名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.574 〜平井雷太 詞 「熱中教師の依存心」〜

2017.10.28  【586日連続投稿】

 

熱中教師の依存心

 

「子どものために」という一言で

やりたくないことを無理やりやらせ

考えたくもないことを無理やり考えさせる

そして

それが子どもの幸福につながることだと

勝手に思い込んでいる

 

平井雷太『見えない学校教えない教育』p.6

 

時々、自戒を意味を込めて平井雷太氏の詩をブログに掲載しています。

ついつい、人助けはいいことだ。面白く興味を持てる授業をすることがいいことだ。と思い込んでしまいます。

それはすべて「子どものために」であったり「他人のために」という思い込みで動いていないかってことを自分に問うことで、現状をできるだけ客観的に見ようとする姿勢に変わっていくのだと思います。

 

最近また仕事以外でも教育のことばかり考えるようになってきている気がします。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.573 〜気にしない力②〜

2017.10.27  【585日連続投稿】

 

「気にしない力」というテーマにしてありますが、なぜ気にしないようにしようと思ったのかは、昨日の記事に書きました。

 

昨日の記事

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 本日のつれづれ no.572 〜気にしない力①〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

今週の火曜日から「気にしない」を少し心がけて生活してきました。

「気にしない」といっても、どういうことを気にしないようにしているかというと、

 

・何かやっている時に他のことが気になる

・ミスしてしまった時に少し落ち込む

・今の自分の言動大丈夫だった?と気になる

 

などなど、「今、考えるべきことなのか?」という問いに対して、「今じゃないし、考えたところでどうしようもない」といったことに対して「気にしない」を適用しようとしています。

 

だから、ちょくちょくずーっと考え込んでいると思ったら、「今、考えるべきことなのか?」と自分に問うてやることをしました。

 

そうすると大抵、考えることをやめたり、考えるより動こうということになりました。

 

それのおかげなのか、修学旅行明けで、文化祭まであと10日程という日頃とは別次元で忙しかった今週を乗り切れました。

 

結果、「気にしない」を心掛けたことで色んなことが起こりました。

はじめて4日目の現時点では、大きくまとめるとこの2つになると思っています。

 

①効率アップ

余計なことを考える時間が少なくなるわけですから、その時にやるべきことに取り組む時間が取れる濃密度が濃くなりました。濃密度が高さならば、時短に繋がります。

 

②観察力アップ

イメージとしては、パソコンはデータの容量が空いてないと思いですよね。人間も似たような感じで、たくさん考えることが多ければ、それ以上増やすことは難しくなるのではないかと、私自身は感じています。「気にしない」はパソコンの余計なデータをゴミ箱に入れるような作業で、そうすることで自然と身の回りのことに気付きやすかったり、忘れていた大切なことに気が回ったり、忘れにくくなる気がしています。

 

いつも土日で、気を緩めて過ごしすぎてしまうので、気を緩めすぎずにゆったり過ごすことにしようと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.572 〜気にしない力①〜

2017.10.26  【584日連続投稿】

 

今週の月曜日に寺子屋塾に行った時の会話がきっかけで「気にしない」ということを少し意識して過ごしています。

 

寺子屋塾に行った時には、1週間のらくだプリントの状況を井上さんに報告し、取り組み状況を把握し、軽く対話を行います。

 

おそらく今週の月曜日はこんな会話をしていたのではないかと思っています。

時間が経っていることもあり、会話の内容がかなり私の頭で編集されていることは、ご了承ください。

 

廣安

「最近、体調不良や疲れてらくだプリントができなくなる日があると、調子を取り戻すまで時間がかかります」

 

井上

「最近、そんな感じじゃないかなぁ〜と思ってましたよ。(そんな状況だと察してましたよ)」

 

廣安

「無理してやろうと思えばやれるんでしょうけど、まぁいっかと思ってやりませんね〜」

 

井上

「無理してでも毎日やることが目的ではありませんからね。調子バロメーターとしてやれるようになるのが一つ大切なことなんだろうと思います」

 

