2017.12.05 【624日連続投稿】
「思考の内容は言語から、そして言語において形を受け取るのであって、言語こそ、可能なあらゆる表現の鋳型である」。
「人が考えうる事柄を画定し、組織するのは、人が言いうる事柄である」。
デリダは上記の引用部から「思考の発展」と「精神の活動」の二つの表現は取り上げても、「思考の可能性」は取り上げない。これはデリダが、「バンヴェニストは思考を言語に還元している」と思い込んでいることの現れ、一つの症候である。
そして、この表現は決定的に重要である。言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということではない。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。
言語が思考を規定するのでも、思考が言語に還元されるのでもなく、言語が思考の可能性を規定し、言語が思考の可能性の条件であるとすれば、両者の関係はどうなるか?
仮に、言語の思考を直接に規定するのだとしたら(つまり思考が言語に還元されるのだとしたら)、言語と思考が単なる二つの項として並べられる、あるいは、どちらかの上に置かれるだけである。
だが、思考されうることに、つまり思考の可能性に作用するのであれば、その多種多様な作用が展開するための場が設定されねばならない。言語の思考に対する作用は、強い拘束力を持つ場合もあれば、単なる影響の場合もあろうし、もちろん、思考によってその作用がはねつけられる場合もあろう。言語が思考を直接に規定するのではなく、思考の可能性を規定するといった途端、そうした諸作用の織りなされる場が論理的に要請されることになる。
では、その場とは何か?それは言語が語られ、思考が紡ぎ出されている現実そのもの、すなわち、社会であり歴史に他ならない。「人間の能力」「文化の一般条件」「社会の組織体制」と結びついたその場をフィールドとして、言語は思考の可能性に作用する。
言語が思考の可能性を規定するという定式は、もともとあった単純な言語決定論に「可能性」という語を挟み込んだだけではない。この定式は、言語と思考の関係を考えるうえでの構えそのものの変更を迫る。
國分功一郎『中動態の世界』 p.111~112
思考が言葉となり、言葉が思考となる。
言葉は思考を深める。
言葉は思考と思考を繋げる。
言葉は新しい思考を生む種となる。
言葉こそが人類最大の発明じゃないかと思った。
おわり。