名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

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本日のつれづれ no.502 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第8章 -裸体と性-②〜

2017.08.14  【511日連続投稿】

 

 「『礼節』という言葉の正しい定義は何だろう」と問うのはティリーだ。「私が初めて日本の風呂屋へ入ったとき、そう私は自問した。あらゆる年齢の男。そして婦人、少女、子どもが何十人となく、まるでお茶でも飲んでいるように平然と、立ったまま体を洗っていた。そして実をいうと、入ってきたヨーロッパ人も同様に気にもされてないのである。スタール夫人は、ヘラクレスやヴィーナスの彫像を見ていて、同行の若い士官から、慎しみが大そう欠けていると思いになりませんかと尋ねられ、『慎しみがないというのは、見る方の目の問題なのね』と答えた。という次第で、日本の裸の礼節に何も怪しからぬ点はないと、私は考えることにきめた」。

 ヴェルナーもティリーとおなじく寛容派だ。彼は公衆浴場で「男、女、主婦、老人、若い娘、青少年が混浴するが、誰も当惑した様子がな」く、「主婦は三助に奉仕され体を洗ってもらうが、そのさい彼女たちは海水パンツをはいているわけでもバスローブをまとっているわけでもない」ことに、当然道徳的疑念を抱かずにはおれなかった。「教育があまりに上品である」日本人にどうしてこういう羞恥心の欠如がみられるのか。羞恥とは気候によって左右される概念なのだ。暑い日本の夏に、人びとが裸体になるのは無理もない。「二グロ、インディアン、マレー人については」、その裸体をべつに不思議がりはしないわれわれが、日本人の裸体姿からショックを受けるのは、日本人が「精神と肉体の両面でわれわれに近く」「交際する形式からしてもいかにもヨーロッパ風であり、一般に洗練され、折り目正しい態度」をとるからだ。日本人がわれわれとは「慎み深さや羞恥について別種の観念をもっている」ことがわかれば「異様で不愉快な衝撃」を受けずにすむ。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.301~302

 

おわり。