名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.619 〜「唐揚げを食べること」は意志か?選択か?〜

2017.12.13  【631日連続投稿】

 

 私は好きな食べ物はズバリ唐揚げです。少なくとも一週間のうち4食は唐揚げを食べてるんじゃないでしょうか?

 

そんな私にとって「唐揚げを食べることは、意志でなされているのか?選択によってなされているのか?」ということを考えて見たいと思います。

 

参考にする文献は、最近ブログに頻繁にあげている『中動態の世界』(著:國分功一郎)です。

 

 

まず、意志と選択の言葉がどのように異なっているのか見てみましょう。

 

 意志の概念は責任の概念と強く結びついている。このことは「意志」が、その日常的用法においても何ごとかを始める能力として思い描かれていることを意味している。何らかの行為を自らの意志で開始したことと想定されるとき、その人はその行為の責任を問われるのである。

 

ある行為が過去からの帰結であるならば、その行為をその行為者の意志によるものと見なすことはできない。その行為はその人によって開始されたものではないからである。たしかにその行為者は何らかの選択はしたのだろう。しかしこの場合、選択は諸々の要素の相互作用の結果として出現したのであって、その行為者が己の意志によって開始したのではないことになる。

 日常において、選択は不断に行われている。人は意識していなくても常に行為をしており、あらゆる行為は選択である。そして選択はそれが過去の帰結であるならば、意志の実現とは見なさない、ならば次のように結論できよう。意志と選択は明確に区別されねばならない。

 

國分功一郎『中動態の世界』p.130~131 一部抜粋

 

以上のことを踏まえていうと、

まず唐揚げが大好きな私の場合は「唐揚げはめちゃ美味しい」と知っている。

美味しいと知っていることは、過去に食べた経験があるからである。

その時点で既に、過去に帰結しており、選択をしていることになる。

よって、「唐揚げを食べること」は自分の選択である。

 

逆に、「唐揚げを食べること」を意志だと考えるならば、このような状況でなければいうことはできない。

まず、唐揚げを食べたことも見たことも、聞いたこともない。

過去に何の帰結しない、過去から見ても何も知らない。ということが必要だろう。

もっと言えば、鶏肉は食べられる、他人から食べるように唆されていない、過去や周りから何も影響を受けずある時突然唐揚げを口にした。そのそのような状況がもしあるなら、意志で「唐揚げを食べる」ということができるだろう。

 

よく「自分の意志を持て」など耳にすることがある。進路や今後のことを迷っている人に、言われてそうだ。

でも、よく考えれば「意志を持つってことは、0から何か始めろ」と言っているに等しいことのように思える。

言葉っていうのは、難しい。使う人が10人いれば10通りの意味で使うし、聞く人が10人いれば10通りの意味で聞く。

だからといって、明確に決まっていた方がいいなんてことはなく、それぞれがどんな使い方や聞き方をしているのかを知っていく気持ちがあれば、言葉以上に分かることができるんじゃないかと思っている。

 

今夜は、唐揚げが食べたい気分です。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.618 〜始める理由はなんでもいい。読書編〜

2017.12.12  【630日連続投稿】

 

今日は読書の話をしようと思います。

 

20歳くらいまでは、サッカーの本くらいしか読んでいませんでしたが、今ではそれよりは読む本の幅が広がったように思います。どんなジャンルなのかよく分かりませんが、小説では少なく、他人の考えてることから学ぶために読んでいる感覚を持っています。

 

読書するようになったきっかけは、単純に「ある賢い人がかっこよく見えて、その人がたくさん本を読んでいて、考える人だったから」でした。

 

単純に言えば、「憧れ」や「賢くかっこよく見られたい」ということでした。

 

あと、よく集まる人たちが本の話をしているから、みんなが話すネタの本は読んでおいた方が、話に混じれるからというのも大きく影響しているように思います。

 

そんな理由で本を読み始めましたが、読み続けてみると面白さに気づいてきました。

本を読んだ時に、忘れていたものを思い出すようにハッとなることや自分では上手く言えないことを言ってくれていることなど、そんな心が動く瞬間が本を読んでいるとあります。

