名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.358 〜ガッキー、ピエロになる〜

2017.03.11  【355日連続投稿】

 

今日は、私が住んでるシェアハウス「サムハプ」の同居人ガッキーのやりたいことにお付き合いしました。

 

ガッキーのやりたいこととは、クラウン(道化師)です。まぁ、大道芸人とかピエロとかパフォーマーといったことでしょうか。

 

今日は、家の近くの東山動植物園の近くでガッキーがピエロになり即興バルールアートをして、子どもにプレゼントすることに試みました。

 

私はやっている姿を写真や動画で収めて欲しいと頼まれたので、一緒に行きました。

 

ちょうどお隣のお家の人に話しかけられ、「またにやってる人いるよ〜」とのことで、背中を押されました。

 

場所に着くとさっそくスタートしました。

一番最初にお母さんと二人兄弟にガッキーが風船を渡すと、嬉しそうに受け取ってくれました。

 

次々と渡していって、よしこれからという感じになった時に、東山動植物園のスタッフの人に話しかけられました。

 

「ここで何をやって頂いても良いのですが、園内に風船を持ち込むことができないので、もしトラブルとなったら困りますので、帰りの方にお渡し頂けるとよろしいかと思います。」

とのことでした。

 

確かに、動物が風船を食べちゃうと大変ですし、中止にしました。

 

ガッキーはちょっと落ち込んでおりました。笑

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家に帰って話していると、「まぁ最初の一歩は踏み出せた」ということで前向きに捉えていました。

 

今度は、帰り際をターゲットにやろうとすることになりました。

 

ガッキーの挑戦は続きます。

 

おわり。

本日のつれづれ no.357 〜卒業式を終えて〜

2017.03.10  【354日連続投稿】

 

先日、教師となって初めての卒業式を終えました。

 

私は高校2年生の所属ですが、3年生の生徒の介助員として卒業生と一緒に卒業証書を取りに行く経験をさせて頂きました。

 

卒業式は、学校で最も大切な行事ということを初めて知りましたが、出会いより別れが色んな気持ちに触れる機会になると思い、納得しています。

 

3年生とは、一緒に給食の配膳をしたり、修学旅行に同行させてもらえたりして、3年生の所属でない私でもたくさんの関わりを持たせてもらい、毎日会うのが楽しみな生徒たちでした。

 

卒業式が終わり数日経つと、時折ぽっかり穴が空いたような気持ちになります。

 

登校時、スクーバスの迎えに行くといつもいたあの生徒がいない。

楽しくも生徒には一苦労だったであろう給食の配膳の時間にいない。

帰りの時のたわいのない会話がなくなる。

 

私ですら、寂しさがあるのですから3年生の先生方はより一層のものがあるのではなかろうかと思います。

 

また、寂しさと共にあるのが、これから先のことに想いを馳せていることです。

 

卒業生はこれからどんな人生をあるんでいくのだろう。

1、2年の在校生はどんな姿で卒業を迎えるのだろう。

新入生はどんな生徒なのだろう。

 

お別れの寂しさに浸かってしまわないのは、その先のことがあるからだなぁと改めて思います。

 

3学期も残り1週間となりました。

どんな一年の終わりを迎えるんだろうか。

 

 おわり。

本日のつれづれ no.356 〜自分の気持ち悪い部分を見ようとすること〜

2017.03.09  【353日連続投稿】

 

自分と向き合うって、どういうことだろうか。

 

ひとりでいることが、自分と向き合うってことなのだろうか。

 

確かに、ひとりでいると気持ちを掘り下げてみようとする時がある。

 

色んな気持ちを掘り下げていくと、他人のことをおもいやっているつもりで、本当は自分のことしか考えていなかったのかと気付くことがある。

 

他人を心配して大切にしているようで、本当は自分のためにそう振る舞っていることは無自覚のうちにたくさんやってしまっているのだろう。

 

それがダメだとは思わない。気持ち悪い自分をダメだと思ってしまわなくていい。

それは変えようしても変えようのないことだと思う。むしろ、変えようとすることが余計に自分を辛く苦しませることに繋がりかねないと思う。

 

ただ、自分が苦しんでいたり、悩んでいることがあったとしてそれが誰かのせいで起きていると思っているなら、一回フラットに考えてみることはとても大切なことのように思う。

 

不確かなことから判断していたり、自分の思い込みで誤って物事をみていたりすることは良く起こりうること。

 

だからこそ、一回立ち止まりフラットに考えた時に、「これは自分の気持ち悪い部分を見たくないために、そこに他人を持ってきてフタをしていること」に気付くかもしれない。

 

いわゆる、他人のせいにしたり、責任転換だったり色々似たような表現はあるだろうけど、全て自分の気持ち悪い部分を隠すための行為だろうと思う。

 

そう考えると、気持ち悪いけどその部分をちゃんとみようとする人が、自分と向き合うことができる人なのかもしれない。

 

