2018.01.05 【654日連続投稿】
久々のアマゾンプライムビデオからのネタです。
最近は、ずっとNARUTOを見ていましたが遂にアマゾンプライムで観れる分は全て見てしまいました。ただ、ここからストーリーのクライマックスに入ってくところで、終わってしまっていたので、続きも観れるようになるといいです。
すみません、 NARUTOは完全に余談でした。
今回の本題は 2017年の 秋から始まったアニメ『ボールルームヘようこそ』です。
この作品は、競技の社交ダンスを舞台に描かれています。社交ダンスといえば、映画「shall we dance」や昔あったバラエティ番組「ウッチャンナンチャンのウリナリ」での芸能人社交ダンス部が私は思い浮かびました。
この『ボールルームヘようこそ』は主人公の高校生 富士田多々良が何か夢中になれることを探している中ダンスに出会い、ダンスを通した成長を描いています。アマゾンプライムのレビューでは、「コッテコテのスポーツもの」「正統派スポーツもの」と呼ばれているようです。
たしかに、社交ダンスを全く知らない私が見てもストーリー自体面白いですし、絵のこだわりがあるなぁと感じて楽しめます。
ただし、今回私が書きたい本題は、この作品からダンスを通じて「お互いを尊重すること」「対の関係性(1対1)をどう捉えるか」というような事が描かれていると思ったことです。
内容に少し触れると主人公の多々良はパートナーの千夏となかなか息のあったダンスを踊る事ができません。いくつもの衝突を経て、都民大会の決勝まで来た時、多々良の師匠の仙石さんから多々良へ電話があります。その時、発した仙石さんの言葉に心動かされました。
少し難しい話をしようか。
お前が理解できなくても構わない。
分かったつもりになることはできるんだよな。他人ってやつは。
でも、つもりはつもりでしかない。
他人ってのは、結局不確定なものだ。
そこに一つの世界があるみたいに。
人類が世界の全てを解き明かせないように、俺たちは他人を解き明かすことなんかできないんだ。
理解できないものが目の前にあるってのは、恐ろしいと思うか?
目の前にいるのはなんだ?
自分の別の存在がそこにいて、それを理解できないということを知った時、
それは、どんでもなく愛おしいものじゃないか?
それだけで、自分が自分であったとよかったと。
そう思わないか?
Amazonプライムビデオ 『ボールルームへようこそ』第23話より (マンガでは、45話)
「自分と別の存在がそこにいて、それを理解できないということを知った時、どんでもなく愛おしい存在だと思わないか?」
この言葉は、作者が本作で伝えたかったことの1つだったのだろうなと思いました。
理解できないと知って、諦めるのでもなく、怖がるのでもなく、愛おしいと感じる。この感覚はすごいなと思いました。
人と分かり合えなくても、大丈夫。
自分は自分でいいし、相手も自分と同じように愛おしい存在。
ついつい、分かろう分かろうとするあまりに苦し来ることがあると思うが、そんな時に思い出したい言葉だと思いました。
明日はサムハプでインタビューゲーム会です。どんな場になるか楽しみです。
おわり。