゃないかって思いました。

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.449 〜池田晶子『無敵のソクラテス』-流行らすことは偉いのか- 〜

2017.06.21  【457日連続投稿】

 

大学生の時に、池田晶子さんの『14歳からの哲学』という本に出会ってから、池田晶子さんの世界にハマりました。この『無敵のソクラテス』という本は、もし古代ギリシャ哲学者のソクラテスが現代にいて色んな立場の人と対話したらこうなるだろうというものを集めた一冊です。

 

無敵のソクラテス

これは結構面白いです。

 

登場人物

ソクラテス

・マルチプランナー

・トレンドクリエイター

・コピーライター

(要所を抜粋)

プランナーおい聞いたかい、ソクラテスだって!まだそんなのが居たのかね。何でも、テツガクを始めたオッサンだとか、学校で教わったような気もするけどさ。なんかこう聞いただけで感覚的にダサイじゃん。おんなじテツガクでもさ、マルチメディアミックスで高感度にコーディネートすれば、少しはイマっぽいくなるかもよ。ジュリアナ・トーキョーの次は、ソクラテストーキョーなんてノリでどう?冗談だけどね。

クリエイター:いや、案外受けるかもよ。なんせ、みんなもう目新しいものに飽き飽きしてるからね。ダサイが一番新しい、ダサイが一番オモシロイってことになりかねないぜ。だいたいこの世の中、ボクなんかがオモシロイよイケるよって、ゴーサイン出した通りに動くもんね。我ながら、ギョーカイでの才能に感心してるとこ。

コピーライター:ボクなんか思うに、テツガクは語感がよろしくない。こう、聞く耳を拒絶するようなタケダケしい響きがあります。この時代は、モア・ソフトリー、なおかつ少し醒めて、一定の距離を保てるところのあるコトバが好まれるからね。

ソクラテスえ、僕?いや、これは困ったね。正直なところ、ちんぷんかんぷんなのだ。君たちの話。僕の方こそ伺いたいね、君たちのしている仕事についてね。

プランナー:ボクの仕事はトレンドすなわち流行を作り出すこと。常に時代の半歩先を読む鋭敏な感性が要求されます。現代はモノと情報の洪水の中で、人々が自分を見失っている時代です。遊びもファッションもライフスタイルも、誰もが自分ひとりでは決めかねている。その意味では彼らは哀れなんですよ。そこでボクらがマニュアルを提出してあげる。この通りにすれば楽しいですよ、女の子にもモテますよと教えてあげる。すると愚かしくも哀れな彼らは、いっせいにそっちへと動く。皆と一緒だから安心するんでしょうね。他愛もないもんですよ。時々こいつらバカじゃないかと思うくらい。でも、僕らが仕掛けるトレンドで、カネが動く、モノが動く、人々が動く。ちょっといい気分ですね、それがボクらの才能が証明されるわけですから。

クリエイター:そうは言っても、あふれる情報の中で次第に目が肥えてきた人々を振り向かせるのには、かなりのイマジネーションが要求されますね。ダサイかオシャレか、彼らはそのへんをじつに敏感に嗅ぎ分ける。オシャレってのは微妙に新しいニュアンス、全体奇抜なのはダメ、それで自分は人と違うぞって、臆病な優越感をくすぐらせてやるんですよ。それが一通り行き渡って金太郎飴になったら、彼らはまた新しいものを求める。自分は違うぞって思ったり思わせたりしたくてね。それでボクらの仕事はクリエイティブなわけですよ。大衆心理の裏の裏の裏を読むためには、常にテンション高くなくちゃならないから、ハードといえばハードな仕事ですね。

コピーライター:その時代の気分は、まずコトバに反映されます。いやむしろ半歩先んじたコトバこそが、その時代の気分をつくると言える。一行の広告、一語のネーミングがズバリとそれを言い当てれば、売れるし、はやる。コトバ一つでトレンドをリードできる快感はやはりサイコーですよ。一行二百万円に憧れて、志願する若者でイッパイなんだ。