廣安

「体調のバロメーターですか。でも、一日中ずっと体調が悪いってなかなか ないと思いますね。ということは、いつでも取り組めるような準備ができていないってことなんじゃないかと思うんです」

 

井上

「そうですねぇ。私は毎日出歩く時は、プリントは持参していたり、次の日のプリントに日付と名前を書いておいたりと色々工夫しています。この前、台風で急に松本に泊まることになった時は、プリントがなかったので、前にやったプリントを消しゴムで消してやりました。」

 

廣安

「なるほど。準備しているからこそ、不測な事態にも対応可能なわけなんですね。でも、私の状況を考えると準備不足と気持ちが乗らないといいますか、スッとやろうとする気すら起きない時が多くなっています。」

 

井上

「それはやはり、どこかでロスしているんでしょうね。どこかで気を使っているんでしょう。気になることがあれば手に付かなくなる。これが自分でも気づかなかったり、忘れてしまうレベルでも積み重なれば、疲れてしまいます。スッとできない時は、どこかでロスしているんだろうと思いますよ」

 

廣安

「ああ、そう言われると、最近はロスしまくりですねぇ。仕事でもその他でも色々気にかけることがあります。もともと些細なことをずっと引きずる質で、今は随分マシになりましたが、小さなロスがたくさんあっても疲れて、やることができないという状況が生まれるんですね。」

 

井上

「大抵、気にしてひきづってしまうようなことは、今すぐには動揺もないことが多いでしょうし、気にしたって仕方がないんですよね。まずは自分はどこでロスしているのかを知り、一つずつロスしない工夫をしていくことですね」

 

こんな感じの会話だったと思います。

この会話を機に、寺子屋に行った翌日の火曜日から仕事でも私生活でも「これは今考えることなのか?」と自分に聞くようにして過ごしています。

 

明日は、感覚的ではありますが、火曜日から金曜までどうだったかを書きたいと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.571 〜過去にFBでシェアした記事より①〜

2017.10.25  【583日連続投稿】

 

フェイスブックには、過去のこの日という機能があります。これは過去の今日の日付に投稿した記事やシェアした記事などが見れるというものです。

 

毎日、この機能で過去の自分が投稿した記事を読んでいるのですが、時々誰かの投稿をシェアした記事がある日もあります。

 

シェアする記事には、その時の気分でなんとなくというものから、これは自分にとってとても大切だと感じたものまで様々あります。

 

その中で、昨日の過去にシェアした記事を読み直し、改めて今動いているSTEPのイベントを作るということが、「作り手が何が学べるのか」ということを考えるきっかけとなりました。

 

シェアした記事

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http://www.wakudokidoki.com/entry/2015/10/24/105850

 

この記事を書かれた安永太地さんは、今年の3月末まで名古屋市覚王山にある「ことばこ」という私塾で働かれていました。

また、STEPの発起人で代表でもある方です。

その方が、2年前に岐阜の可児高校に勤められていた浦崎太郎先生がシンポジウムの場で話されたことや安永さんが実際に浦崎先生へ質問された中で、感じられたことが書かれています。

 

その中で、今でもこれは大切だよなぁと思うのはこの部分でした。

 

なによりも

アクティブラーニングをする上で最も必要な力は

教師が「自ら考える力」が備わっていないと

「自ら考える力」を養う場を作れるわけがないっ!ってことです。

 

何がアクティブラーニングなのかという話は置いておいて、話し合いや対話をさせたい場を設けるということは、教育者であれば誰もが経験することではないかなぁと私は思っています。

 

教師であれば、クラスや授業で。

家庭であれば、家族会議などで。

塾であれば、生徒と対話する場で。

 

また、子ども対象のみならず、職員や地域での会議などで教育者同士が対話をするなど、誰もが話し合いの場や対話の場にいると思います。

 