見たくもないものを見てしまったら、自分を嫌いになるかもしれないけど、「まぁ、そんなもんだわな」と折り合いがつけられる人が、自分を受け入れている人なのかもしれない。

 

無理に見なきゃいけないことはないけど、自分の気持ち悪い部分に気づいてしまった時は、少しは見ようとすることは大切だと思いました。

 

最近、自分の気持ち悪い部分に気づいてしまった廣安でした。

 

おわり。

本日のつれづれ no.355 〜自分から見る自分は、時に歪んで見ている〜

2017.03.08  【352日連続投稿】

 

昨日のらくだプリントは、5-4のプリントに取り組みました。内容としては、分数の足し算引き算です。

 

《らくだプリントとは?》

           ↓↓↓↓↓

らくだメソッドの理念|どの子にも学力がつく らくだメソッド

 

昨日はそのプリントの2回目で1回目は、目安時間以内に解くことができ、全問正解だったのですが、今日は5問もミスしました。

 

その自分を振り返ると、あまりにも集中できなかったと思います。

 

集中できていないことを受け入れて自覚していたのではなく、「自分は大丈夫」「やれている」という一種の暗示みたいなことを思って自分を誤魔化して取り組んでいたように思います。

 

自分から見る自分というのは、ズレているし歪んでいるし、ちゃんと見ているつもりで見れていないものなのだなぁと改めて痛感しました。

 

自分はできている。

自分は大丈夫だ。

という感覚でいたい気持ちがあるけれども、その気持ちが返って自分が苦しんでいることや辛いことに無自覚させているのかもしれないと思います。

 

自分の気持ちや感覚は、時に大きく狂うことがあるということを心に留めておこうと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.354 〜お別れする時期に思うこと〜

2017.03.07  【351日連続投稿】

 

毎年3月は別れの多い時期だというイメージがあります。

 

私は、お別れの言葉ってのはいくら探しても見つからないものだと思っています。

 

お別れした後に、伝えたかったことが必ずと言っていいほど自分の中に湧いてくるから、なんだかお別れする前の言いたいことや伝えたいことでは足りないんです。

 

まぁ、お別れってそんなものかもしれないなぁと思います。

 

別れる瞬間より別れた後の方が私はぐっとくるものがあるような気がしています。

 

おわり。

本日のつれづれ no.353 〜「できない」のでなく、「やらない」だけ〜

2017.03.06  【350日連続投稿】

 

昨日のらくだプリントは、日をまたいでやりました。

 

《らくだプリントとは?》

↓↓↓↓↓

らくだメソッドの理念|どの子にも学力がつく らくだメソッド

 

土日は実家に帰省していたのですが、らくだプリントは持って帰っていました。朝早く起きればできるだろうなと思っていましたが、見事に起きれず、やりませんでした。

 

結局、名古屋に帰って来て夜にやるかと思っていたら、住んでいるシェアハウスにお客さんが3人来ていて、らくだプリントをやるなんて後回しで楽しい時間を過ごし、気づけば日付が変わっていました。

 

ようやく落ち着いたあとに、らくだプリントをやって就寝しました。

 

無意識に近くとも、今やらないのならいつやるの?と自分に問いかけてるんだなと感じました。

 

毎日やると決めているということは、今やらないならその代わりにいつやるのか自分の中で考えていることだろうと思います。もしも、やらない選択を取った時の代わりの案まで提案できるところまでいくだろうと思います。

 

やるかやらないかではなく、

やる前提でどうやったらできるか

やらない時はどうするか

という次元の話なんだろうと思います。

 

だから、この次元の話では「できなかった」というのは存在せず、ただただ「やらなかっただけ」「やろうとしなかっただけ」なのだと思います。

 

「やらなかった自分」がダメなのではなく、そんな自分を自覚し続けて、変容していく過程を見ていくことを楽しめたらいいと思いました。

 

そういえば、らくだプリントを始めて6ヶ月が過ぎていました。

 

また、振り返りを書こうと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.352 〜祖父と祖母の法事を終えて〜

2017.03.05  【349日連続投稿】

 

本日、無事に祖父と祖母の法事が終わり、名古屋に帰っている新幹線の中で書いています。

 

法事というと、正座をしてお経を呼んで足が痺れて、なんだか「面倒だ」という印象を大学生の頃まで思っていました。しかし、今は家族や親戚に会えることが楽しみなこともあり、いい機会だなと捉えている気がします。

 

今回は、ちょっと特別で事前に父親から「5分程度で近況報告できるように、パワポとかで資料をつくって下さい」とお達しがありました。

 

そして今日は、自宅とお墓での法要を終えて食事をしに行き、大型ディスプレイを使って、祖父と祖母の写真のスライドショーを見たり、それぞれの近況報告を動画や写真も交えながら、食事をして時間を過ごしました。

