名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.628 〜一年は長くも短くもない〜

2017.12.21  【639日連続投稿】

 

「もう一年が経ったのか、早いな〜」

 

という声が聞こえてくる時期でありあます。

 

以前は私も「一年経つのは、早いな〜」と思う人だったのですが、ある時ふと思いました。

 

「振り返ると、早いかもしれないけど、一年はこれくらいでしょう」と。

 

充実していたから早いと思う人もいるだろうし、

 

充実していたから長いと思う人もいるかもしれない。

 

自分としては、早いとも思わなかったし長いとも思わなかった。

 

何も夢中になれていたかったわけでもないし、没頭しすぎたわけでもない。

 

1日1日を積み重ねていくことをブログを通じてしていたからなのかもしれない。

 

とにかく、一年という時間の長さは一年であり、短い長いなどは自分が勝手に持っている価値観なのだから、目の前のことに向き合っていれば、短い長いは特に関係ないはずだと思いました。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.627 〜國分功一郎『中動態の世界』-自発性と同意は分けて考える-〜

2017.12.20  【638日連続投稿】

 

 アレントはカツアゲを開設するにあたり自発性の概念のみに言及していたが、実はここではもう一つ別の概念が問題になっていたのだ。それが同意の概念である。つまり、カツアゲされた人物がお金をポケットから取り出して手渡す行為は次のように説明すればよかったのである。たしかにこの事例における私の行為には自発性は存在しないが、しかし、同意は存在する、と。

 アレントはここでの私の行為を「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」と形容した、そのうえで、アリストテレスのような考えでは、強制がない場合には自発的とされてしまうというかなり無理のある解釈を提示した(実際にはアリストテレスは、自発的とも日自発的とも言えるとの曖昧な解釈の可能性を残していたにもかかわらず)。

 しかし、強制はないが自発でもなく、自発ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。そして、能動と中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できるのだ。

 

國分功一郎『中動態の世界』p.158

 

能動か受動かという判断をしてしまいがちであるが、能動ではないが相手に同意してやっていることは日常にありふれている。

学校現場にいると主体的な学びという言葉を耳にすることがあるが、「主体的とはなんだろう。」と毎回思っていた。こちらから提案したことに対して乗ってくれるのは受動的で受け身で、自らあれやりたいこれやりたいってのが、能動的で主体的なのだろうか。

後者が、主体だと考える場合は、たとえ同意を取れたと思っても、それは相手が言ったことに流されていると判断されがちだと思っているからではないだろうか?

そうなると、いかに同意を取るかどう同意を取れば了解とするか。ということが問題となってくるだろう。

「どう同意を取れば、了解とするか?」

これは、私の日常にありふれた問いであると思いました。

毎日考えているけど、上手い答えが見つかっていません。

同意ということからまずは見つめなおしてみようと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.626 〜「愛」に関しての考え始めたい人へのオススメ本3冊〜

2017.12.19  【637日連続投稿】

 

  先日、STEPのイベントにてワールドカフェを行った際に「愛」をテーマに話し合いが行われているグループがありました。話を聞いてみると、「愛」は人によって様々な形の愛があるという話を聞きました。

 ちょうどイベント前日にテレビを見ていると、不倫経年がある方々が愛について話しているシーンを偶然見て、ある女性の方が「夫が不倫をしているなら気づいていないふり、自分がしていた時はバレないようにする。これは夫婦を保つための愛である。」と話されていました。この発言の内容については置いておいて、人によって愛の形があることを物語っている一言のように感じました。

 

 とても曖昧でありながらも、時に多く使われている「愛」という言葉を今までは特に考えていなかったけど、これから深く知りたい、考えたいという方にオススメの本たちがこちら。

 

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《1冊目》

『中学生からの愛の授業』

著:宮台真司

廣安の一言コメント:著者の宮台さんと中学生との対談形式で書いてあるから読みやすく、ポップに書かれている切り込み鋭い一冊。

中学生からの愛の授業

 

《2冊目》

『愛に関する十二章』

著:五木寛之

廣安の一言コメント:「許されない愛などない」を根底に展開される十二章は、沢山の愛の形に触れる旅になると思います。

愛に関する十二章

 

《3冊目》

『愛するということ』

著:エーリッヒ・フロム 訳:鈴木晶

廣安の一言コメント:私が大学生の時に恋愛に失敗した際に、思わず購入した一冊で世界的ベストセラー。読むには根気がいるかもしれないが、きっと自分の心に刺さる言葉が見つかる一冊。

愛するということ 新訳版

 

愛については、人と話す時にこっぱずかしいと思うかもしれませんが、そういう人はまずは本から入ってみるのも一つの手かもしれません。

 

