名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

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本日のつれづれ no.409 〜教育を再考する 平井雷太氏〜

2017.05.06 【411日連続投稿】

 

《教育を再考する》

 

「教育とは

人が変わることではなく、

自分が変わること」と定義すれば

変わりたいと思っている人が

そこにいない限り、教育は成立しない。

つまり、教育するという行為は

教師がいくら教育をしているつもりであっても

教育される側が

意識している・していないにかかわらず

「教育されたい=学びたい」と思っていない限り

教育するという行為は成立しない。

 

そう考えると、

「教育とは

他者を教え、育てる行為というより

自分が何からでも教えを乞うことをし

それによって『自らを育てたい』という状態に

なることで成立するもの」と定義したほうが

より現実に即しているように思えるのだ。

 

教育するというように

教育という言葉を能動的にとらえることしか

考えることができなかったから

「教育する→教育される→洗脳される」と感じ

そこに体が反応して、それが

教育に対する嫌悪感につながっていたのだろう。

しかし、

「教育という営みは

そこに『自らを育みたい』という

自発的な思いと願いに支えられて

成立しているもの」と考えればよかったのだ。

つまり、このような前提があるとき教育が

「命の本然に向かう教育」になる。

 

「洗脳されたい」と思う人はいないだろうから

同じ「教育」という言葉でも

「教育される=洗脳される」という意味の「教育」と

「自らを育みたい=学びたい」という意味の「教育」の

違いは余りに大きい。

 

「自らを育みたい」と思っている人は

どんなものからでもどんな人からでも

学ぶことができると思っている人。

だから、自分だけ自分が育つことができないと

自覚しているから、絶えず

人が育つ場とチャンスを提供しようとする。

だから、「自らを育みたい」と思っている人のまわりで

人が育っていくのは当然の結果だといえるのだ。

 

『見えない学校・教えない教育』著:平井雷太

おわり。