2017.05.06 【411日連続投稿】
《教育を再考する》
「教育とは
人が変わることではなく、
自分が変わること」と定義すれば
変わりたいと思っている人が
そこにいない限り、教育は成立しない。
つまり、教育するという行為は
教師がいくら教育をしているつもりであっても
教育される側が
意識している・していないにかかわらず
「教育されたい=学びたい」と思っていない限り
教育するという行為は成立しない。
そう考えると、
「教育とは
他者を教え、育てる行為というより
自分が何からでも教えを乞うことをし
それによって『自らを育てたい』という状態に
なることで成立するもの」と定義したほうが
より現実に即しているように思えるのだ。
教育するというように
教育という言葉を能動的にとらえることしか
考えることができなかったから
「教育する→教育される→洗脳される」と感じ
そこに体が反応して、それが
教育に対する嫌悪感につながっていたのだろう。
しかし、
「教育という営みは
そこに『自らを育みたい』という
自発的な思いと願いに支えられて
成立しているもの」と考えればよかったのだ。
つまり、このような前提があるとき教育が
「命の本然に向かう教育」になる。
「洗脳されたい」と思う人はいないだろうから
同じ「教育」という言葉でも
「教育される=洗脳される」という意味の「教育」と
「自らを育みたい=学びたい」という意味の「教育」の
違いは余りに大きい。
「自らを育みたい」と思っている人は
どんなものからでもどんな人からでも
学ぶことができると思っている人。
だから、自分だけ自分が育つことができないと
自覚しているから、絶えず
人が育つ場とチャンスを提供しようとする。
だから、「自らを育みたい」と思っている人のまわりで
人が育っていくのは当然の結果だといえるのだ。
『見えない学校・教えない教育』著:平井雷太
おわり。