ソクラテスへーえ、なるほどねえ。いろんな職業が成立する時代なんだね。僕は、流行ってのは自然にそうなるもんだと思っていたけど、きょうび、流行ってのはつくるものなんだ。ふむ。ところで、ひとつ素朴な質問をしてもいいかな。

三者:どうぞ何なりと。

ソクラテスなぜ流行というものがあるのかしら。人は流行に関わらないと、暮らせなかったり死んでしまったりするのかしら。

三者:そんなことはあるわけないでしょう。流行は、最低限の生活の必要が満たされたあとの娯楽だもの。

ソクラテスしかし、流行に関係のない娯楽もあるよね。趣味ってのは、そういうもんだろ。ひとりで何もしないことなんて、最高の趣味だと僕なんかは思うがね。

三者:現代の大衆は不安なんですよ。ひとりでいること、何もしないことなんて耐えられない。流行は、ひとりで楽しむ趣味とは違って、広く情報を消費する娯楽なんです。皆が今何をしているか、必ずしもその中身ではなくて、皆がしていることをするというそのことで楽しいと思う。まあ一種の不安心理が織り成す奇妙な娯楽ですね。殊に若者は、他人にダサイと思われることよりを何より恐れる。そして、他人より流行を先取ることで、彼らは優越感に浸れるんですよ。

ソクラテスつまり流行とは常に、他人との比較関係において成立する現象だね。

三者:無論です。現代は自我喪失、関係性の時代ですから。

ソクラテスところで、あるものにとって、そのもの自身と、そのものでないもののどちらがなければそのものはあり得ないのかしら。

三者:は?

ソクラテス自分と他人のどちらがなければ、自分はあり得ないのかしら。

三者:そりゃ自分の方でしょう。

ソクラテスすると、自分がなければ、他人と自分を比較することもあり得ないね。現代という自我喪失の時代でも、やっぱり各人、自我はもってるね。そのものがなけれはあり得ないものと、そのものでないものがなくてもあり得るものとの、どちらが優越してるのかしら。たとえば、水のない魚と、魚のない水と。

三者:そりゃ後者の方でしょう。

ソクラテス君たちは、流行とは他人との比較関係において成立する現象だと言ってたね。そして、流行とを先取る人ほど人は優越感に浸れるとも言った。すると、流行という現象では、優越してもいない人ほど優越感に浸れるということになるけどしれでいいのかしら。つまり、大衆は君たちがいなくなったって生きていけるが、君たちは大衆なしにはやっていけない。ということは、大衆は君たちに優越しているわけだから、君たちの側が彼らに対して偉ぶるのはおかしいと思われると言ってるだけさ。

三者:だって、じじつ彼らはボクらの提出する判定基準を求めているんだもの。彼らはひとりじゃ何も決められないんだもの。モノ選びどころか、恋愛の仕方までそうなんだ。これって無能以外の何ものでもないと思いませんか。

ソクラテスしかし、君たちの提出する規準だって、ダサイかオシャレか、このふたつだろ。これだってかなりなもんだぜ。たとえば、この僕。君たちとは全然似ていない。二千年前から全然変わらない。こういう事実を君たちの規準では、どう判定できるんだね。

三者:流行は繰り返すものだから、以前ダサかったものが、オシャレになることもあるんです。

ソクラテスふむ、流行は繰り返すね。しかし、二千年僕が見る限り、繰り返しているのは人間の方だぜ。ただし、全ての人間じゃない、

、流行を気にする人間がだ。服装や髪型どころか、物事についての考え方こそが、そうなのだ。君たちの言う通り、自信がないんだね。彼らは自分では新しいつもりで自信満々でも、僕みたいな人間から見りゃ、流行にのる側ものせる側も、それこそ大同小異なのだよ。こういう人たちは、流行こそつくっても、決して歴史をつくったことがない。

三者:ボクら、歴史なんて大げさなものはどうでもいいんですよ。ボクらが面白けりゃそれでいいんですよ。

ソクラテスその面白いってのは、新しいってことだろ?いったいなぜ新しいことをしたやつはいいことで、新しいことをはやらせたやつは偉いヤツということになってしまってるのかな。「新しい」ということは、常にそのものとは別のものとの比較において言われるのであって、それ自身について言われることではない。ところで、「よい」についてはどうかな。他と比較しなければよいと言えないものと、他と比較しなくても、それ自身においてよいと言えるものとは、そのよさにおいて、どちらがよいと言えるかな。