おわり。

本日のつれづれ no.625 〜STEP SEASON V を終えて〜

2017.12.18  【636日連続投稿】

 

 昨日、STEPという教育に興味関心があり教育をよりよくしたいと思っている人が集まるイベントを行いました。SEASON Ⅴということで、STEPが始まり5年目になりました。今回も名古屋のオシャレカフェLDK覚王山で行いました。小、中学校、大学の先生、企業、会社員、NPO関係、高校生、大学生が集まり、計30人程参加してくださり、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

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 昨日話せなかったことや参加できなかった方がいらっしゃると思うので、今回イベントの経緯なども踏まえて書こうと思います。あくまでも私の感想であり、考え、観念ですので、ご了承下さい。

 

まず、STEPが始まったきっかけは、私の大学の先輩であり、元シェアハウスメンバーであった安永太地さんの存在があります。

安永さんが大学在学中に教職を取っている際に感じられた、「実際に学校現場に入ると色んな考えを持った人がいるだろうし、予めいろんな大学や教員の方と繋がりを持っていた方がいいな」という想いから作り上げた場が「教育についてみんなが語れる場  STEP」だったというわけです。ちなみに、安永さんは昨日参加されてました。(前髪だけ茶髪だった人です。)

 

 そんな私がSTEPに関わるきっかけは、友人の誘いで第1回のイベントに参加したことでした。それから何度かイベントに参加する立場でしたが、2年前から企画運営に携わることになりまして、今年も続いて関わりました。

 

今年においては、関わったと言うよりも、昨年のイベントに参加して同じグループで交流した愛知教育大学2年生の三浦理沙さんと話している中で、「今年のSTEPを作り上げていこう」ということになったので、今年やるきっかけだったんだなと今振り返って見ると思います。

 

最終的に学生4名、社会人は私含めて2名の計6名で今年は企画運営をしていくことになりました。

 

はじめて集まった時にみんな教育に関心ある人ということで「教育に対してどんな想いを持っているのか」ということを話し合ってみたところ、みんな考え方が異なるといいますか、一人一人の「教育」という言葉が異なる意味を持ってるんだということを私は感じました。

 

 異なる考えを持っている人が6人集まって0ベースから一つのものを作り上げていくことを今回はやったんだと思います。一見、かっこよく聞こえたり凄そうに見えたりするかもしれませんが、私の中での一番の感想は「かなり難しいことに挑んだ」です。

 

 社会人が引っ張るのではなく、学生に丸投げするのではなく、それぞれ立場が異なるだけで対等に関わっていくことを意識してやっていたつもりです。

最初は、なんだか「話が通じない」と感じたこともありました。なんだか「噛み合わない」と感じたこともありました。

でも、ある時ふと「話が通じる」「噛み合う」と感じた時がありました。

「話が通じない」時と「話が通じた」時は何が違っていたのだろうか?と考えてみたところ、話し合いを積み重ねた結果という言い方もできるかもしれないですが、「問いがあるかないか?」ということじゃないかというのが私の意見です。

「問いがある」といっても、何でもいいわけじゃなく「相手が話したことに対して問いを出せるか?」ということです。そして、問いを出すことを目的としても問いは出にくいです。問いを出すことの先にある目的があるから問いは生まれるのだと思います。

 

 私が話したことに対して、「それってどういう意味なんですか?」「それは何でそのやり方何ですか?」と学生が聞いてくれたのは、ただ質問を出そうと思って質問しているのではなく、「よりよいイベントにしたい」であったり、「分からないから分かりたい」という目的が意識してたのか無意識であったのか分かりませんが何かしら目的があったから、生まれたんじゃないかなと思います。

 

大分、話がズレた感じですが、今回のテーマの「問いストーリー」〜問いから始まる、これからの私〜というのは私たち自身のテーマでもあったのだと思います。

 

昨日参加者の方々がどんな話をされたのかは詳しく分かりません。ただ、充実した話ができた人もできなかった人も「問い」というものが自分や自分の関わっている人たちとの関係性を変える重要な鍵になるということを知ってもらえたら、本当に嬉しいです。

 

最後にSTEPはこれからもゆるりと年1回年末を目安に動き続けると思います。今年で5年経ちましたが、10年経たらもっと面白いコミュニティになるだろうということをフワッと思っているので、何だかんだ続いていくんじゃないかと思います。

 

来年、またお会いしましょう。

*もし、企画運営に関わりたい人がいたらご連絡頂けると嬉しいです。

 

おわり。

本日のつれづれ no.624 〜綾屋紗月・熊谷晋一郎『発達障害当事者研究』より〜

2017.12.17  【635日連続投稿】

 

