名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.335 〜いつでも変わらないこと〜

2017.02.14 【330日連続投稿】

 

何かを成し遂げたり、達成したとしても次の日には日常が待っている。

 

一瞬の華々しく輝く時は、一瞬最高の気分になるが一瞬の輝きにすぎない。

 

何かを変えたいという気持ちは、自分の欲から来ていることをまずは自覚したい。

 

何かを求めるということは、自分の手元にはないと思っているものを自分のものにしたいと思っていること。

そういうものは、手元にきてもずっと手元にあるわけではない気がする。

 

「いつもは早く過ぎ去ってしまえ」と思ってしまっている時間もやりたいことをやってる時間も同じ1秒が存在している。

 

むしろ、自分が多くの時間をかけて過ごしていることを大切に生きたいと思っている。大切に生きるってのは、どう言うことなのかはっきりと言えないけれども、自分の考えや気持ちを無視せずに生きたいことは大切にしたい。

 

自分を大切にしたいという気待ちは、どんな時も変わらないのだと思う。

 

さてさて、今日も学校に行くのが楽しみだ。

 

おわり。

本日のつれづれ no.334 〜「おばけ」はつきまとうんだなぁ〜

2017.02.13  【329日連続投稿】

 

思い通りにならないことにイライラするくらいなら、今の自分にできることや与えられたことを愚直にやればいいと思う。

 

大抵、イライラしたり落ち込んだりする時って自分にとって想定外な出来事が起きることから生じるのではないだろうか。

 

先のことなんて誰にもわかりゃしないのだし、想定外なことなんか毎日起きているはずなのに、いちいち振り回されるのはなんだか馬鹿馬鹿しい。そんなこと頭で分かっていても、いざ日常に浸かると私は忘れてしまいがちになってしまう。

 

いや、想定していたけれども、いざその瞬間になればすぐに受け入れられないこともある。

 

そんな時は、感情にどっぷり自分が全て浸ってしまっていて、私は感情に振り回されてしまうのだろう。

 

どっぷり浸ってしまっている時に救ってくれるのは、他者であったり別の自分であったりする。

気付く時ってのは、やっぱり、自分で有りもしない「おばけ」のような存在を自分自身で作り上げていると気付く時だと思う。

私が言う「おばけ」は、自分の主観の中で作り上げてしまった事実に基づかないこと。

 

例えば、職場の人に挨拶したのに返してもらえなくて、「その人から嫌われている」と思うのは自分で「おばけ」を作ってしまっている状態だと思う。

そもそも聞こえていなかったかもしれないし、挨拶を返す余裕がないくらい考えにふけっていたのかもしれない。

人は頭が良すぎて、本当か分からないことを繋げて考えてしまうのかもしれません。

 

もしかしたら、世の中の色んなことを複雑にしている要因の大きな一つが各人がそれぞれ作り上げている「おばけ」なんじゃないだろうか?

 

他人の中のほんの一部だけ見て、羨んだり遠ざけたりするのは自分の中で「おばけ」を作ってしまっているからだと思う。

 

「おばけ」を作ってしまってると気付くことができると、目の前がパッと明るく開けた感覚に私はなります。

 

おそらく「おばけ」を一切つくらない人間はいないのだと思う。だから、おばけを作ってしまう自分を評価しないことは肝心なことだろう。一生、「おばけ」がいつどこでつくるか分からない自分と仲良く歩いて生きたいものだなぁと思う。

 

おわり。

インタビューゲーム日記 no.33 〜言葉にならないことを汲むこと〜

2017.02.12  【328日連続投稿】

 

インタビューゲーム33人目のお相手は、清藤明日香さん。

 

《インタビューゲームとは⁇》

          ↓↓↓↓↓ 

インタビューゲームについて - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

今回は、4人で集まってインタビューゲームをやることになりました。まだやったことない相手とやろうということで、私は清藤さんとやることになりました。

 

もうひとペアの岡田美春さんと小池菜月さんも盛り上がっていました。

 