三者:そりゃ後者の方でしょうけど、比較せずによいものなんて決められっこないですよ。だからボクらは、新しいものほどよいと言ってるんですよ。

ソクラテスすると、それは裏を返せば、比較されることなくそれ自身においてよいものは、新しい新しくないの決め方では決められない。つまり、「絶対的によいもの」は、新しさの基準しか持たない人には、決して理解することのできないということなるね。

三者:いいですよ、それだって。絶対的にイイモノなんて、ボクらどうだっていいもの。そんなもの、きっとすぐに飽きるもの。

ソクラテス君たちは新しけりゃいいんだろ?ところが、その「絶対的によいもの」が、最も新しいものである場合は、どうするね。君たちは、それが時代の最先端に現れたときにも、決して理解出来ない。君たちの分かる範囲の新しさしか分かることができないから、遅れをとることになるだろうぜ。これは君たちトレンドリーダーとしては、致命的なことではないかな。

三者:それは大変だ。どうしよう。

ソクラテス考えてもごらんよ。俺はアイツより新しいの、こうすればウケるんだろうの、あれこれ周囲を気にしながらつくられたものが、何でクリエイティブなもんかね。本当に新しいことをしたけりゃ、新しさなんか気にするのをやめることだね。

三者:それじゃ仕事になりません。

ソクラテスまあそうだろうね。しかし、安心したまえ。世の中ってのはうまくしたもんで、その手の真に新しいものは、人類の歴史をつくりこそすれ、巷のミーちゃんハーちゃんにウケるようにだけは、決してならんからね。 で、例のソクラテストーキョーの件だけども、たぶんハズレると僕は思うな。だって、やっぱり、なんとなくダサイもの。

 

池田晶子『無敵のソクラテス」p.78〜84 -流行らすことは偉いのか-

 

 おわり。

本日のつれづれ no.448 〜書くことでの可能性②〜

2017.06.20  【456日連続投稿】

 

4月から書いている記事の内容が本をはじめ他人の言葉を引用して書いていることが多くなっている中で振り返ってみました。

その振り返りの中で生まれたのが、「書くことでの可能性」についてです。

 

この「書くことでの可能性」を書くことになったプロセスを先日書きました。

                     ↓↓↓↓↓

本日のつれづれ no.446 〜書くことでの可能性①〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

本から言葉を引用するためには、まず読む必要があります。

読んだことがない本の一部を引用する場合でも、その引用する一部は必ず読まなければ引用することはできません。

 

そして、人それぞれ読み方があると思います。目だけで読む人、声を出して読む人などなどいらっしゃると思います。

本の一部を引用することで、引用する一部の箇所は必然的に読むことになりますが、「書いて読む」と私は捉えられると思います。

「書く」行為は、インプットかアウトプットかといえば、アウトプットなんじゃないかと私は思っています。

しかし、自分の言葉でなく「他人の言葉を書く」ためにはインプットが必須です。

他人の言葉を知らずして、書くことはできませんからね。

「他人の言葉を書く」ことはインプットとアウトプットを同時にやるってことなんじゃないかと私はここ2ヶ月半の経験を通して感じています。

 

それに気付いたきっかけというのが、普段本を目で読む私にとって、他人の言葉を書いているときの方が遥かに自分の奥に言葉が入ってくる感覚がした体験です。

また読んで分からなかったけど、書くことで分かったと思えることもありました。

「他人の言葉を書く」なんて言っていますが、言ってしまえば模写ですけれども、侮れないなどころか凄いことだと私は思っています。

 

この体験を通して、

自分の言葉で書くだけが価値じゃない。

自分だけで考えたことだけが価値じゃない。

 

むしろ、誰かと自分の考えが混ざったものであったり、誰かの影響を受けて自分なりに考えたものっていうのは、価値があるのではないか。

 

日々、淡々と書いていることで見えてくるものはまだまだたくさんありそうです。

 

おわり。