名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.592 〜過ぎたるはなお及ぼざるがごとし〜

2017.11.17  【606日連続投稿】

 

「過ぎたるはなお及ぼざるがごとし」という言葉をご存知でしょうか?

 

ネットで検索するとこのような意味でした。

 【意味】

過ぎたるは猶及ばざるが如しとは、度が過ぎることは、足りないことと同じくらい良くないということ。

 

なるほど、めちゃくちゃ簡潔に言うと、「やり過ぎは良くない」ってことでしょうか。

足りな過ぎても、やり過ぎても、良くない。そんなことって結構あるように思います。

 

やり過ぎに関していうと、

食べすぎ、

寝すぎ、

働きすぎ、

これらの言葉は「やり過ぎ」の部類として使われる言葉ですが、未だに働きすぎるくらいやらないと成長しないなんて言われることがあると耳にします。

 

一見、これが良いとされるものでも行き過ぎると、良いものから良くないものに変わってしまう。

 

といっても、やり過ぎる経験がないと何で良くないのかってことも分からないと思うので、一回くらいやり過ぎた時に、この「過ぎたるはなお及ぼざるがごとし」という言葉を思い出すことになるのかなと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.591 〜第1回教師塾の振り返りリーフレットより 〜

2017.11.16  【605日連続投稿】

 

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これは2016年8月20日に行った第1回教師塾の振り返りリーフレットです。

 

講師にセルフデザインスクール「寺子屋塾中村教室」を営まれている井上淳之典さんをお呼びして、「コミュニケーションにおける聞く姿勢」というテーマでおこないました。

 

昨日過去の資料を探しているのか偶然見つけました。

 

今見返しても、このとき感じたことが大切なことだったんだなという気持ちになりました。

 

このリーフレットが言いたいことは何なのか?

 

それは自分なりに「学ぶということはどういうことなのか?」ということを大まかに考えるとこのような図に表されたのだと思います。

 

「学ぶ」と「忘れる」な繰り返す中で変化が起きていく関係を表した螺旋。

これは、学ぶということは「ある一定のことで完結することではなく、変わり続けること」を言いたかったんだろうなと今の私が見て思いました。

 

そして、はやり「学びたいことしか学べない」という言葉は、誤解される可能性がありますけど、今でも本当にそうだなと思っています。

 

たしかに、学ぼうとしてなかったことを学ぶ経験はあると思うのですが、そもそも原点の「学びたい」と思えるかということが大切だと今でも思います。あえて、今言い換えるなら「やってみよう。やり続ける。という気持ちがなければ、学びはない」と思えます。

 

学んだ気持ちがあってもその場限りの自己満足感のような学びしかないでしょう。

 

第5回の教師塾は、第1回目のコンテンツと同じインタビューゲームを実施します。

大学時代に専門的に学んでいたわけでもなく、まだ社会人経験も乏しい私でも、人様に何かを通して伝えることができるのは、インタビューゲームを継続して50人以上の方と実施をした経験があるからだと思っています。

 

人様に何か伝えるとなった今、さらに私自身の学びが深くなっていることを実感しながら当日いい時間にするために準備に励みます。

 

あっ、ちなみにまだ参加可能です。

第5回 教師塾 ~聞くとは何か?人生が変わる対話への扉~

 

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.590 〜聞けるようになるには日常から〜

2017.11.15  【604日連続投稿】

 

今月は教師塾、来月はSTEPと教育関係者やコミュニケーションに関心ある方が集まる場をつくっている最中で思うことは多々あるんですけど、その中で流行り一番伝えることは「聞くこと」なんだなぁと改めて実感しています。

 

どうすれば、聞けるようになるのか? 

と考えると、日々「聞いてみたい」と思うことを自分の中で持つようにするなどの日常が大切なんだと思います。

スポーツでは、練習でできないことが試合でできることはなんてことはありません。

聞くことに関しても、日頃できない人がいざ「質問する場面」に遭遇した時にできるはずがないんです。

 

まずは、私自身がそのように日頃から「聞くこと」を意識しているか?と振り返ることが大切なんだと気付きました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.589 〜何をしないか?〜

2017.11.14  【603日連続投稿】

 

11月19日に教師塾で講師を務めさせて頂きます。

 

それに伴って、準備をしているわけですが、ものの準備もあれば、心の準備もあります。

 