 

笑いありの温かく穏やかな雰囲気でみんな楽しそうだったと私から見て思いました。

SNSとかで近況を知ることができる世の中でありますが、実際に会うに越したことはないと思います。

 

最近は、地元に帰るたびに「いつかは地元に変えられるように力をつけようかな」と思います。

地元を離れて5年経ちますが、やはり生まれ育った町は自然と特別な感情があるのかもしれません。

 

祖父と祖母の話をすると、祖父は私が生まれる約5ヶ月前に他界されたらしく、私は祖父の生まれ変わりだと言われていたそうです。

祖母とは、約18年一緒に住んでいたこともあり、思い出が結構あります。今回の帰省で思い出したことは、私がサッカーを初める時に寒い中一緒に付いてきてくれて監督に話してくれたことがハッと蘇ってきました。約14年やったサッカーですが、初める時は祖母に背中を押してもらったことを忘れてたんですね。それを思い出して何か変わるわけではないのですが、思い出すことに私の中で価値があると感じました。

 

また明日から愛知で目の前ことをやり続ける日々を過ごしたいと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.351 〜書いたことは生きたということ〜

2017.03.04  【348日連続投稿】

 

この土日は、法事のため実家に帰ります。

 

新幹線の中で私が書いた過去のブログ記事を読んでいると、その時に書いた気持ちが蘇ってきました。

 

まだ1年前の記事ということもあり、忘れていて「あの時こんなことを思っていたんだ」と感じるよりも、「そうそうこれ書いてたな」という気持ちです。

 

書いてあることから、書いていないことまで思い出せるのは自分が書いたからなんだと思います。

 

書いたことは、その時自分が生きたということを記録することなんだと、ふと思いました。

 

その時の気持ちや心が残っているって、私はとても貴重なものだと思います。

 

上手な文章でなくとも、拙い表現であったとしても、とても貴重なものだと思うのです。

 

誰かに伝えたいよりも、書き残しておきたいという気持ちがあるから、毎日書いているのかもしれません。

 

 

久しぶりに親戚や甥っ子に会えるのが楽しみです。

 

おわり。

本日のつれづれ no.350 〜心は亡くならないんじゃないのか?〜

2017.03.03  【347日連続投稿】

 

1週間はあっという間に終わる。

 

長いように思っていた時はあるが振り返ると、あっという間に過ぎていることに気付く。

 

忙しいとかゆとりがあるとかでなく、その時自分が存在していたことが何よりもかけがいのないことなのではないかと思います。

 

忙しくても心が亡くなることはなく、ゆとりがあろうがなかろうが心はあるのだと思います。

 

どんな自分でも生きていることを自分で受け入れて、生きていることが大切なんじゃないかと思います。

 

私は、心を亡くすという言葉を聞いて、心が亡くなるってのは、ないんじゃないかと思います。

 

もし、肉体がなくなっていても、その人の心は誰かの中で生きてるんじゃないかと最近ますます思うようになってきました。

 

それなら生きている人はなおさら、心がないことなんてないと思います。

 

心ってなんだ?ということが分からなきゃ、私自身も私が言いたいこと、表現したいことが何なのか分からないです。

 

もし、心ってものが自分なりにしっかりと腹に落ちた時、それは自分が言葉にならない言葉を自分の中で言葉に変わる革命が起こるんじゃないかと思っています。

 

おわり。

本日のつれづれ no.349 〜立場や役割があるから、個人は輝く?〜

2017.03.02  【346日連続投稿】

 

 立場や役割がなく生きている人はいないと思っています。

 

誰もが気づかなくても、親だからとか、会社では上司だからとか、立場が役割があるから、つくられるその人があると思います。

 

今日の仕事中に、管理職の方がどうしてもその状況では叱っておかないといけない状況で叱ったのだろうと思える場面に遭遇した時に、ハッしました。

 

叱られた方は結構心穏やかでなかったのですが、周りの方に「あれはしょうがない」と言われると「まぁそうかもしれないけど、下っ端は辛いねぇ」と言われていました。

 

私から見たときは、必然的に叱かり叱られる関係が生まれる状況だったのだと思ったので、立場で人は結構行動しているよなと思います。

 

立場上しょうがないことって、あるんだなぁと私は勝手に思っていますが、話を掘っていくと人は関係性によってその人がどうするのか決まるのではないかと思っているので、やっぱり立場や役割はその人の一部になっているのだと思います。

 

集団の中で生きている以上、自分がそうしなければならないことは確かにあって、変えることのできないことはあるのだと思います。

変えられない状況を受け入れた時に初めて、自分の裁量といいますか、個人が発揮される時なのだろうと思います。

 

立場や役割があるからこそ、個人は輝くのではないかと仮説じみたことを思っています。

 

ちょうど今読んでいる本の内容とリンクしたので、書き残しておこうと思いました。

 

おわり。