名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.542 〜 THIS IS CAMP 〜

2017.09.24  【552日連続投稿】

 

 

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9月23日、24日の二日間で静岡県掛川市にある明ヶ島キャンプ場でキャンプしてきました。

 

 キャンプ欲の火付け役となった思い出の地に再び行ってきました。

 

今回のテーマは「THIS IS CAMP」。

この夏キャンプグッズをある程度揃え、これこそキャンプというものになりました。

 

今回のキャンプ場は今年の6月上旬に行ったことがあり、約3ヶ月半ぶりでした。

「2回目です」と伝えたら、管理人の方からオリジナルコーヒーとその場で養殖された鮎を頂きました。

 また、キャンプ場までの道路が砂利道からコンクリートで舗装されていて、安全に行くことができるようになっていました。

 

 明ヶ島キャンプ場のテーマがお気に入りです。

「STUDY TO BE QUIET」

〜穏やかなる事を学ぶ〜

 

HPはこちら→炭焼の杜 明ヶ島キャンプ場(静岡県掛川市)

 

 

この場所に行かないと分からないこと、感じれないこと、気づけないことってたくさんあると思うので多くは書きませんが、一つだけ言えるのは「自分の自然の一部」ってことを感じました。

自分はなんでもできると思わずに、自分のやれることをやるしかない(良い意味で。)そんな気持ちになりました。

 

おわり。

 

おまけ写真

 

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本日のつれづれ no.541 〜キャンプだホイ。〜

2017.09.23  【551日連続投稿】

 

ついにっ待ちに待ったキャンプ。

 

今回は、僕のキャンプ欲を駆り立てるきっかけとなった場所に行ってきます。

 

その場所は電波が届かないので、23日の14時頃〜24日11時頃まで連絡取れません。

 

天気も数日前までは雨でしたが、てるてる坊主のお陰もあってか晴れてます。

 

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楽しんでいってきます。

 

おわり。

本日のつれづれ no.540 〜キラキラしようとしないということ〜

2017.09.22  【550日連続投稿】

 

好きなこと、やりたいこと、夢中になれることをやるのは良いことだ、という考え方がある。

確かに、好きなこと、やりたいこと、夢中になれることをやってる人は端から見て輝いているように見える。

 

できれば、ずっとやっていたい。

できれば、仕事にしたい。

そんな気持ちを持った人は口にしていない人も含めれば、大半がそう思うのではないだろうか。

 

そもそも、好きなこと、やりたいこと、夢中になれることなんてないっていう人もいるだろう。

どちらかというと、私も好きなこと、やりたいこと、夢中になれることを長年もったいなかった。

最近ようやく、

好きそうなこと、

やりたいかもしれないこと、

夢中になってるかもしれないこと、

がある気がしている。(仕事の話ではないです。)

 

やりたいこと、好きなことは探しても見つからない。見つかったと思っても、それは他人からよく見られたいとか、自分を輝かそうとか、よこしまな気持ちがあると思う。

あれもこれもできるようになりたい、達成したいという気持ちはとても素敵だか、よくよく見て見ると自分を苦しめる原因になっていることもしばしばあると思う。

だから、外に目を向けるんじゃなくて、内に目を向けることが大切。

内に目を向けるってことは別に何もせずにじっと考えればいいってわけでもない。

色んなことを経験して、自分はどう感じたのかを感じきることが内に目を向けることだと思う。

 

 別に高額なセミナーに参加する必要はないと思う。

それもある意味外に目を向けちゃってるから、何かにすがったり、これをやらば自分は変われる、輝ける。そう思いたいのだろう。

 

輝いているように見えちゃってる人は、自分から輝こうとしていない人もたくさんいると思う。

そういう人は、他人がどうやっても奪うことのできない輝きを持ってる。

モノとか肩書きとか環境とかじゃなく、その人の内から溢れ出すものだから奪いようがない。

 

