2020.03.25 【1461日連続投稿】
私は二十一世紀は「方法の時代」になるだろうと考えている。ここで「方法」といっているのは、「主題の時代」ではないという意味だ。
すでにわれわれは二十世紀においてだいたいの主題を提出し、その展開が意外にも難題をたくさんかかえていることを知った。たとえば平和、たとえば教育問題、たとえば安全保障、たとえば経済協力、たとえば環境保全、たとえば飢餓脱出・・・。これらは地球上のどんな社会にとっても、いまや最も重要な主題として認識されている。加うるに「地球にやさしい」「子供は創造的な環境にいたほうがいい」「市場は自由な競争がいい」といったことは、まるで「亭主元気で留守がいい」「お酒はぬるめの燗がいい」とばかりに、おおむね二十世紀後半の大前提になった。
しかし、事態は決してうまく進んでこなかった。誰だって戦争は危険なもの。爆撃は危険なものだとおもっているけれど、戦争はなくならないし、経済恐慌は避けたほうがいいとはわかっているが、どの国だって好景気はなかなか続かない。亭主も元気でいるとはかぎらない。
つまりどのような主題が大事かは、だいたいわかってきて、ずらりと列挙できているにもかかわらず、それだけでは決してうまくいかなかったのである。それゆえ、おそらく問題は「主題」にあるのではない。きっと、問題の解決の糸口はいくつもの主題を結びつける「あいだ」にあって、その「あいだ」を見出す「方法」こそが大事になっているはずなのだ。
松岡正剛『知の編集術』p.38〜39
俗に言われる「社会課題」は世の中に、数えられないほど溢れているのではないだろうか。
私は二十世紀末に生まれたが、課題があることが当たり前という状況で育ってきている。
戦争も高度経済成長もバブルも知らない。
もちろん、歴史的に何が起きたのかは知っているが。
やはり、課題に慣れきってしまって当たり前にしないことが重要ではないか。
自分が困っていないから、自分はいいや。といく気持ちは、課題から目を逸らしているのだろうと思っている。
トレンドでいうと、「自分はコロナじゃないから、気にせずにいつも通り外出するし、マスクも手洗いもしない」っていうのは、もしかしたら自分を介して誰かにウイルスを移しているかもしれないのである。
自分ごとにしなくてもいいが、課題があることを認識し目を逸らさないこと。
課題は並んでいるのであるから、あとはいかに編集していくかだけであり、これからどういう生きていくかということであると思う。
おわり。