清藤さんとは、大学時代からの知り合いですが、あまりお話ししたことがなく、お会いするのも久しぶりでした。

いつもは20分ずつのインタビューなのですが、今回は時間が限られていたので、15分ずつのインタビューでした。またお話したいと思う時間となりました。

 

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【言葉にならないことを汲むこと】

 

 今回は15分といういつもより短い時間でしたが、清藤さんからの質問が私の本質をつくような質問で、時間が足りないながらも深く濃い15分だったと思います。なかなか聞かれないと話さないことを聞いてもらったこともあり、私自身上手く言葉にできていないなぁと感じながら話していました。話もあちらこちらに飛んでいるような気がするし、なんだか言葉がフワフワ浮いているような感じで話し続けていました。言葉が見つからず沈黙の時間もあり、言いたいことすら言えなかったと私は感じていました。こんなにモヤモヤと言葉が見つからないまま終わったのは初めてだったかもしれません。 

 

 書いてもらった文章には私が口にした言葉を上手く繋げてもらえて、こんなことを言ったのかぁと思っていました。どちらかというと、清藤さんの主観や清藤さんから見た廣安はあまり存在しておらず、極力私の口から出た言葉を使って書かれていたような気がしました。

 

最後に4人で書いてもらったものを読み合わせて、それぞれ感想を書くことを今回の振り返りとして行いました。短い時間の振り返りでしたが、皆さんから素敵な感想を頂け、深い気づきがありました。

 

清藤さんから頂いた感想を引用させて頂きます。

自分と向き合うことはもっと深いこと。

それはやっぱり、ひろやす本人からの口から伝える言葉が一番しっくりきた。

 

お互い言葉にならないけど、なんか伝わってるというか感じていることがあるんだろうなということが私はとっても嬉しかったです。「その気持ち分かるよ」と言葉で言われる以上に、共感をしてくれた気分になりました。言葉にならないことに関心を寄せてもらえたこと、私自身も上手く言葉にできないことを分かってもらえた気が私はしました。

 

伝わることが良いコミュニケーションで伝わらないことが良くないコミュニケーションっていう考え方があるかもしれませんが、伝わらないことをお互いが分かる。そこにはもっと何か大切なものがあるんだろうなと感じました。

 

ずっとこの感じはなんだろうと思っていましたが、「言葉にならないことを汲んでくれた」優しさなんじゃないかと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no. 333 〜人狼ゲーム@サムハプ〜

2017.02.11  【327日連続投稿】

 

今夜は、住んでいるシェアハウス「サムハプ」で人狼ゲームをしました。

 

1ヶ月ほど前にも人狼ゲームをやってまたやりたかったので、友人に声をかけて6人集まりました。

 

まずは鍋を食べながらお話していると、人狼より話してるだけでも楽しい感じであっという間に時間が過ぎていました。

 

人狼ゲームってお互いを疑ったりするゲームだけど、ゲームだから安心して疑えるなって思いました。

 

ゲームだから普段は見せないその人が出てきたりするんだと思いました。

 

廣安はとにかく「ポンコツ」みたいです。

 

また、ゲームが終わるたびになぜか自然とみんなで振り返りが行われているのは、毎回不思議な感じになります。

 

振り返りが次に生かされることもあれば、そうならないこともあります。

 

どうなるか分からないし、人が変わればまた異なる感じで行われる。

 

とても人が表現されるゲームだから、またやりたいって思うのかもしれませんね。

 

3月もやろうと思ってます。

次は8人くらい集まってやりたいなぁと思っています。

 

おわり。

本日のつれづれ no.332 〜目の前からやるべきことが無くなることなんてないんだからさ〜

2017.02.10  【326日連続投稿】

 

目の前からやらないといけないこと・やるべきことが無くなることなんてないんだからさ、やること全部やり終えて、やることなしって状態じゃないと落ち着かないのは辛いなぁ。

 

そういう考え方だど、いざやることが無くなったとしても暇を持て余すことに落ち着かなさを感じてしまうわじゃないかな〜。

もしくは、次はいつやることがやって来るのか?とソワソワしながら待っていたりするかもしれない。

 

