2019.03.16 【1086日連続投稿】
「社会的活動の中での記号の働きについて研究する学問というものを私たちは構想することができる。(略)私たちはそれを(ギリシャ語の『セメイオン(記号)』にちなんで)記号学(セミオロジー)と名づけようと思う。この学問は、記号の本質とは何か、いかなる法則性が記号を統御しているのかを問うものとなるであろう。記号学はまだ存在していない。だから、それがどのようなものであるのかを言うことはできない。しかし、記号学は存在する権利を有しており、その地位はあらかじめ決定されている。言語学はこの包括的な学問の一部分にすぎない。」
(『一般言語学講義)
記号というのは、意味するものと意味されるものがセットになったものです。
どういうことかというと、例えばサッカーをやりたいけどボールがない時、ちょっど行儀は悪いですが靴をボール代わりに使うとしたら、靴(意味するもの)にボール(意味されるもの)の性質があることをその場にいる人が共通項としている状態ということです。
世の中記号に溢れている。
そして、記号の取り違えにより人と人はすれ違うし、すれ違いが大きくなることで、そのすれ違いの捉え方まで勘違いを起こし、人と人の距離が離れてしまうことはどうしてだろうか?
おわり。