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名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

インタビューゲーム日記 no.36 〜既に成立している関係の中で関係性は存在している〜

2017.05.24  【429日連続投稿】

 

インタビューゲーム36人目のお相手は、早川なつさん(以下.なつさん)でした。

 

《インタビューゲームって何??》

インタビューゲームについて - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

なつさんとは、私が週に一度通っている寺子屋塾で知り合いました。べてるの家という精神障害者の施設の方々のドキュメンタリーを見るイベントで知り合いました。

 

本日のつれづれ no.398 〜V.O.P予告編4鑑賞会に参加して〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

【既に成立している関係の中で関係性は存在している】

 今回は、寺子屋塾で行ったことで、私となつさん以外にその場に5名ほどいらっしゃいました。個人セッションでは、カフェでやるときがほとんどで、その場合ですと知り合いでない人や何の関係もない人が周りにいても大して気になりません。しかし、知り合いや寺子屋塾を介した繋がりがあると、意識をしていなくても話すことや聞くことが変わってくるのだと思いました。

 

 例えば、私の目の前にはインタビューゲームを41人の方とやられている本田信英さんがいらして、時折目が合っていました。良い悪いではなく、なんからの影響はあったんだろうと思います。

 

もし仮に、二人だけの空間ならば全く違ったんだろうと思います。直接関わっていなくても2人以外の誰かが、その場にいるだけで二人の関係ではなく、複数人としての関係が生まれているんだと思いました。

 

 そして、さらに言えば、関係性というのは築き上げていくというのがこれまでの私が持つイメージだったのですが、ちょっと最近は異なるイメージを持っているので書こうと思います。

最近はどう思っているのかと言いますと、関係性っていうのは築き上げていくというよりも、既に関係性は成立していく中で私たちは他者と関わっているのではないだろうかと思うようになってきました。もちろん、関係性は変容していくものだと思いますが、変容していく有様も既にあるものなんじゃないかと思うようになってきました。

 

 聞きたいことを聞けない気持ちも勇気を出して話した話も、自分の意思を越えたことなんじゃないかと思うようになってきました。

だからこそ、恐る必要なくもっと聞いたり話したりすればいいんだよなぁ〜と言うことを考えらようになってきています。

 

 インタビューゲームを続けていると、インタビューが上手くことが重要なのではないんだと思います。人との関係というのをよーく観察できるようになることが大切なんだと思うようになってきました。観察することができれば、インタビューも上手くなるのは必然だと思います。

 

【聞きたいことを聞けなくても、相手に伝わっていた】

 今回聞きたいことを聞けなかったです。それは、聞きたいことが本当にどうやって伝えたら良いのか分からなかったからです。10分くらいどうやったら相手に聞けるだろうかと考えてたまま時間は過ぎ、結局聞けないままインタビューが終わってしまいました。上手く言葉にならなかったと思っています。

 私は聞けなかった代わりに相手になりきって自己紹介文を書くときに、聞きたかった気持ちを書いてみることにしました。受け取った相手のなつさんは、私が書いたことから聞きたかったことを受け取ってくれていて、そのことについて振り返りの時間で話すことができました。

 インタビューゲームでは、「何を聞いてもいい」というルールがあり、勇気を持って聞いてみることをすればよかったのかもしれませんが、今回にとっては「話し言葉で聞くよりも書き言葉としてが相手に聞きたいことが聞けた」という初めての経験をしました。

 

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4、5月は忙しかったこともあり、あまりインタビューゲームができませんでしたが6月以降は少しずつ余裕が出てくると思います。

興味ある方は、是非私とインタビューゲームをやりませんか?