何かを身につける前に、何か余計なものを背負っていらかもしれない。

余計なものを降ろして行くことで輝くこともあると思う。

輝くコツなんて分からない。

ただ、輝く必要なんてないし、輝こうとしてる人は何だか見ていて大変そう。

自分を見過ぎず、周りも見過ぎず、余計なことを考えない、感じきることがまずは大事なような気がしている。

 

日々の何気ない生活の中に幸せや喜びは溢れているはず。そう思います。

 

ということを結構前から思っていたので、綴りました。

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.539 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第14章-心の垣根-①〜

2017.09.21  【549日連続投稿】

 

 リンダウは一八五九(安政六)年初めて江戸を訪れたとき、アメリカ公使館付きのヒュースケンと川崎で出会い、彼の案内で江戸に通じる田舎道を通った。「そこでは全てが安寧と平和を呼吸していた」と彼はいう。「村々も、豊かな作物に覆われた広大な平野も、野良仕事の携わっている農夫達もである」。碧い海の上を滑り行く帆かけ舟、緑の庭園のような田圃、樹齢何百年の木立に包まれた寺院、花の香を運ぶそよ風、滲み通る静けさ、「全てが休息を招いていた。今まで私がこれほどまでに自然のさなかに生きる人間の幸せを感じたことはなかった」。安寧と平和というのは、たんに戸締りがいらぬととか、鍵をかけずともものを盗られないということではなかった。風景と人びとのうえに、このような輝くばかりの幸福感がみちているということだった。リンダウはその幸福感に酔い痴れたのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.558

 

おわり。

本日のつれづれ no.538 〜今年は雨男かもしれません。〜

2017.09.20  【548日連続投稿】

 

今年は雨男とよく言われます。

自分でも少しそうなのかなぁと思うくらい雨が降ります。

 

沖縄に行った時も

運動会の時も

珍しく出張があった時も

星空の映画館に行った時も

 

できれば降って欲しくない時に雨が降ります。

 

そして、今日は駅から出た瞬間に雨が降ってきたときに、ほんとにやめてくれと思いました。

 

今はコンビニの前で雨宿りしながら書いています。

 

雨にはネガティヴなイメージを抱いていましたが、「ちょっと待てよ」と雨は言っているのかもしれないとふと思ったことから、とりあえず書いてみようと思った次第です。

 

雨が降るのが嫌だとか、

普段の行いが悪いから降るのかもしれないだとか、

本当は雨男だから?と思うことだとか、

 

そんなこと思っていても雨が降る・降らないには影響しないわけですから、どう思おうが、どうしようもないものはどうしようもないのです。

 

人間も自然の一部であり、人間中心でこの世は回っていないし、自分中心でこの世は回っていないってことに雨は教えてくれます。

 

雨が降って喜ぶ生物や人もいます。

雨が降るから成り立つ生業もあるわけです。

 

雨が降って残念と思ってしまうのはしょうがないと思いますが、イライラするのは「自分の思い通りにならなかったことが受け入れられないことの表れ」だと思いました。

 

今まで24年生きてきましたが、思い通りにいくことなんて、人生そんなにないです。思ってもないことが大きいことから小さいことまでたくさん起きる。

だから、人生は面白いんだろうと思います。

 

雨は急いでいる人たちに

「急ぎ過ぎてはいませんか?」

 

雨は自分の思い通りにいくと思って人たちに

「そんなに上手くいくとは限らないよ」

 

雨はたくさんのことを教えてくれる。

 

今年は雨男とよく言われますが、雨は僕に何か教えようとしてくれているのかも知れません。笑

 

でも、今週末の待ちわびしていたキャンプに雨は降らないでおくれ。笑

 

おわり。

本日のつれづれ no.537 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第13章-信仰と祭-③〜

2017.09.19  【547日連続投稿】

 