 

そんな経験もあって、すっかり今は本を読むことと無縁な生活ではなく、気になる本があるとすぐにアマゾンでポチっ買ってしまう生活に変わってしまいました。

 

ということで、始める理由はなんでもいいシリーズが始まる予感がしています。

 

おわり。

本日のつれづれ no.617 〜それぞれの学びは異なるのだから...〜

2017.12.11  【629日連続投稿】

 

週に1度通っている寺子屋塾やはてなブログ、FB(Facebook)から、色んな人からの学びを聞いたり読んだりすることは、すっかり私の生活の一部になっています。

 

週に1度は、寺子屋塾に行って色んな方と最近読んだ本や出来事をネタにお話しをします。

毎日、FBを眺めたりはてなブログで私が読者登録していて更新してる人の記事は読みます。

 

他の人の学びを聞くことで、自分が思ったことをブログの記事に反映させることもあります。

 

最近思ったのは、人それぞれ学んでいることは違うってことです。

 

たとえば、同じ本を読んでいても学んでいることは違うと私は思っています。

 

違うからこそ、面白いです。

違うからこそ、学び続けられると思います。

 

あの人はこんなに学んでいて、自分なんてと悲観する必要なんて全くなく、自分の学びを自分なりに進めればよいです。

 

これについて、どれだけの知識を得られているかを確認することは必要なこともあるでしょうし、他人と比べて勝った負けたで楽しむこともあるでしょうが、得たものをどう生かすかは、人それぞれ異なります。

 

同じことを学んでいても学ぶスピードは異なります。順序も異なります。

 

焦らず、自分のペース学んでいくことが本当に学びなのかもしれません。

他の学びの出来の様子を伺いながらの学びは、きっと学び本来の楽しさはなく、勝ち負けの楽しみです。

 

学び本来の楽しさは、尽きない楽しさがあると僕は思っています。何より、自分しか得られない楽しさがあるので、自分が1番楽しむでいる。それぞれ自分が1番楽しんでいることをしているんだから、比べる必要もないわけです。

 

学んでいる楽しさは誰かに公開しなきゃいけないことなんてないです。

自分の中に学んでいる楽しさを持っていれば、それは価値あるものです。

 

ただ、本当に楽しく学んでいる人は、ついつい人に聞いて欲しくなってしまうんでしょうね。

 

私もその一人なんだと最近思い始めました。笑

 

 最近思った「人それぞれ学びの過程は異なる」という言葉から思ったことを綴りました。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.616 〜國分功一郎『中動態の世界』-意志と選択は違う-〜

2017.12.10  【628日連続投稿】

 

 「人はプロアイレシスという選択の能力は意志の先駆けであると結論したくなりがちである」。

 これはもちろん、どれだけ意志の能力に似かよっていようとも、プロアイレシスは意志の能力ではないということである。どういうことか詳しく見ていこう。

 アレントはまず、もう一つ別の哲学用語を引き合いに出す。それが、中世にさかんに論じられたラテン語の哲学用語、「リベルム・アルビトリウム liberum arbitrium」である。この語はしばしば「自由意志」と翻訳されるけれども、これは正確な翻訳ではない。arbitriumはもともと、「判断」や「判決」といった意味であり、したがって、どちらに理があるかを判断するという意味での「選択」でもある。そこに「自由な」意味を形容詞liberumが付されている。

 さて、リベルム・アルビトリウムは、何か新しいことを始める自発的な力とか、他の何ものにも支配されず自らの法則のみに従う自律的な能力のことではない。「リベルト・アルビトリウムは、自発的でも自立的でもない」。リベルム・アルビトリウムは理性の指導や欲求の誘いに基づいて行われる選択である。

 そして、アレントによれば、アリストテレスの語ったプロアイレシスとは、まさしくそうした能力のことであるのだ。それは「欲求に伴う知性」であり「思考を伴う欲求」であったのだから。

 すなわち、プロアイレシスに対応するのは意志ではなくて、リベルム・アルビトリウムだと考えねばならない。それは自発的・自律的に何かを始める能力ではなくて、理性が肯定し、欲求が追求する、そうした何ごとかを選択する能力に他ならない。