 

おわり。

本日のつれづれ no.426 〜算数プリントのミスが人間関係を見つめるきかっけに〜

2017.05.23  【428日連続投稿】

 

今日のらくだプリントなら答え合わせをして、よくミスをするときって「ちゃんと確認していないから」ミスが起きているんだと、思いました。

しかし、今月は全問正解の日がわずか2日しかないこともあり、「確認したら、ミスは減らせるんだらうな」と思っていると、気付けば「確認」という言葉に注目していて、算数プリントから飛躍した振り返りになりましたので、書き残そうと思います。

 

今日のらくだプリントは、5ー37で、3つの数字の最小公倍数を求めるという問題でした。最初は、丁寧にそれぞれの倍数を書き出して、一緒の数はどれだろう?というところから始まり丁寧に進むプリントだなぁと感じていました。

 

さらに、例えば3・6・9の最小公倍数を求める問題だとすれば、こんな解き方があると自分で理解できるように問題が構成されています。

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4・6・9の最小公倍数を求める問題だとこんな具合に解きます。

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これのやり方を使えばミスなくできそうで、全問正解できる可能性が高いと思うのですが、私はとてもめんどくさがり屋なので、毎回こんなに書くのは嫌だなぁと思い、すぐにもっと簡単にできるように身の丈に合わない解き方をしてしまうのです。

身の丈に合わない解き方というのは、途中式を書かずに頭の中でやってしまうことが多々あります。

このプリントは32問あり目安時間が8分でした。途中から本当に面倒だなと思って、頭の中でやるようになってしまったのです。

32問解き終わった時点で、4分26秒と目安時間の約半分の時間で溶けていました。いい具合だなぁと思いながら答え合せをしていると、なんと4問ミス。不合格になってしまいました。(ミスが3問以内で目安時間以内に解けていれば、合格)

 

頭の中でやってしまうということは、自分の世界や主観にどっぷり浸かった状態で問題を解いてしまっているということだと思いました。数字というのは、客観性がある思いますが、頭の中にある数字に客観性はないと思いました。

 

2・5・8の最小公倍数を求める問題をちゃんと書いて行えば、答えが40になるのは私にとってそうそう難しいことではありません。

しかし、これを頭の中でやると狂うのです。狂ってしまっていたのです。

 

らくだプリントをちゃんと書いて解くことは、頭の中でやってしまう私にとっては「ちゃんと確認しながら解くということ」だと思いました。

 

こんなことを思っていると突然、確認する作業というのはらくだプリントだけに言えることではなく、仕事についても言えますし、さらに言えば人間関係においてもとても重要なことなんだと繋がり、痛感したのです。

 

こっちが頭の中で思っている情報や他人への見方というのは、本当に正しいだろうか?

そういうのを思い込みと呼んだり、盲点に変わったりするものなんだろうな。

 

自分にとって相手のことを分かりきっていると思うことでも確認がてら聞いてみると、ズレが生じていたなんてことはありそうなことなんじゃないかと私は思います。

ズレていることが、いけないことと言いたいわけではありませんが、確認することは大切なんだと思いました。

 

「確認する」ということは、計算に止まらず人間関係に及ぶ行為になるんだとハッとさせられたので、今回の記事を書くことになりました。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.425 〜いい問い見つけました〜

2017.05.22  【427日連続投稿】

 

今日、いい問いを見つけました。

見つけたというよりも、寺子屋塾の井上さんにシェアして頂いたのですが。笑

 

今年の3月頃に私がどうやら「何を大切にしてますか?という質問は答えにくい」と発言していたそうです。

井上さんは同じようなことを聞きたい時に、他にどんな問い方があるかなぁと考えられていたみたいで、つい最近見つかったとのことでお話しして下さいました。

 

「あなたは、どんなことに目を向けていますか?」

 

これを聞いて、これなら答えやすいなと素直に思いました。

 

じゃあ、問いの何が違うのかと自分なりに考えてみました。

 

「大切にしているものはなんですか?」

というのは、恐らく色んなことを大切にして生きられている人がほとんどで、場面や時期によって大切にしたいことって変わるんじゃないかなぁと思います。それに対して、「大切なこと」というと、何だか普遍的なもののように捉えらガチじゃないかなぁと私は思います。