こういう時になったら、これに気をつけよう。これを言おう。などなど考えれば考えるだけ、必要そうなことが出てきます。

 

ただその中で、「これはしない」と心に留めておくことも大切だなと気づいたのです。

 

こうやれば上手くいくやり方があったとして、その場で上手くいくことが大切なのでしょうか。

 

安心して上手くいかない中で、いかに自分なりにやってみるかという経験の方が大事だなと最近は思うようになってきたので、できるだけ上手くいかないように仕向けるわけではないですが、順調に上手くいかない経験をしてもらうためには、教えすぎなかったり伝えすぎないことなどが大切な気がしています。

 

これを抽象的に表現すると、「何をしないか?」ということになるんだなと思いました。

 

11月19日、コミュニケーションを深めたい人は是非いらしてください。

第5回 教師塾 ~聞くとは何か?人生が変わる対話への扉~

 

おわり。

本日のつれづれ no.588 〜『逝きし世の面影』に次ぐ、ブログ作戦読書。〜

2017.11.13  【602日連続投稿】

 

この本は、『逝きし世の面影』(著:渡辺京二)と同じように少しずつ気づきや学びをブログに書こうとしないと読み切れなさそうな本だと思いました。

 

ブログに書くから、読むしかない状況にする。

この作戦で読もうと思っている本がこちら。

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

なんとなく惹かれて購入した本ですが、医学書院が発刊されている専門書でした。

 

なかなか難しい。哲学が並べられている本を読むのは久しぶりなので、これはブログに書かないと読み切れない感じだと感じました。

 

これから、ちょいちょいどころかたくさんブログにアップしていくと思います。

 

おわり。


 

本日のつれづれ no.587 〜ミッション(理念)とビジョンの違い〜

2017.11.12  【601日連続投稿】

 

 昨日、寺子屋塾で約3ヶ月ぶりに未来デザインのワークに取り組みました。

 

今回で取り組むのは4回目ですが、1度も最後までやりきったことがないので、今回こそは最後までやりたいと淡く思っています。意気込む必要はないと思うので。

 

さて、毎回混同してしまうのが、ミッション(理念)とビジョンの違いなのです。

 

これの違いを理解しておくことが、未来デザインの最初の考程で必要不可欠なのです。

 

やっと分かってきたと思うので、自分なりの言葉でまとめておこうと思います。

 

ミッション(理念)とは、「ゴールがない向かい続ける的。北極星のような存在。像としてイメージできない抽象概念。」

 

ビジョンとは。「実現可能な未来像。イメージできる具体概念。」

 

プロサッカー選手に例えると...

 

ミッション(理念)→生きがい・人々に夢を与える

ビジョン→バロンドールを受賞(世界一のサッカー選手の称号)

 

ミッションとかビジョンとか、よく聞く言葉ですが違う言葉なんだということを心に留めておこうと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.586 〜國分功一郎『中動態の世界』-効果としての意志は残る-〜

2017.11.11  【600日連続投稿】

 

今回の記事はこの記事のつづきです。

本日のつれづれ no.584 〜國分功一郎『中動態の世界』-行為は意志を原因としない-〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

 だが、スピノザの考察は「自由意志の否定」をもって終わるのではない。スピノザは、にもかかわらずなぜわれわれは、「行為は意志を原因とする」と思ってしまうのか、と問うことを怠らない。その著書『エチカ』では、意志の自由を否定する箇所に続いて、次のような印象的な挿話が語られている。

 われわれは太陽の光を浴びると、それがまるで自分たちのすぐ近くにあるかのように感じる。太陽があまりにも強いエネルギーを発しているからである。もちろん、太陽はわれわれのすぐ近くにはない。だからわれわれは、太陽を自分たちの近くにあると感じることそのものが誤りであるかのように考えてしまう。

 しかし、スピノザによればそうではない。

 なぜなら精神はここで、身体が受ける刺激に基づいて太陽のことをイメージしており、またそのような刺激を身体に与えることは、太陽がもつ特性の一つだからである、もし太陽までの真の距離を知らなかったとしたら、この知識の欠如は誤謬と言われうる。だが、太陽までの真の距離を知ったとしても、太陽の光を浴びれば、われわれは「やはり太陽をちかくにあるものと表象する」のだ。