たとえ人のなかで「楽しい」を感じられなくても、

私はたまに「集団の楽しそうなよう様子を眺めてみたい」と思って出かけていく。

「みんなつながれて羨ましいな」

「私はつながれなくて寂しいな」

そんな二つのせつない気持ちをかかえながら、

楽しそうな笑顔の群れを見て、つながっている気分のおすそわけをいただく。

今となっては結局それが、

私流のヒトの集団とのささやかながらのつながり方なのかもしれない。

 

発達障害当事者研究より

本日のつれづれ no.622 〜エーリッヒ・フロムが考える能動と受動〜

2017.12.16  【634日連続投稿】

 

 落ち込んだ人間は、自分が何かからっぽになったように感じる。まるで手足が萎えたかのように、活動するのに何かが欠けているかのように、身体を動かすはずの何かが足りないためにうまく動くことができないかのように感じる。そこで、何かを摂取すると、からっぽだとか、萎えたりとか、弱ったとかいう感じはしばらくは消えて、自分はやっぱり人間だが、確かに何かを持っているし、無ではないと知覚する。人は自分の内の空虚を追い払うために物を詰め込む。これが受動的な人間である。彼は自分がちっぽけだという不安を持ち、その不安を忘れようとして消費し、消費人となる。

(中略)

 刺激に対する単なる反作用としての〈能動〉、あるいは外観は情熱のようでも実は外力に動かされている〈能動〉は、いかに大げさな身振りをしても、基本的には受動である。

 

『人生と愛』「私たちの社会の過剰と倦怠」より エーリッヒ・フロム著

佐野哲郎。佐野五郎訳

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.621 〜寒くてやる気がでないそんな時は...〜

2017.12.15  【633日連続投稿】

 

 師走になり、一気に本格的な冬が到来してきたなと思っている廣安です。先日は、寒くて寒くて布団から出れず初めて仕事に遅刻してしまいました。(多分、アラームのかけ忘れだと思っていますが、アラームを認識できないくらい深い眠りについていたのか?)

私が住んでいる愛知県名古屋市では、最低気温が0度が当たり前の日々が続きています。今週は雪がぱらついている瞬間もありました。

 

シェアハウス「サムハプ」にはリビングにエアコンがついていますが、それぞれの部屋にはなく、夏は熱帯、冬は極寒になります。私の部屋には幸いにもコタツがあり、過去2度の冬はコタツで凌いできました。

今年もコタツで冬を越えようと思っています。コタツはいいです。コタツでコタツに入ればなんとかやってこれるのです。大学の時の冬もコタツだけで凌いできました。

コタツがいかに優れたものであるかは自分自身が最もよく知っていると思っています。しかし、コタツで寝ると危険でもあるようなのでコタツの力に過信し過ぎるのはよくありません。要注意です。

 

コタツで寝るのは危険! 最悪、死に至ることも…【注意喚起】 – grape [グレイプ]

こたつで寝る毎日の対処法!寝ると疲れ、風邪、健康面、死亡の危険性が山ほど | しずくの海洋日報

 

さて、本題の「寒くてやる気がでないそんな時は...」ですが、そもそも寒いという理由だけでやる気が出ないのかよくわかりません。しかし、やる気がでない時は無理にやる気を出そうとしないのがやはりやる気が元気が湧く一番の近道だと思うのです。

力を蓄えておけば力を出すときに出せるのだと思います。寒いとそもそも体の体温が奪われ、人は本能的に体温をあげようとして、頑張ろうと思っていなくても頑張っています。そりゃ何もしなくても疲れるし、やる気はでない。体を温めるのがよいかと思われますので、お風呂に浸かったり、温かいものを食べたり努めるのがよろしいかと思います。

 

やる気がでない時は、ご自愛ください。

やる気が出る・出ないに振り回されない日々をお過ごし下さい。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.620 〜桜沢如一『永遠の少年』より〜

2017.12.14  【632日連続投稿】

 

 私は、六十年の一生の間、世界中を歩きまわり、あわゆる人を見、色々な本を読み、昔のえらい人々の本をたくさん読み、無数の不幸な人々を見、話を聞き、読み、してきた結果、幸福な人となり、楽しい、楽しい一生を送るには、幼いころ、ずいぶんあこがれた学校とか教育というものが、なくてはならないものではないということを発見しました。つまり学校や教育が多くなればなるほど、この世には、戦争や、いさかいや、犯罪や、悲劇が多くなっているという事実を発見したのです。そして、その学校や教育と、人の不幸というものがどんなつながりがあるのかということを発見したのです。このつながりさえわかれば、学校や教育は少しも必要ではないし、あっても、少しもじゃまになるものではないのです。

 

桜沢如一『永遠の少年』 p.107~108

 

おわり。

本日のつれづれ no.619 〜「唐揚げを食べること」は意志か?選択か?〜

2017.12.13  【631日連続投稿】

 

 私は好きな食べ物はズバリ唐揚げです。少なくとも一週間のうち4食は唐揚げを食べてるんじゃないでしょうか?

