名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.1244 〜環境のノリに乗っても、乗れなくても困る問題〜

2019.09.19 【1274日連続投稿】

 

現在、少しずつ読み進めている本である『勉強の哲学』(著:千葉雅也)に人間は大抵環境のノリによって生きていると書かれている。

 

 私たちは、いつでもつねに、環境のノリと癒着しているはずです。

 会社のノリ、育った家族のノリ、地元のノリ、・・・自分にとって、とくに支配的なノリもあるでしょう。たとえば、中学時代の仲間のノリが何をするのでもベースになっていて、その延長上にいまの仕事のやり方もある、というような。

 たいていは、環境のノリと自分の癒着は、なんとなくそれを生きてしまっている状態であって、分析的には意識されていない。

千葉雅也『勉強の哲学』p.28〜29

 

本書に書かれているとおり「たいてい」というところに私は注目したい。

ほとんどの人という意味での「たいてい」とも捉えられるし、

ほとんどの場面という意味での「たいてい」とも捉えられる。

 

「たいてい」というところに気になったのは、環境のノリに乗れない人が一握りいるということではないかということである。

 

本書の意図ではないと思うが、環境のノリきれないで、弾き出される一握りの人も存在する。

弾き出されるか、環境のノリに癒着し生きていくか。

 

そこから自由になるには、

弾き出されても生きていく力をつけていくか。

ノリに乗らなくても生きていく力をつけていくか。

ということではないでしょうか。

 

だから、環境のノリに乗れても困るし、乗れなくても困る問題両方あるんだと思いました。

 

本書を読み進めながら、解決の糸口があるのか考えてみたいと思います。

本日のつれづれ no.1243 〜勉強とは、自己破壊である。 『勉強の哲学』千葉雅也より〜

2019.09.18 【1273日連続投稿】

 

積読本の1冊であった千葉雅也『勉強の哲学』をようやく読み始めた。

 

その冒頭一部を今回は紹介したい。

 勉強とは、自己破壊である。

では、何のために勉強するのか?

何のために、自己破壊としての勉強などと言何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?

それは、「自由になる」ためです。

どういう自由か?これまでの「ノリ」から自由になるのです。

 

 私たちは、基本的に、周りのノリに合わせて生きている。会社や学校のノリ、地元の友人のノリ、家族のノリ・・・そうした「環境」のノリにチューニングし、そこで「浮かない」ようにしている。日本社会は「同調圧力」が強いとよく言われますね。「みんなと同じようにしなさい」ーそれは、つまり「ノリが悪いこと」の排除です。「出る杭は打たれる」のです。

 しかし、勉強は、深くやるならば、これまでのノリから外れる方向へ行くことになる。

 ただの勉強ではありません。深い勉強なんです。それを本書では、「ラディカル・ラーニング」と呼ぶことにしたい。ラディカルというのは「根本的」ということ。自分の根っこのところに作用する勉強、それを。僕にできる限りで原理的に考えてみたいのです。

 

千葉雅也『勉強の哲学』p.18〜19

 

おわり。

本日のつれづれ no.1242 〜筆談から気づいた普段のコミュニケーションでの盲点〜

2019.09.17 【1272日連続投稿】

 

ここ2日間ほど、筆談でコミュニケーションを図る機会があります。

 

そこで思ったことは、いかに普段のコミュニケーションに円滑さ・スピード感・効率を求めてしまっているのかがよく分かりました。

 

一見、チャットやメールを相手としているのと同じではないかと思われる人もいらっしゃるかと思うんですが、相手を目の前にして、ペンを使って書くからこそ分かることがたくさんあるのです。

 

ペンを持って書くまでの間であったり、

字の美しさであったり、

直接的な言葉以外でも伝わることはたくさんあるのです。

 

コミュニケーションをおざなりにならないように、気をつけようと思える機会となりました。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.1241 〜変わる人・変わらない人〜

2019.09.16 【1271日連続投稿】

 

障害者の就労支援の現場に関わり出して、1年半が経つ。

 

変わっていく人と変わっていかない人の違いを見てみると、

しっかりと苦労をしているかどうかである。

 

自分の人生の苦労を自分事として、捉えている人は自然と変わっていくし、苦労を自分一人で抱え込むことも誰かのせいにすることもしない。

 

自分の人生は自分だけで生きているのでもなく、他人のものでもないことを知っている人は変わる人だと思う。

 

おわり。

本日のつれづれ no.1240 〜大杉谷林間キャンプ村に行ってきました。〜

2019.09.15 【1270日連続投稿】

 

この土日は、4ヶ月ぶりにキャンプに行ってきました。

 

場所は、三重県の奥伊勢大台町

清流の綺麗さ日本一にも輝いたことがある宮川が流れており、とてつもなく美しかったです。

 

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地元が伊勢の方が取れたてのガザミを持ってきてくださり、贅沢に焼いたり味噌汁にしたりして、今回のキャンプは贅沢な食を堪能しました。

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今夜は余ったお酒と食材を肴に来月行くキャンプの計画を練ります。

 

おわり。

 