また、「大切にしたいこと」というと、カチッとしてるといいますか、グレーゾーンなことは言えなくなるように思えます。バシッと「これ!」みたいな感じに迫られる感覚が少なくとも私は若干感じるので答えづらい質問なんじゃないかなと思います。

 

それに対して、

「どんなことに目を向けてますか?」

というのは、ライトな質問のように思える。もちろん、場面や時期によって変化するものであるとは思いますが、そこ目が向くことの奥にはその人が大切にしたかったり、関心があることに繋がるのだと思います。

 

ついついインタビューゲームをしてるときとか、大事な話をする時に「大切なことはなんですか?」とストレートに聞いてしまいガチだが、スッと答えられる人は、私自身を含めそんなに多くないのではないだろうか。

 

そんな時に「どんなことに目を向けていますか?」というのは、視点を変えて相手がはなしやすくしつつ聞きたいことを聞いているナイスな質問ではないかと思いました。

 

今後、使ってみようと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.424 〜欠損女子BARに行ってきました〜

2017.05.21  【426日連続投稿】

 

 昨夜、欠損女子BARに行ってきました。

 

 欠損女子BARとは、義手や義足をつけている女の子がバーテンダーをやっているBARで、お店の名前は「ブッシュ・ド・ノエル」と言います。

 普段は、東京の新宿で月に1回程度不定期にお店を開かれているみたいで、今回(5月20日)は初めて名古屋での開催となったそうです。

 今回の形式は、国際センター付近にある福祉施設の一室を利用して、1回90分(料金6000円)で完全予約制で行われました。

 

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写真(琴音さん)はこちらのHPから拝借。インタビュー記事になっているので、私の記事より詳しいことが分かると思います。

義手・義足の“欠損女子”に会えるバーに潜入 障害は「かわいい・かっこいい」|ウートピ

 

 私が欠損女子BARのことを知ったのは、前日に友人の森戸 力さん(もりと ちから)(以下、力さん)からお誘いがあったからでした。力さんは、時々、私が住んでいるシェアハウス「サムハプ」に遊びにきてくれたり、料理を作りにきてくれたり、ベーコンにつくり方を教えてくれたりと交友がある方です。勝手に「サムハプ料理長」と呼ばせて頂いています(笑)。あと普段は、福祉タクシーを個人でやられております。

福祉タクシー病屋楽子 トップページ

 

 まぁこの力さんがずっと欠損女子BARに行きたかったようで、名古屋開催となったことを知ると、一定人数の予約がなければ開催できないとのことで、すぐにまだ誰も連れて行くことが決まっていないのにも関わらず、10人で予約を取り、今回の開催のためにご尽力されたそうです。結局は、欠席者が出てしまい自分を含め6人で参加しました。しかし、基本的に1人か2人で来る人が多いため、この行動力にはスタッフや他のお客さんから無事開催できたことに対して感謝される程の行動力だったのでした。

 

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(後方の真ん中が森戸力さん。前方の左端は、東京から来られたファンの方でTシャツが義手。)

 

 

 さて、本題の欠損女子BARについてですが、今回は3人の女の子が来られていました。会場には、私たち6人を含め、20人弱お客さんは入っており、今回は、BARの雰囲気というよりも他のお客さんとも席が隣でオフ会や交流会のような雰囲気でした。他のお客さんは東京や岐阜や長野など愛知県以外からも多く来られていました。

 まずは初めての人へのアナウンスと自己紹介からスタートしました。その内、2人の方が片腕が義手で、もう1人の方は片目が義眼でした。事故で失われたり、生まれつき欠損だったりと人によって背景は異なる様子でした。実際に、義手や義眼と取って見せてくれます。義手については、他人が見たら驚かれるから本物の腕そっくりなものを普段は着用されているそうです。

 彼女たちにとっては、欠損女子BAR史上最もお客さんが入った会っだったようで少し緊張気味にお話しされてました。

 