やることに対して「やらなきゃ」「やらなければならない」という気持ちがあるから、目の前の忙しさに翻弄されるんだろうな。

翻弄されてもいいけど、翻弄され続けると辛いな。

 

時には、自分と過ごす時間を取ることがやることに対して「やらなきゃ」「やらなければならない」という気持ちを外してくれると思うな。

 

料理を作るのもいいし

あったかいコーヒーと共に読書するのもいいし

ゆっくりお風呂に入るのもいいし

音楽聴くのもいいし

ぼーっとしてもいいし

自分と時間を共にする。

 

そんな時間があるからこそ、やることにグッと力を入れたいときに入れることができると思う。

 

忙しさの中にいると、大切にしたいこととかついつい忘れがちになってしまうときがある。

 

自分と過ごすと大切なことは大切にする環境だと思うから、自然と自分に大切なことを思い出すのではないかと思います。

 

最近、私にとって書くことは自分を緩めることにもなってきています。

マッサージやストレッチで体を緩めるのと同じように感じることを書くことによって心が緩まる気がしています。

 

仕事で疲れていても、帰りの電車の中で書いていると家に着く頃にはスッキリしているのです。

以前は、家に帰ってまずブログを書いてらくだプリントをやった後にご飯を食べると22、23時過ぎになっていたのですが、最近は時間ができてゆったりお風呂に浸かることもできているのは、自分にとって驚きです。

 

自分がどんなことをやれば緩むのかを知ってることって大切だなと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.331 〜ざわつく心・できない時を大切に◎〜

2017.02.09  【325日連続投稿】

 

なんだか心がざわついてると思っても、立ち止まることができない時はあると思います。

 

そんな時は、気付くことができていればいいと思えばいいような気がします。

 

なんかざわついて、目の前のことが手についていない状況の時は、この調子でいると落とし穴に落ちるというか、トラブルが起きそうというか、何か起きるだろうという感覚になります。

 

それは、らくだプリントをやってる時に「今日は調子が悪いな〜」「間違えてそうだなぁ」と感じる感覚によく似ていると思います。

 

常に周りの状況が変わり続けている仕事場などでは、ざわついてる真っ最中の気持ちをフォーカスすることは難しい。それより目の前の子どもを見ることを優先させなければと思っているからです。

 

でも、他人と接していても他人を通じて自分の気持ちを知ることにも繋がってしまいます。結局は、自分のざわつく気持ちを無視しているとざわつく気持ちはどんどん膨らんだいくばかりなのです。

 

自分なりに気持ちを掘っていくと、これは明らかに自分の失敗やミスだということを自分が自分に突きつけてしまうことだってあります。

自分の気持ちを掘っていくことは、誰かに責任転換したり、合理化することではないと思うからです。

気持ちを掘り下げていくと、自分の卑しさや未熟さなど受け入れたくない自分を発見してしまってもあるかもしれません。

気持ちが沈んで、もう何もやりたくないと思うかもしれません。

それでも「まぁ、いっか」と思えて目の前のことにスッと入り込める時は、今の自分を受け入れてるってことなんじゃないかと思います。

 

そんな時の自分は結構エネルギーが出ている気がします。

自分の弱さを知って受け入れた状態は強い気がします。

できるかできないかで判断しない感覚で何事にもスッとやる姿勢になっているからだと思います。

やる前にじっくり考えるよりもやりながら考える状態になっているからだと思います。

 

上手くいく時もあれば、上手くいかない時もあります。

その中で上手くいかない時こそ、チャンスがゴロゴロ転がっているんじゃないかと思うのです。

だって、上手くいかない時こそ心がざわついてるので、あくまで僕の場合は。

上手くいかない時は、自分を知るチャンスや自分を受け入れて目の前を大切にするきっかけだと捉えられることはできるはずだと思いました。

 

できるもできない問題ない感覚で日々いられるたらいいなぁーっとかずっと落ち着いた気持ちで居られるといいなぁーと思っていました。しかし、できないことやざわつく気持ちを大切にする方が好きだなぁと思いました。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.330 〜子どもにとって、オトナはみんな先生〜