 スミス主教は仏教神道より陰鬱できびしい宗教だと感じた。なぜならそれは生を悲嘆から免れえぬものとみなしているからである。「一方、神道の信者は現世の出来ごとのより明るい側面に注目することを好む」。神道は祭礼を休日に変えてしまったと彼は言う。しかしそれは仏教においてもおなじことだった。教義の面において確かにスミスのいうような対照が認められはするものの、民衆の意識においては、寺も神社とおなじく、彼らの現世の人生に幸福とよろこびを与えるものだった。一八七六(明治九年)年、ギメは横浜の浅間神社を訪うたとき、「全て生気があり、明るく愛嬌がある」と感じた。「ここでは神々は恐れさせず、親しみがある」。しかし彼は天草寺を訪うたときにも、「すべての見世物に宗教が関係している」のを見て、「感じのよい、心安い、気難しくない、ギリシャ人の宗教に似ていて、煩わしくない、楽しむことを少しも妨げない宗教」だと、仏教のことを感じたのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.537

 

おわり。

本日のつれづれ no.536 〜目指さないインタビュー〜

2017.09.18  【546日連続投稿】

 

昨日、寺子屋にて行われたインタビューゲーム4時間セッションに参加した際の気づきの続きを書こうと思います。

 

昨日の記事はこちら

↓↓↓↓↓↓↓↓↓

本日のつれづれ no.535 〜【寺子屋主催】第6回インタビューゲーム4時間セッションに参加して〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

 

【目指さないインタビュー】

 この気付きは、多分私が50人とインタビューゲームをやって積み重なったものが言葉になって現れました。どういうことかと言いますと、私の中でインタビューゲーム、インタビュー、聞くこと、コミュニケーションには正解というものはないと思っていて、ただただ他者と心地よく関わっていることが私にとっては大切なんだと思ったのです。

 経験から話しますと、私は20人くらいの方とインタビューゲームをした経験を積んだ時に「結構深掘りして聞けるようになってきたな」という自負がありました。それからどれだけ相手から引き出せるのか、どうすればあまり他人に口にしないようなことを話せてもらうか、というようなスタンスでインタビュー(聞くこと)をしていました。

 しかしある時、逆に自分が相手から「引き出してやろう」「聞いてやろう」という姿勢で来られたときに、とても気持ち悪さ・嫌悪感を感じてしまったんですね。「なんだその上から目線は...」というような気分になりました。

 また、聞くことは相手の話を頷きながら傾聴して最後まで聞くことが大切にだと思われている方が結構いらっしゃる印象が私の中にありますが、それも時と場合と人によって使うべきかどうか分かれるスキル・技術の話です。ちなみに、私はあまりにも「うんうん」と頷きが多いと、「この人話聞いてるのかな?」と思ってしまう人でして、聞こう聞こうと意識してむしろ聞いていない感じをよく感じます。

 結果として、「こんなこと普段は話さないのに話してしまった」となるのは素敵なことだと思います。しかし、最初から聞く側が「そういう話を聞こう」とゴールや目的を決めて聞くことや手法に囚われた聞くことが、むしろチープなコミュニケーション・不快なコミュニケーション・聞き手が誘導するコミュニケーション(誘導尋問)に陥る可能性があるのではないかと思いました。

 そんなことを思い続けていたからこそ、昨日の振り返りの時に、「目指さないインタビュー」という言葉が湧いてきたのだろうと思います。

 

私が思う「目指さないインタビュー」というのは、

・聞き手が聞きたい、話し手が話したいと思える交わりを探っていくインタビュー。

・聞き手本位、話し手本位にならず互いが対等であるインタビュー。

・聞きたいこと、話したいことがリアルタイムで生まれるインタビュー。

・話が脇道にそれていいインタビュー。

 

こんな思いが詰まった言葉です。

 

昨日の振り返りの付箋

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今後、インタビューゲームを体験できる機会です。

 

10月14日(土)  14:00〜

インタビューゲーム会@サムハプ

第10回インタビューゲーム会@サムハプ

 

11月19日(日)  13:30〜

第5回教師塾〜聞くとは何か?人生が変わる対話への扉〜

第5回 教師塾 ~聞くとは何か?人生が変わる対話への扉~

 

おわり。