テント泊にもすっかり慣れていますが、今回はなんと蚊の侵入を許してしまい、23〜8時くらいまでぐっすり寝る予定が、痒くて眠れず、5時には起きて一人で焚き火をしていました。

 

やっぱり自分は焚き火をしている時が一番好きで、頭を空っぽにしてくれます。

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本日のつれづれ no.1238 〜キャンプのため連絡できません〜

2019.09.13 【1268日連続投稿】

 

9月13日12時〜9月14日12時までキャンプのため、連絡つきません。

電波が届かない場合もありますし、電波が届いても電子機器触らないので連絡つきません。

よろしくお願いします。

 

おわり。

本日のつれづれ no.1237 〜「気づかせたい」に陥らないために〜

2019.09.12 【1267日連続投稿】

 

教育者や支援者の間では、よく「気づかせたいから」あえて言わないということをしばしばある。

 

しかし、それは無理な話である。

 

本人の自発性をこちらから意図的に気づかせるのは、そもそも矛盾しており、気づかせられたのなら、自ら気づいていないからである。

 

「気づかせたい」は、そもそも気づかせたいと思っている本人は、気づかせる相手をどう思っているのだろうか?

 

僕はどうも上から目線の要素が含まれてしまうんじゃないかと思う。

 

「気づかせたい」というのは、気づかせたい側の欲が見え隠れする。

 

自ら気付くのがいいとは思いつつ、その人が成長して欲しいと思いつつ、

期待はしない、目的にしない。

これが僕のスタンスかなと思う。

 

言うことは言わなきゃいけない。

という場面が出てくるときは、成果が出さないといけない時や評価しないといけない時。

 

そんな場面に「気づかせたい」を思うのであれば、甚だナンセンスなんだと肝に命じておこう。

 

おわり。

本日のつれづれ no.1236 〜利用者の自力を垣間見た〜

2019.09.11 【1266日連続投稿】

 

今日は職場での話。

 

うちの職場B型事業所ゆい・ピースでは、代表のボブさんこと大村の交友関係の広さから色々な方が見学に来てくださいます。

 

今回は、ブログ代行の仕事も委託して頂いている元教員のスポーツデザイナー真崎さんにお越し頂きました。

 

今回は、ブログの仕事をしてる利用者も含め、現状の評価と今後の話をしました。

その中で利用者Mさんは、しっかりと自分の意見を伝えられていて、真崎さんもしっかり聞いて頂いて、建設的な仕事の話がされていました。

「僕から見て、このサイトを読者目線で見てこう思うんですけど、どうですか?」

言ってしまえば、ブランディングの話をしっかりできていて、視点も鋭い。

 

気付けば、何でブログを書いているのか?

このブログで読者がどうなって欲しいか?

事業をする上で最も重要な理念を大切にしながら、仕事をしようとお互いが協働して利用もその土俵に乗って話ができていました。

ようやくここまできたか。

 

そして、利用者Mさんは真崎さんを信頼したのでしょう。

これまでの人生の経緯を話しながら、真崎さんの仕事を通じて自分の能力を発揮する機会や価値を感じられたことを伝えていました。

お互いガッチリと握手をしていた姿をみて、自称コミ症のMさんの本来の自力を観た感覚になりました。

 

今後は、直接真崎さんと利用者がチャットで仕事のやりとりができるようにしたりと、よりB型事業所にいても色々な体験を積んで社会に出ていけるようにしていきます。

 

おわり。

本日のつれづれ no.1235 〜お金にも想いが乗っている〜

2019.09.10 【1265日連続投稿】

 

うちの会社が運営している就労継続支援B型事業所は、障害がある方が一般企業に就職するために、仕事をしながら訓練したり、一般企業に勤めるのを望んでいないけど働きたいと言った方が働いている。

 

働いて頂いているから、もちろん給料(正確な言い方は「工賃」)を支払うのだけど、全国のB型事業所の平均の給料(工賃)は、約15,000円という統計が出ている。

 

うちの会社は、毎日出勤してフルタイムで働いている人は平均と同様か少し超えるくらいの工賃しか払えていない。

 

現在、利用者(働いて頂いている障害のある方)の給料(工賃)の一部見直しを考えている。

当初は、数字は嘘をつかないから現状からどれくらい上げられるのかという思考で考えていた。

 

しかし、色々と数字を見ている間に考え方が変わってきた。

現状いくら払えるかという思考も大切だが、それよりもいくら払いたいのかという思考も大切なのではと思うようになった。

 

給料=仕事への対価

 

教員をやっていた時も、今の仕事も、自分に与えられた仕事をこなせば、給料分の仕事はしてるだろうという気になっていたのだが、違うことに気付いた。

そのお金には、支払う側から受け取る側への想いが乗っているんだろうなって、今となって気付く。

 

それは、感謝であったり、期待であったりするのだろうけれども、お金も一つの道具であり渡してしまったらその人がどう使おうが自由だけれども、その人にお金を渡してどうなって欲しいか。

 

その気持ちが今までお金の中にあるとは思っていなかったが、今となって支払うことを考える立場になって気付いたことである。

 

そして、この仕事で渡す側にならないと気付けなかったことでもあるんだろうと思います。

 

おわり。