2017.02.08 【324日連続投稿】

 

2月7日は、授業公開日でした。

 

授業公開日は参観日と違って、特定の授業を外部の人から見てもらうのではなく、一日中どの時間でも見学に来ることができる日です。

 

授業公開日は、授業中以外も保護者の方に見られていると思うと少し緊張した気持ちになります。

 

しかし、今回緊張から温かさに変わった瞬間がありました。

 

帰りの準備でトイレなどでバタバタの中、生徒2人とその生徒の保護者2人と私が教室にいました。お茶を飲むのが嫌いな2人の生徒対して、私がお茶を飲ませるのを保護者が見ているという状況でした。

 

私は、平静を装いドキドキしながらお茶を飲ませていました。

保護者の方々が、「あぁ、いつも通り嫌がってるわ(笑)」という感じで見られていたのが救いでした。

 

そこに1人の生徒が教室に戻って来ました。その生徒は、自分の力で帰る準備がある程度できるので遠目で見つつ、2人にお茶を飲ませていました。

自分で帰りの支度をしていた生徒は、順調に帰りの支度ができて、あとは上着を着るのみという状況になった時に、

「ひろやすセンセー着せてくださーい!」とお願いしてきました。

 

しかし、その生徒は異性で同性介助で基本行なっているため服を着せることはできないですし、そもそも自分で着る能力はある生徒だったので、

「今はなんとか自分で着るようにして〜」と伝えました。

 

すると、その生徒は保護者の方々の近くに行き、試行錯誤して自分で着ようと努めていました。

 

私は、その間に2人の生徒のお茶を飲ませ終わり、帰りの支度に取りかかると、保護者の方々が自分で服を着ようとしている生徒に対して優しく教えて下さっていました。

「〜しなさい」というような教え方ではなくて、少し上手くいってない所に対して「こうした方が可愛く着れるよ〜」と言ったり、上手くできたら一緒に笑顔で喜んでいたりしているのを見て、こういう光景いいなぁと思いました。

 

生徒、保護者、先生が一緒に過ごしている感じが僕にとってよかったのです。

今日の一日で最も忙しい時間帯であったはずなのに、気持ちは温かさと穏やかさに包まれていました。

 

ついつい、同じ大人であるはずなのに保護者と教師というカテゴリーに分けて考えがちだけれども、子どもにとっては大人はみな先生なんだなぁとしみじみ感じました。

 

 

余談の告知なんですが、

工業高校の先生と一緒に教師塾という先生も先生でなくても一緒に学ぶ機会を定期的につくっています。 

直近は、3月12日にございます。

皆さんと一緒に学びを通じて、同じ場所で同じ時間を過ごせることをことを楽しみしています。

 

第3回 教師塾 相互理解のための認識力をつける

 

おわり。

読物つれづれ no.2 〜自分の仕事をつくる〜

2017.02.07   【323日連続投稿】

 

2017年2冊目の本は、『自分の仕事をつくる』 著:西村 佳哲(働き方研究家)

 

自分の仕事をつくる (ちくま文庫)

 

この本と出会ったのは、ちょうど一年前くらいだろうか。

 

大学卒業後の進路決めず、フラフラとしていた頃です。

 

その時期に、名古屋で行われたシゴトバーのプレイベントに参加しました。

 

その時の「生きるように働く仕事を独自の取材の元にwebで求人広告をしている『日本仕事百貨』」を知り、日本仕事百貨を立ち上げている中村健太さんの講演を聞いたことがきっかけです。

 

よろしければ、日本仕事百貨をご覧ください

     ↓↓↓↓↓

日本仕事百貨

  

中村さんは、大学で建築を学ばれた後に一般企業に就職。その後起業されるのですが、起業する前そして後にも「何かふと立ち止まる時には、『自分の仕事をつくる』と言う本を読み返していた」と話されたことがこの本との出会いです。

 

この本を読んでみようと思ったのは、当時の私が中村健太さんに惹かれ日本仕事百貨でやりたい仕事を見つけたことが影響しているのかもしれません。(やりたい仕事にはつけませんでしたが。)

 