安永さんが「大学生がどうすればこれらの力(自ら考える力、場をつくる力など)をつけられるのか?」と浦崎先生へ質問しました。

 

浦崎先生曰く、「プロジェクトをするしかない」と答えられたそうです。

 

プロジェクトが抽象的な物言いですから、具体的に言うと

「自ら考え、自ら創る」ことでしょう。

 

プロジェクトと聞くと、例えばイベント主催や学祭に関わるということを連想してしまいそうですが、単に言われたことをやるっていう関わりではこれらの力が身につくとは思えないです。

 

何か学びになるものじゃなくてもいい。

友達を誘って、BBQをする計画を立てることでも力はつくと思います。

BBQやるってだけでも、日時・場所・道具・移動手段・買い出し・・・などなど考えることはたくさんあります。

 

ましてや、誰かにきてもらって何かを学んで欲しいと思って場をつくるってことは相当考えることになると思います。

分からないけど、分からないなりに分からない状況でできる最大限のことをやっていたら、そのプロジェクト自体は上手くいくか分からないけど、必ず力がつくと思います。

 

私自身、このシェアした記事の最後にあるSTEPのイベントを時間が許す限り取り組んだことは、今でも何かを作り上げる上で重要な考え方の一部となっています。それは自分事としてやってなかったら、今の自分はないんでろうと思います。

 

学校現場に入った今では、授業のみならず行事を進めたりすることは、プロジェクトだなって感じます。自分で抱え込まないけど、自分事としてやらないと進まないし、いいものなんて生まれないです。

あの時の経験が今生きてるのかもしてないと、修学旅行が終わりまもなく文化祭という今の時期になって感じました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.570 〜宮台真司『14歳からの社会学』-「意思」はあるときふと「訪れる」もの-②〜

2017.10.24  【582日連続投稿】

 

昨日の記事は、本日の記事を書こうと思った前置きの話を書きました。

 

簡単且つ本日の記事に繋げていうと、「人間は意思はどうなっているのか?」

という問いについての一つの見解を書いていると言えるでしょう。

 

 「主意主義」と「主知主義」という区別がある。これも、さかのぼれば古代ギリシアにたどり着く考えだ。「主意主義」では、「この世には不条理や理不尽が満ちている」と考える。それを否定して、「人間の知識はすべてをおおえる」と考えるのが「主知主義」だ。

 ぼくは、「何がいいか悪いかは前もってわからない」ことを紛争の経験から学んだ。これは「主意主義」の立場そのものだ。社会学は「主意主義」の立場だ。社会学では人が何かしたとき、社会のせいだけにしない。「その人が意思したから」と「意思」を出発点とする。

 たとえば君がおにぎりを食べたとする。なぜ君はおにぎりを食べるという行為を「選んだ」か。それは「意思」したからだ。その「意思」は、君にあるとき、ふと「訪れて」その人を前に進める。

 ひさんな事件が起こると、「家庭環境が・・・」「社会が・・・」という話になる。でも、そうした背景は、事件を起こした人に「前提を与えた」だけだ。家庭環境や社会は、行為の前提をあたえるだけなんだ。その前提のもとで、その人が何をするかは、彼や彼女の「意思」による。

 「意思」は、あそこに山があって、ここに川があって、ということがらと同じで、「訪れる」ものだ。「意思」というおおもとからわか!た「意思」を」 「意思する」ことはできない。この考え方を覚えておくといい。

 ぼくが社会学者だというと、なんでも社会のせいするとか、なんでも理屈で考えるというイメージわ持たれがちだ。けれど、それはあり得ない。「意思」は「意思」じゃないものに還元できない。社会学者は「意思」の前の前提となる社会について分析を加えるだけだ。

 「意思」は人間の理解をこえる。人間の考えた理論にとっては「こわい存在」だ。社会学では、こわくないように「その人が選んだ」というふうにいい方を加工する。その上で、「それを選んだ背景」を分析する。けれど「その人が選んだ」という事実は消せないんだ。

 