 一番上の写真で登場した琴音さんと少しお話しする機会があり、普段は知り合いの居酒屋で働かれてるとのことでした。普通に面接を受けても、欠損していることがネックでなかなか働きたくても働くことができなかったようです。

 私は仕事柄、日頃から障害のある人と接していることもあり、全く抵抗なく接していましたが、琴音さん曰く、「無いものは無いなりに生きているし、周りから変に気を使われたりするのが嫌だ」と話されていたことが私の中では一番印象的でした。

 

 あっと言う間に90分が終わり、最初は少し緊張感があった会場がワイワイと上がった雰囲気になっていました。私は結構好きな雰囲気でした。

 そんな感じで欠損女子BARを楽しく過ごしてきました。

 

 ちなみに、会場では個人的に撮影や録音等は一切禁止で、形にに残したいなら女の子の1人につき1000円でチェキが撮れます。

 

 詳しくことはネットに記事や動画がいくつかあるのでそちらをどうぞ。

「欠損女子BAR」という義手・義足アイドルが接客するバーに行ってきた・・・五体不満足の乙武さんも話題にした、”欠損萌え”

【琴音×堀江貴文】欠損バー"ブッシュドノエル"編vol.1〜居酒屋ホリエモンチャンネル〜 - YouTube

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.423 〜愛ピックの様子を見て思ったこと〜

2017.05.20  【425日連続投稿】

 

今日は、愛知県障害者スポーツ大会(通称:愛ピック)に生徒の付き添いとして参加してきました。

 

午前中しか様子を見ていませんが、競技者や運営の方々の姿、生徒の頑張っている姿を見ていると、ふと色んな思いが湧いてきました。小学生から大学生までサッカーをしていた私にとってはスポーツというものや何かを達成するとか頭の中で色んなテーマが複雑に絡み合って言葉になっているような、言葉になっていないような気持ちになりました。

 

家に帰って少し休んだ後に、今読み進めている本『寄る辺なき時代の希望 ー人は死ぬのになぜ生きるのかー』(著:田口ランディ)を読んでいると、ふと書こうと思い、今書いています。

 

自分というものをありのままに表現し、認めることができないと、人間は自分を他者の評価によってしか確認できなくなる。そうなってしまったとき、人間はゴミを必要とする。絶対的な無用な存在が必要となってしまう。人権という言葉は、人権を与える人がいるから存在している言葉だ。少なくとも、日本ではそうだ。

 すべての人は唯一無二の自分であると自覚し、他者に頼らずとも自分の弱さもありのままに表現し、自らの堕落を認めれば、他者を蔑むことはない。自分に奢ることもない。人間としての権利は、与えるものでも授かるものでもなくなる。存在するあらゆる生命にとって自明のものになる。

 

『寄る辺なき時代の希望 ー人は死ぬのになぜ生きるのかー』(著:田口ランディ)p.128-129

 

私がサッカーをやっていた時の反省と言いますか、こうしておけばもっと楽しめただろうなと思うことがここに書かれているような気がしました。

 

純粋に楽しむことをすればよかっものを、周りから評価に気を取られ、自分より上を目指すよりも自分を保つために自分より下のものに目を向けてしまうことがあったように思います。そんな時期は楽しくない時期でした。

 

競争によって自分の価値が決まるわけはない。

あの頃の楽しそうにサッカーをしていない自分に、周りからいくら「やったことに価値がある」とか「頑張ったんだからそれでいいよ」と声をかけられたとしても、本人が周りと比べていたらあんまり響かないように思います。

 

「できない」「失敗」からくる情けなさや惨めさっていうのは、「自分は本当はできるようになりたんだ」っていうサインがちょっと違う形で出てきてしまっているだけなんだと気付けばよかったんだと思います。

できるようになるには、自分なりの上手くなり方があるだろうし、進むスピードも周りとは違うのは当然だと思たらさらによかったんだと思います。

 

今さら、気付いたなって感覚だけれども、スポーツに限らず、勉強とか仕事とか他になんでもそうなんだと思う。

 

手に入れたいものを手に入れたいと思うのは、当たり前だと思っていても

手に入れたいものを手に入れられない自分を非難するのも当たり前にしていないか?