後日、本を購入し読み始めましたが、50ページ程読んで読むのをやめてしまいました。

おそらく、当時求めていたことが書かれたいなかったからなのでしょう。

当時は、アウトローな感じやカッコいい仕事に就きたいと心中で思っていた部分もあり「自分で仕事をつくる」というタイトルから今の自分でも何か新しいことを始めるヒントになるようなことを求めていたのだと思います。

当時の僕には、未熟すぎて作者の言いたいことが分からず、ちっとも入ってきませんでした。

 

1年ほど本棚から出すことがなかったに再び読むきっかけになったのが、週に1回通っている寺子屋塾にこの本が机の上にポツンと置いてあったからだと思います。

なんだか少し懐かしさもあってパラパラと読み始めると、すっかり読み入ってしまっていました。以前は読むことが苦痛くらいの本で距離を置いていたのに、大切なことが詰まっている本だと今は思います。

 

大切なことがありすぎますが、最後のあとがきが最も私にとって心刺さる部分だったので引用させて頂きます。

 

 〜中略〜

 

 話が少し脇道にそれるが、自分は妻と小さなデザイン事務所をひらいていて、企業や自治体などから相談いただいて進める、いわば請け負い仕事と、誰から頼まれるわけでもなく自分たちで思い付いて、形にして販売までするメーカーポジションの仕事の両方を手がけている。その傍で大学でデザインを教えていて、授業で学生たちにプロジェクトを紹介すると、「好きなことやって食っていけるんですか?」という質問に出会うことが、ままある。

 もし、そこで「食っていける」と答え、その約束を取り付けてたら、彼らは好きなことをして生きてゆくのだろうか?というツッコミを脇に置いて、それより彼らに戻したくなるのは、「単に好きなことをやってるわけじゃない」ということ、「他の人と共有できる予感があるから形にできるんだ」という、自分の立ち位置である。

 ところで、出版からだいぶ年月の経ったある日、一通のメールが届いた。数年前まで美術大学で学び、その後グラフィックデザインの仕事を経て、現在はライターやイラストレーターとして働いているという人からのもの。つい最近、『自分の仕事をつくる』を読み、励まされると同時に、共感できない部分があったのでお伝えしたいというお便りだった。

  ーーーどんなにダメなテレビ番組でも、一生懸命作っている人がいます。それは「手の込んだ」というよりは、もっと消極的な「この範囲内でベストの」という類の仕事かもしれません。

 でも、その仕事をしたその人本人には責任があるとは思えない。そうしなければ成り立たない、どうしようもない状況があるからです。

 そういう背景には言及せずに、「広告の多い雑誌が駄目で、手の込んだコーヒーカップがいい」というのは、あまりに紋切り型な対比だと思います。まえがきを読んでわたしは悲しくなり、くやしく思いました。

 わたしは今、週刊誌で多く仕事をさせてもらっています。

 もちろん、大学で学んだような、いわゆる「いい仕事」ではありません。どうでもいい記事、ひょっとすると害になりそうな記事だって多く書きます。どうでもいいイラストを、物凄いタイトな進行で要求されます。ほんとうだったら、どんなにくだらない内容でも、たっぷり時間をかけたいというのが本音です。

 でも、そうできない現実があります。原因の一つは出版業界の不況だったりする。あるいは読者があまりにも安易な情報を求めていて、それを与えないと読まれないという現実があったりします。あるいは、編集長やクライアントや芸能事務所の「意向」や、先輩の不機嫌のせいだったりします。

 でもそういう不利な状況の中で、多くのライターや編集者は一生懸命ものづくりをしています。決して「この程度でいいや」という姿勢ではありません。せめて、ちょっとでも面白い記事を作ろうと頑張っています。風潮を変えようと、四苦八苦している人だっています。

 それを、有名デザイナーの仕事ぶりと対比され、批判されるのは悲しいことです。

 もしあの本に、「こんなもんでもいいでしょ」な広告ばかりを作っているデザイナーや、「こんなもんでいいでしょ」な雑誌ばっかりを作っている編集者や、風俗嬢や、掃除のおばさんのインタヴューがあったら、納得できたかもしれません。でも、そんな仕事についている人の話は一つもありませんでした。