宮台真司『14歳からの社会学』p.56〜58

 

人間の行為というのは、何か原因があるわけでも目的があるわけでもない。

人間の行為というのは、何か原因があり目的があるということ。

 

どっちもありうるのだろう。

先ほどの一節にあったこの文章の言う通りなのだろう。

『「意思」という大もとからわかれた「意思」を「意思する」ことはできても、おおもとの「意思」を「意思する」ことはできない』

ふと訪れた「意思」を自分が「どう意思するのか」ここにポイントがあるんだと思いました。

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.569 〜宮台真司『14歳からの社会学』-「意思」はあるときふと「訪れる」もの-①〜

2017.10.23  【581日連続投稿】

 

 近年、岸見さんが書かれた「嫌われる勇気」が火付け役となりアドラー心理学を知っている人が多くなってきていると思います。私も「嫌われる勇気」を読んで、一時期はアドラー心理学にどっぷりハマっていた時期がありました。「アドラー心理学があればほとんどの悩みは解決できるんじゃないか」とさえ以前は思っていたくらいです。それから、いろんな人の考えぬ触れ自分なりに考えたりする過程で、以前のアドラー心理学に対する熱さはなく、むしろ「理解が浅はかな場合は、自分や他人を辛くさせてしまう恐れもあるな」と思うくらいです。まぁ、アドラー心理学のみならずあらゆる考え方は使い方次第でそうなり得るものだと思います。

 

そのアドラー心理学でまず特徴的だと私が思っている「目的論」という考え方もやっと掴めてきました。

「目的論」自体は簡単に理解はできると思います。

例をあげると、あなたはカフェで店員がコーヒーを運んできてくれた際に、うっかり服にこぼしてしまった時、怒ってしまいました。この「怒る」というのは、あなたが相手を屈服させたいが為にとった行為である。という考え方。つい怒ってしまったのではなく、怒ることを自ら選んだと考えるのが目的論の特徴です。

 

以前は「そうなのか〜」と思っていた私ですが、今は目的論になにか違和感を感じていたのです。

 

 

それをすっきりさせてくれたのが、宮台真司『14歳からの社会学』の-「意思」はあるときふと「訪れる」もの-だったのです。

 

ちょっとこれを最後まで書くと、結構長くなってしまうなと思ったので、今日は前置きだけにして本編は明日に書こうと思います。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.568 〜対話する人・しない人〜

2017.10.22  【580日連続投稿】

 

対話をしようとする時に2パターンに少なくとも2パターンに分かれる傾向があると最近は思います。

 

1つ目は、その人にない考えに触れた時に聞く人。

その人は、たとえ自分にとって耳が痛いことや自分の嫌な面が見える話をさせても話を聞く。

 

2つ目は、その人にない考えに触れた時に聞かない人。

その人は、自分に新しい考えを取り入れるのが怖かったり、今の自分を守りたかったらする。相手との壁を作る。

 

コミュニケーションは聞き手主導であるから、聞き手が聞く姿勢でないと何を話してもないも対話は生まれないのだなぁ。

 

おわり。

本日のつれづれ no.567 〜宮台真司『中学生からの愛に授業』-恋と愛-より〜

2017.10.21  【579日連続投稿】

 

「愛」はまた少し違う。「恋」が「単なる非日常」だとすると、「愛」は日常を奇跡だと受け止められる感受性と結びつく。いわば「日常という非日常」だ。日常を奇跡だと受け止める感受性は、数限りない失敗と挫折と不幸を経験しないと育たない。リスクを回避して、平和な人生を送りたいと思っている人には、「愛」は永久に無理なんだ。

 

宮台真司『中学生からの愛の授業』p.32

 

おわり。

読物つれづれ no.9 〜細谷功『具体と抽象』-世界が変わって見える知性のしくみ-〜

2017.10.20  【578日連続投稿】

 

読物つれづれとは、私が読んだ本の記録として、感想、気付き、印象に残った箇所を紹介したりするものです。

 