 

國分功一郎『中動態の世界』p.127~128

 

これは意志と選択の違いの一つに過ぎず、これからさらに深まっていきます。

 

おわり。

本日のつれづれ no.615 〜國分功一郎『中動態の世界』-「選択」という契機を挟み込んだアリストテレス〜

2017.12.09  【628日連続投稿】

 

 理性と欲望の二つだけを行為の動員とする限り、どうしてもうまく説明できない事態が生じてしまう。そこでアリストテレスは新たな概念を提示する。それが、プロアイレシスの概念である。

 しばしば「選択 choice」と翻訳されるこの語は、「選択を意味する名詞(ハイレシス)に、「前に」「あらかじめ」などを意味する接頭辞の(プロ)がついてできた語であり、『ニコマコス倫理学』における説明によれば、「他の諸々のものに先立って何かを選ぶ」ことを意味する。

 アレンとはこの語をアリストテレスによる造語と言っているが、実際にはアリストテレス以前からこの語は存在している。とはいえ、アリストテレスの著作のなかでこの語が独自の意味を込めて使用されていることは事実であり、この語がそこで新しい概念として練り上げられたと言うことはできるだろう。

 〜中略〜

 理念と欲望の相互作用のなかでプロアイレシスが成立し、行為が遂行される、アレンとの言い方を借りれば、プロアイレシスは両者の間に挟まって媒介の役割を果たす。行為の端緒はプロアイレシスであり、プロアイレシスを生み出すのは理性と欲望である。

 プロアイレシスにおいて理性と良き暴徒が混じり合う様を指して、アリストテレスは、プロアイレシスは「欲求を伴う知性」であり、また、「思考を伴う欲求」でもあると述べている。すると無自制は、プロアイレシスが理性よりも欲望により強く影響されて成立している状態を指すと考えられるだろう。

 プロアイレシスの概念を設定することにより、理性と欲望の影響力の度合いを考えることができるようになる。先ほどの矛盾は、理性と欲望の影響力の度合いを考えることができるようになる。先ほどの矛盾は、理性と欲望が直接に行為を生み出すと想定したがために現れたものだと考えればよい。

 

國分功一郎『中動態の世界』 p.126~127

 

おわり。

本日のつれづれ no.613 〜やる気は続けることに関係ない〜

2017.12.08  【627日連続投稿】

 

最近、國分功一郎さんの『中動態の世界』を読んでいます。大体1/3程読み進めているのですが、私がブログやらくだプリントを毎日取り組んでいる中で気づいたことと繋がっていることがありました。

 

やる気があるから続けられるのではなく、やる気以外の色んな要因によって続けられるし、続けられないのです。

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.612 〜國分功一郎『中動態の世界』-理性と欲望だけでは説明できない-〜

2017.12.07  【626日連続投稿】

 

 およそ人が「自発的」に行うことは、すべてこれを願望して行う。そしてよくないと思われることを願望する者はいない。すると、自制心のない状態は誰しもがよくないと思うことなのだから、そうした状態に陥っている者は、自分が願望していることを行いつつ、自分が願望していることを行なっていないことになる。

 ということも、その人は、欲望に基づくという意味では願望に従っている(つまり、やりたいことをしている)のに、理性に反するという意味では願望に従わずに行為している(つまり、やりたいことをしていない)ことになるからである。これは矛盾であり、「不可能なことである」。

 分かりやすく言えば、いったい、やりたいことをしているのかしていないのか、どちらかなのか説明が付かないということだ。

 

國分功一郎『中動態の世界』p.125~126

 

やりたいことをやることが自発的であれば、やりたくないことをやることは何になるのだろう。

 

やりたいことだけをやることが自発的であるというのなら、自発的な自分ってなんて狭い世界で生きているのだろうと思う。

 

やりたくないことをやるのは、理性があるからなのだろうか。

やりたいことがあるけどやらないのは理性があるからなのだろうか。

 

どうやら、やりたい(願望)とやらない(理性)のどっちかで人は生きてはいないように思えてきます。

 

おわり。