2019.02.06 【1047日連続投稿】
日本語では「犬」と呼ぶものを、英語ではdog、フランス語ではchien、ドイツ語ではHundと呼ぶというふうに、ものの呼び方は「言語共同体ごとにご自由に」ということになっていて、どの名がいちばん「正しい」のか、というようなことは問題にしても仕方がありません。「ものの名前は人間が勝手につけた」というのが「カタログ言語観」の基本にある考えです。これは誰にでも納得できるでしょう。
そかし、この言語観は、いささか問題のある前提に立っています。それは、「名付けられる前からすでにものはあった」という前提です。
たしかに私たちはふつうにそう考えます。「丸くてもこもこした動物が来たので、アダムは勝手にそれを『羊』と名づけた」というふうに。
しかし本当にそうなのでしょうか。「まだ名前を持たない」で、アダムに名前をつけられるのを待っている「もの」は実在していると言えるのでしょうか。
名づけられることによって、はじめてものはその意味を確定するのであって、命名される前の「名前を持たないもの」は実在しない、ソシュールはそう考えました。
言葉を使わない人はいないです。話せない人でも言葉は持っていると思っているからです。
言葉が先か?存在が先か?というタイトルにしましたが、
言葉があるということはどういうことなのか?ということを探求することを書いていこうと思います。
これからはソシュールさんが登場して、言葉ってものを深めていきます。
おわり。