9冊目に読んだ本は、『具体と抽象 -世界が変わって見える知性のしくみ』(著:細川功)です。

 

具体と抽象

 

この本も寺子屋塾に置いてあり、またまた私が訪れた時に話題となって話をしていた時に手に取った一冊です。

最近の本の出会いは、寺子屋塾でほとんど起きています。本屋さんにいくより、寺子屋塾に行った方が良書に出会いやすいです。良書に出会うってことは、寺子屋塾の道具の一つである数々の本の中に私が求めているものにハマりやすい環境だと言えると思います。

 

さて、この本を手に取った時に何を求めていたのかというと、

「人と人との話がどうしたら噛み合うか」ということだったと思います。

 

本書のはじめの印象では、抽象思考がいかに重要で、どうやって高めていくのかということが相手あるのかなと思っていましたが、本質はそんなところではなかったと読み終わって感じています。

 

 よくも悪くも身の回りの事象を「解釈」することを覚えてしまった人間は、自然をありのままに眺めることが非常に難しくなってしまっています。抽象レベルの概念はそれが固定されやすいという性質を持っており、これが偏見や思い込みを生み出し、私たちの判断を狂わせます。

 さらに、抽象度という一つの座標軸におけるスタンスが人によって異なるために、人間同士のコミュニケーションにも障害をもたらすことが多いというのも本書で解説したとおりです。

 抽象の世界に足を踏み入れてしまった人は、その世界が見えていない人にいらだちを覚えます。「表面事象」でしかものをとらえられない部下に不満を持つ上司がその典型です。あるいは逆に「前例」や「数値目標」という具体的にものでしか判断しない上司にいらだつ部下の同様です。いずれいしても、「見えていない人」から見ると、「見えている人」は「訳のわからないことを言っている異星人」にしか見えないのです。

 人類の思考という最強の武器を手に入れさせた一方で、「野生の行動力」を失わせたのも抽象という概念なのかもしれません。頭の中にとんでもなき大きな精神世界を作り上げた人間は、物理的な世界ではある意味動物に劣って当然ともいえます。「考えると行動ができなくなる」のも抽象のせかいがもたらした弊害です。

 抽象化能力のもたらす客観視の姿勢は、主観的な感情とも衝突します。本文の中では抽象化思考をするための「阻害要因」として「自分を特殊だと考える」という人間の思考の癖を取り上げましたが、よく考えるとこれは本末転倒で、抽象化思考のほうが、自分中心で生きようとする人間の行動を「阻害」しているといえるのかもしれません。

 

 これらの障害も考慮していくと、結構重要なのは、「抽象化」と「具体化」をセットで考えることです。福沢諭吉は「高尚な理は卑近の所にあり」という言葉を残しています。まずは徹底的に現実を観察し、実践の活動を通して世の中の具体をつかみ、それを頭の中で抽象化して思考の世界に持ち込む。そこで過去の知識や経験をつなぎ合わせてさらに新しい知を生み出したのちに、それを再び実行可能なレベルにまで具体する。これが人間の知とその実践の根本的なメカニズムということになると考えられます。

 

細谷功『具体と抽象』p.127~129

 

肝心なのは、抽象か具体かということではなく、物事を見るためのフレームだと思って、抽象と具体はあるんだと思いました。

 

簡単に書いてあるけど、難しいことが書いてある本だなぁと感じました。

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.566 〜これから読む本part3 國分功一郎『中動態の世界』-意志と責任の考古学-〜

2017.10.19  【577日連続投稿】

 

これから読みたい本の3冊目は、國分功一郎『中動態の世界』-意志と責任の考古学-です。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

「中動態とは何か?」

タイトルを見た時にまず思ったことです。

そして見開きの(本文より)のところに書いてあることばからこの本への興味関心が湧き上がってきました。

 

(本文より)

強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。

それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。

そして、能動と中動の対立を用いれば、そうした事態はたやすく記述できるのだ。

 

おわり。