 

そんな私にとって「唐揚げを食べることは、意志でなされているのか?選択によってなされているのか?」ということを考えて見たいと思います。

 

参考にする文献は、最近ブログに頻繁にあげている『中動態の世界』(著:國分功一郎)です。

 

 

まず、意志と選択の言葉がどのように異なっているのか見てみましょう。

 

 意志の概念は責任の概念と強く結びついている。このことは「意志」が、その日常的用法においても何ごとかを始める能力として思い描かれていることを意味している。何らかの行為を自らの意志で開始したことと想定されるとき、その人はその行為の責任を問われるのである。

 

ある行為が過去からの帰結であるならば、その行為をその行為者の意志によるものと見なすことはできない。その行為はその人によって開始されたものではないからである。たしかにその行為者は何らかの選択はしたのだろう。しかしこの場合、選択は諸々の要素の相互作用の結果として出現したのであって、その行為者が己の意志によって開始したのではないことになる。

 日常において、選択は不断に行われている。人は意識していなくても常に行為をしており、あらゆる行為は選択である。そして選択はそれが過去の帰結であるならば、意志の実現とは見なさない、ならば次のように結論できよう。意志と選択は明確に区別されねばならない。

 

國分功一郎『中動態の世界』p.130~131 一部抜粋

 

以上のことを踏まえていうと、

まず唐揚げが大好きな私の場合は「唐揚げはめちゃ美味しい」と知っている。

美味しいと知っていることは、過去に食べた経験があるからである。

その時点で既に、過去に帰結しており、選択をしていることになる。

よって、「唐揚げを食べること」は自分の選択である。

 

逆に、「唐揚げを食べること」を意志だと考えるならば、このような状況でなければいうことはできない。

まず、唐揚げを食べたことも見たことも、聞いたこともない。

過去に何の帰結しない、過去から見ても何も知らない。ということが必要だろう。

もっと言えば、鶏肉は食べられる、他人から食べるように唆されていない、過去や周りから何も影響を受けずある時突然唐揚げを口にした。そのそのような状況がもしあるなら、意志で「唐揚げを食べる」ということができるだろう。

 

よく「自分の意志を持て」など耳にすることがある。進路や今後のことを迷っている人に、言われてそうだ。

でも、よく考えれば「意志を持つってことは、0から何か始めろ」と言っているに等しいことのように思える。

言葉っていうのは、難しい。使う人が10人いれば10通りの意味で使うし、聞く人が10人いれば10通りの意味で聞く。

だからといって、明確に決まっていた方がいいなんてことはなく、それぞれがどんな使い方や聞き方をしているのかを知っていく気持ちがあれば、言葉以上に分かることができるんじゃないかと思っている。

 

今夜は、唐揚げが食べたい気分です。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.618 〜始める理由はなんでもいい。読書編〜

2017.12.12  【630日連続投稿】

 

今日は読書の話をしようと思います。

 

20歳くらいまでは、サッカーの本くらいしか読んでいませんでしたが、今ではそれよりは読む本の幅が広がったように思います。どんなジャンルなのかよく分かりませんが、小説では少なく、他人の考えてることから学ぶために読んでいる感覚を持っています。

 

読書するようになったきっかけは、単純に「ある賢い人がかっこよく見えて、その人がたくさん本を読んでいて、考える人だったから」でした。

 

単純に言えば、「憧れ」や「賢くかっこよく見られたい」ということでした。

 

あと、よく集まる人たちが本の話をしているから、みんなが話すネタの本は読んでおいた方が、話に混じれるからというのも大きく影響しているように思います。

 

そんな理由で本を読み始めましたが、読み続けてみると面白さに気づいてきました。

本を読んだ時に、忘れていたものを思い出すようにハッとなることや自分では上手く言えないことを言ってくれていることなど、そんな心が動く瞬間が本を読んでいるとあります。

 

そんな経験もあって、すっかり今は本を読むことと無縁な生活ではなく、気になる本があるとすぐにアマゾンでポチっ買ってしまう生活に変わってしまいました。

 

ということで、始める理由はなんでもいいシリーズが始まる予感がしています。

 

おわり。