 どうか、駄目な仕事を批判しないでください。ーーー

部分抜粋だが、ご本人の承諾をいただき、ほぼ原文のまま転載した。

 僕はこのお便りを読み、とても感じることがあったので、次のような返信を送らせていただいた。この人からのメールを全文掲載していないので、脈絡がわかりにくい部分もあるかもしれない。ご容赦ください。

ーーー西村佳哲です。お便りありがとうございます。

 いただいたメール、嬉しく拝読しました。感想のメールは時々受けとりますが、このような対決型の申し立てが届くことはまれです。

 最後の部分に「コーヒー豆を延々と栽培しなければならない仕事と、それに携わっている人を、誰が責められるか」と書いていますね。

 まったくその通りだと思います。

 あなたはそこに、仕事上のご自身の有り様を重ている。訴えたいのは、どんな仕事であっても、それに心血を注ぐことには尊さがあるということでしょうか。僕はそう受けとりました。そして、同感です。

 あの本を読んで「きれいな話ばっかり!」と反発を感じる人。それを表明してくる人は、何人かいました。僕には見えていない方々を含めれば、そんな感覚を持った人は多々いるだろうと想像します。

 そもそも、自分の憧れの人たちの働き方を知りたくて始めた取材群でしたし、感じ・考えたことをより強く伝えたいという気持ちがから、世の中で働いている人々が否応なく抱えている現実の、「それを言われると困ってしまう」ような弱い部分に、少し踏み込んだ書き口をとっている側面もある。読み返してみると、そういうところは嫌らしいなと思います。

 あの本で僕がなんとしても言葉にしたかったのは、広告貢の多い雑誌や水増しされたテレビ番組は良くないということではなく、「こんなもんでいい」というような、他人を軽く疎んじる働き方は、人間を互いに傷つけるということでした。

 他人を疎んじることは、自分をも疎んじない限り出来ないことですから、そのような働き方を通じて、結局は自己疎外の連鎖が深まってゆきます。その人がそこに「いる」感じのしない働き手や仕事が、世の中で増えてゆく。それは僕には耐え難いことです。

 たとえばあなたが、仕事の現場でどんなものをつくろうと、そこに本人による本人の疎外がない限り、僕はそれを人間の仕事として受容します。

 しかし、自己疎外の度合いが強いと、それは仕事というよりただの労働になってしまう。ただの労働の中でも、心血を注いでいる人はいると思いますが、僕はここで書いてある「労働」には、自分の気持ちや感情を度外視して働くことを指すニュアンスがあります。それはちょっとどうかな、と思うわけです。

 仕事という言葉は、「稼ぎ」や「つとめ」という言葉で語られることもあります。後者は、自分が属している世界に責任を果たすということです。

 つとめとして働く只中では、一時的に自分の気持ちをおさえたり・ひかえたり・膨らんでくる感情を殺さないと機能できないような瞬間が、当然のように混じるでしょう。このような胆力の有無は、人の成熟を示すものでもあると思う。

 しかしやはり、自分をいかして生きてゆくことこそ、一人ひとりの人間の仕事だろうと僕は思うので、できれば殺さないで欲しいという気持ちがあります。

 どんな仕事でも、本人の現場で一所懸命に働いている人には、かけがいのない尊さがある。イラクに派兵されたアメリカ兵の中にも、ベストを尽くしている人は多々いるでしょう。人間性が必要とされないような極限的な現場で、でも人間的であろうとする人たちは戦場に限らず、無数にいると思う。

 一所懸命にやっている人、生きている人を責める気はない。しかし、人間を粗末に扱ってる人間がいることは頭に来る。

 ベストを尽くして記事を書いている人を責める気はない。が、広告媒体として雑誌を発刊し、安い人件費で働いてくれる編集者や、都合のいいネタを提供してくれる人をある意味搾取している人間がいることは、頭に来るわけです。僕の憤りは後者の方に向けられています。