 太陽の光と人間身体が出会ったとき、両者のもつ特性ゆえに、そのような効果が発生する、スピノザは意志についても同じようにこれを効果として考えた。われわれの精神は物事の結果のみを受け取るようにできている、だからこそ、結果であるはずの意志を原因と取り違えてしまう。そのことを知っていていたとしても、そう感じてしまう。「われわれが意志の表れを感じる以前に脳は活動を開始しているのだよ」などと訳知り顔で語る学者もそう感じているし、それを教わった人もそう感じ続ける。

 そもそも、哲学者ハンナ・アレントが意志をめぐる考察のなかで明確に指摘してるように、スピノザは意志の自由を否定したのであって、「意志が主観的に感じられた能力としては存在していること」についてはこれをはっきりと認めているのだ。スピノザは自由意志の不可能性がどれだけ認識されようとも、意志は効果としては残ると考えたからである。

 

國分功一郎『中動態の世界』p.30~32

 

要するにスピノザは「意志は、行為の原因ではない。しかし、人間はそのような意志が現れた背景や理由は意識できないから、どうしても意志から認識するものだから。意志が行為の原因だというように感じてしまうものなんだ。」とまとめることができると思いました。

 

久しぶりに哲学っぽい世界に入っております。

 

おわり。

 

 

 

本日のつれづれ no.585 〜何のために対話するのか?〜

2017.11.10  【599日連続投稿】

 

私は結構、対話という言葉を使います。

 

対話とは何か?ということも考えきたけれども、

 

対話するのは、何のためか。を考えることが大切なのかもしれない。

 

この前提がお互いが違うと対話は生まれない。

 

この前提がお互いが一緒であったり、合っていると対話は生まれる。

 

なぜなら、そもそも話す目的の前提が違うと相手を深めようとは思わないからだ。

 

おわり。

本日のつれづれ no.584 〜國分功一郎『中動態の世界』-行為は意志を原因としない-〜

2017.11.09  【598日連続投稿】

 

  現在、脳科学やそれに影響を受けた分野では、行為における意志の役割に強い疑いの目が向けられている、とはいえ、意志を行為の原動力と見なす考え方が否定されたのはこれがはじめてではない。哲学において、意志なるものの格下げをもっとも強く推し進めたのは、十七世紀オランダの哲学者、スピノザである。

 意志概念に対するスピノザのアプローチを理解するうえで忘れてはならないのは、彼が、しばしその主張として紹介される「自由意志の否定」には留まらなかったということである。

 たしかにスピノザは、「自由な意志」という概念を斥け、この世界とわれわれの心身を貫く必然性に則って生きることをよしとした。スピノザによれば、意志は「自由な原因」ではない。それは「強制された原因」である。すなわち、私が何ごとかをなすのは、何ごとからも自由な自発的意志によってではない。いかなる物事にも、それに対して作用してくる原因があるのだから、意志についてもそれを決定し、何ごとかを志向するよう強制する原因がある。人々がそのことを認めようとしないとすれば、それは、彼らが自分の行為は意識しても、行為へと決定する原因のことは意識していないからに過ぎない。

 こうしてスピノザは簡潔かつ説得的に、「行為は意志を原因とする」という考えを斥けた。

 

國分功一郎『中動態の世界』p.30

 

なるほど。

意志が何をする時も決定するという考えに対してスピノザは、何事にも作用するものがあるのだから、意志についてもなんらかの作用がある。だから、意志にどんなことが作用しているのかを見ようとすることが重要だ。と言っている気がする。

 

スピノザの考察はこれでは終わらない。続きはまた明日。

 

おわり。

本日のつれづれ no.583 〜意志が強いからできるのか?〜

2017.11.08  【597日連続投稿】

 

意志が弱いから、〇〇ができなかった。

 

なんて思ったことはないだろうか?

 

たとえば、毎日6時に起きると決意したとしてもできなかったのは、「自分の意志が弱かったせいだ」とうことを思ってしまうのは、なんとなく想像しやすいと私は思います。

 

そもそもここでいう意志っていうのはなんだろうか?

 

起きようと強く思えば起きれると言いたいのだろうか。

 

たしかに、1日や1週間ならできるかもしれない。

 

でも、意志が強いだけで続けることはできるのだろうか?

 

私の場合、意志の強さだけで続けられるという経験は未だしたことがない。

 

この事実は「自分の意志が弱いことを証明している」のだろうか?

 

意志によって全てが上手くいくわけじゃなさそうだ。

 

そう私は思っている。

 

おわり。