 

手に入れたいものを手に入れられない自分をも受け入れられる。

どん底の自分を受け入れられることから、失敗しても元々でなんでも楽しめたらなら、その人はなんでも手に入れられそうな気がする。

 

愛ピックに出ていた人々がそういう人々だということはインタビューをしたわけではないし、言うことはできないですし、私がいいたいことではないんです。でも、彼らの姿を見た私がこのような気持ちになったということだと思っています。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.422 〜押す時と引く時がある〜

2017.05.19  【424日連続投稿】

 

先日、問題が起きることへの向き合い方について書きました。

 

本日のつれづれ no.419 〜問題への向き合い方〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

問題については、色々生じると思いますが、人間関係におけるものは結構多いのではないかと思います。ちなみに、アドラー心理学をはじめ、色んな立場から「全ての問題は人間関係の中にある」と言われるくらいです。

 

最近は、運動会の準備で忙しくしておりまして、色んな人との関わり合いながら進めています。

その時に、問題が起きるというよりもこうなってしまうようになっていて、すでにどうしようもなく一旦、成り行きを引き受けることしかできないなと思うことがありました。

 

こういう感覚になる時が最近は多く、一年前までは「自分から何か動けば何かが変わる」と思って、動こうとしていました。しかし、今は自分ができることと変えようがない部分があり、言うなれば、「押していくときと引く時がある」という感覚になっています。

 

働いて2年目になる違いがこういう形ではじめて感じました。

 

相変わらず、お金を頂きながら楽しく学んでいる感覚で働いている廣安でした。

 

おわり。

本日のつれづれ no.421 〜日常からみた「支えるってこと」〜

2017.05.18  【423日連続投稿】

 

 最近、お味噌汁を作ることが多くあります。

 

なんでだろうな?

GWが開けたくらいから、2日に1回は作っていると思います。

 

もしかしたら、冷蔵庫に余ってる具材で何作ろうかと考えたら、お味噌汁だったらできそうだと思ってから作るようになったのかもしれないです。

 

昨日は、一昨日作っておいた味噌汁を鍋で温め直そうとして火をつけた後に、その間部屋に入ってブログを書こうとしていたら、ウトウトしていまい、気づけば日をまたいでいました。

 

「しまった!」と思い、キッチンへ行って鍋を見てみると、汁なしで具材しか残っていませんでした。

次に、もしかしたら大惨事になっていたかもしれないことに気づいて、火を止めてくれたシェアメイトに感謝の気持ちと申し訳ない気持ちになりました。

 

今晩、シェアメイトに会うと当然「あれは危なすぎだったぞ」と言われました。

完全に一人で暮らしていたら、どうなっていたか分からない事態です。心底、自分の中で自戒しました。

 

それと同時にやっぱり人と人は助け合うというか、支え合ってというか、一人じゃ生きれないんだなぁと思いました。

助け合うとか他人を支えるとか、なんだか自分から良いことしようとする側面が強い印象を持ってしまいがちだと私は思っていますが、一緒にいるだけで、助け合ったり支え合ったりしてるのではないかと思うのです。

 

自分は相手を支えていないつもりでも、支えている部分はきっとあるんじゃないかな。

いやむしろ、支えられてるという状態は、互いに支えようとしていないから生まれるのかもしれない。

客観的にみたり、後から振り返ると支える状態だったり、助け合っていたとか思うのではないだろうかと思いました。

 

だから、助けようとか支えようとか思わなくても、きっと誰もがどこかで誰かと助けたり支えたり、助けられたり支えられたりしてるのではないかと思いました。

 

おわり。