 と同時に、これは本当に余計なお世話なんですが、前者に対しても「それでいいの?」という想いは出てくる。

 与えられた仕事に疑問はあるが、でもやらざるを得ない状況に立たされている・・・という人たちは、不利な取引をしています。

 たとえばイラク派兵でいうと、アメリカでは軍隊が、大学で学びたい優秀な若者を対象とする奨学制度を設けています。学費は全額支給+奨学金数百ドルで、引き換えに軍事への参加が義務付けられているらしい。軍人教育を目的とした制度なので、そもそも看板に偽りはないのですが、非常事態時には在学中でも召集される。

 「でもやらざるを得ない」という状況に立たされる人は、なんらかの人質をとられています。あるいは暗黙の契約を交わしている。

 最近の日本でいえば、ワーキングプアーや、派遣労働をめぐる問題が取りざたされていますよね。

 しかし、たとえば都会に固執しないで地方へいけば、人間的な仕事はまだいくらでもあるというのが僕の実感です。かっこいい仕事ではなく賃料も低いかもしれないけど、ハローワークに募集掲示がないわけじゃないし、労働搾取的な案件ばかりでもない。お金がないと何も手に入れることができないという思い込みについても、それを手放すことで、あるゲームから降りることができる。

 

 あの本では「いい仕事」をしているデザインやものづくりの先達の、余裕ある働きっぷりが目立っているかもしれません。でもどんな人にも、その人となりの切実な現実はある。そしてその現実を選択しているのは、いつもその人自身だと思うんです。

 たとえばトップデザイナーと呼ばれているような人たちは、すごい華やかに見えるだろうし、力を持っているように見えるかもしれません。実際、素晴らしい力能と運と条件を持ってる側面も、ないとは言えないんじゃないか。

 いずれにしれも、自分をどこで・どういかして生きていくかということは、その人自身の手元にあると思うのです。ーーー

後半部分に多少手を加えたが、これもほぼ原文通りである。

 

著者の価値観とその通りにはいかないという価値観が混ざりながらも、自分の人生は常に自分が主役であることを忘れないで自分がより生き生きと生きられる場所にいることができるという想いが込められていました。

 

どれだけ周りから「いい仕事だ」と言われなくても、本人が自らの仕事を自分事としているのであればそれは立派な「いい仕事」と言えるかもしれないと思いました。

 

続編の『自分をいかして生きる』を読むのが楽しみです。

自分をいかして生きる (ちくま文庫)

 

おわり。

インタビューゲーム日記 no.32 〜「ふっふっふぃ〜」〜

2017.02.06  【322日連続投稿】

 

インタビューゲーム32人目のお相手は、長谷川由佳さん。

 

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《インタビューゲームとは??》

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インタビューゲームについて - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

由佳さんとは、年始のサムハプでの書初め新年会で初めてお会いし、今回でお会いするのが2回目でした。由佳さんはインタビューゲームを2回経験したことがありました。そんな中で早速インタビューをスタートしました。

 

【聞く側はどんなスタンスでいた方がいいのか?】

 インタビューゲームの説明が終わった時に、「聞く側はどんなスタンスで聞くのがいいんでしょうか?」と質問がありました。過去2回のお相手は、自分から多くの質問をしなくてもたくさんの聞き入ってしまうお話をして下さる方であったようで、本来の聞く側はどのようなスタンス(姿勢・在り方)でいるのがいいのか。傾聴か?聞く側が誘導するのか?のようなお話を受けました。その時は、スッと答えられる言葉が出てこず、思い返してもその時に何を話したのか覚えていないので、上手く答えられなかったのだろうと思います。

 

 インタビューゲームが終わって振り返りの時に、再び聞く側のことが話題となった時は、自分が納得して言えることを話していました。多少修正を加えているが、言いたかったことはこういうことなのだと思います。「基本的に聞き手が主役であることが、インタビューゲームの本質だと思っています。心地よいインタビューゲームができている時は、聞きたいこと聞けて話したいことを話せている状態だと思います。だから、聞きたいことを聞けず、もし相手が話したいことだけを話す状況になっているのであれば、聞き手が主役であることを思い出してインタビューすることが大切かもしれません。」

 とは言っても、こうした方がいいものはなく少なくとも私にとってのこうした方がいいにすぎないと思っています。

 

私がインタビューゲームをどう捉えているのか?インタビューゲームを通じて何を伝えたいのか?改めて考えさせられる質問を投げかけて頂けました。感謝しています。

 

【ふっふっふぃ〜】

 

インタビューゲームをしていると同じような問い・質問に巡り会うことがあります。「インタビューゲームはなぜ始めたのですか?」「なんで今の仕事をしているのですか?」この2つは結構聞かれます。その度その度、事実は変わらないが話している感じや話し方は毎回違うと思っています。そして、今回「ふっふっふぃ〜な感じで始めたんですよ」と答えている自分がいました。相手がキョトンとすると同時に私自身も「何を言っているんだ俺は?」と思っていました。当然のように、「それはなんなのですか?」と質問が入りました。

 「ふっふっふぃ〜」には何が込められているのかを掘り下げていくと、「軽々とゆるく気負わず気付いたらこうなっていた」というような感じがあるなと思いました。上手く言葉で伝えるよりも擬音で感覚的に捉えたらそうなると思ったから「ふっふっふぃ〜」と言ってしまったかもしれません。

 自分からしても恥ずかしくなるほど意味不明な言葉を発していました。でも、まぁそのおかげで「それはなんだろう?」とお互いが「ふっふっふぃ〜」に関心を寄せることで、生まれた関係性ってのがあるんじゃないかと思いました。

 

【今日で◯人目とか関係ないようにしたい】

振り返りも終わり、お店を出て歩いていると「この質問以前にもされてそうだから、しちゃいけないかもな」と思ってしまった、とおっしゃっていました。相手側の問題かもしれないが、できるだけ「何を聞いてもいいですよ」と伝えたり、せっかく湧いてきた質問を制限してしまうことがないようにしていきたいなぁと思いました。

 

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*2月のインタビューゲーム会@サムハプは、25日(土)14時〜18時になりました。

興味ある方は、是非ともどうぞ!

 

おわり。

本日のつれづれ no.329 〜おめでたい席にて〜

2017.02.05  【321日連続投稿】

 

昨日は、中学高校の友人の結婚式(ニ次会)に出席してきました。

 

私は友人の結婚式に出るのは初めてでした。

友人が私よりもずっと大きなオトナに見えました。

 

誰かと共に人生を歩むと決めたことを公にすることが結婚式をやる意味だと、何かの本に書いてあり、心に残っている言葉です。

 

結婚は、男を成長させるって本当なんだなぁと思いました。

 

今まで、お世話になった両親や友人などに感謝し祝福われ、しみじみと懐かしさがあると共に周りの変化に気付いたり、とても影響力がある場所なんだと感じました。結婚・結婚式は人生を変える力があるかもしれないと思いました。

 

新郎の友人が最後の一言が私の心になんだか響いてきました。

「これからも迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」

ありがちな言葉かもしれないが、友人が放つこの言葉にはずっしりとした重みがあったと感じました。

 

結婚おめでとう。

末永くお幸せに。

最後に、この詩を贈ります。

 


『 祝 婚 歌 』しゅくこんか
吉野 弘


二人が睦まじくいるためには

愚かでいるほうがいい

立派過ぎないほうがいい

立派過ぎることは

長持ちしないことだと

気づいているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい


完璧なんて不自然なことだと

うそぶいているほうがいい

二人のうち どちらかが

ふざけているほうがいい

ずっこけているほうがいい

互いに非難することがあっても

非難できる資格が自分にあったかどうか

あとで疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは

少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと

気づいているほうがいい

立派でありたいとか

正しくありたいとかいう

無理な緊張には色目を使わず

ゆったりゆたかに

光を浴びているほうがいい

健康で風に吹かれながら

生きていることのなつかしさに

ふと胸が熱くなる

そんな日があってもいい

そしてなぜ 胸が熱くなるのか

黙っていてもふたりには

わかるのであってほしい

 

おわり。