名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.583 〜國分功一郎『中動態の世界』-接続されつつ切断されたもの?-〜

2017.11.07  【596日連続投稿】

 

  意志は自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のことである。意志はそれまでに得られたさまざまな情報をもとに、それらに促されたり、急き立てられたりと、さまざまな影響を受けながら働きをなす。

 ところが、不思議なことに、意志はさまざまなことを意識しているのにもかかわらず、そうして意識された事柄からは独立しているとも考えられている。というのも、ある人物の意志による行為と見なされるのは、その人が自発的に、自由な選択のもとに、自らでなしたと言われる行為のことだからである、誰かが「これは私が自分の意志で行なったことだ」と主張したならば、この発言が意味しているのは、自分がその行為の出発点であったということ、すなわち、さまざまな情報を意識しつつも、そこからは独立して判断が下されたということである。

 意志は物事を意識していなければならない。つまり、自分以外のものから影響を受けている。にもかかわらず、意志はそうして意識された物事からは独立していなければならない。すなわち自発的でなければならない。この矛盾をどう考えたらいいだろうか?

 われわれは後に意志の概念をより詳しく検討する。ただ、この段階で通りすがりに軽く論じてみただけでも、この概念にはなんらかの困難が見出されることが分かる。意志は自分以外のものに接続されていると同時に、そこから切断されていなければならない。われわれはそのような実は曖昧な概念を、しばしば事態や行為の出発点に置き、その原動力として見なしている。

 

國分功一郎『中動態の世界』p.23

 

おわり。

本日のつれづれ no.582 〜客観的に見るコツ〜

2017.11.06  【595日連続投稿】

 

自分ではなかなか客観的に見ることができないことは、他人から見た視点をもらえると自分だけで見るよりは客観的に見るようになるなぁと感じます。

 

自分にある言葉を並べるのに思考を使っていたり、自分のフィルターから抜け出そうとするのにもがいたりすることにエネルギーを使うけど、他人は受け取った言葉を眺めるということだけにエネルギーを使えばいいから客観的に見やすくなるのかもなぁと思う。

 

おわり。

本日のつれづれ no.581 〜身につけすぎないこと〜

2017.11.05  【594日連続投稿】

 

身につけるよりも削ぎ落とした方がいい時期があると思う。

 

自分の特性が分かっていないのに、あれこれ身につけても、身動きが取りづらかなってしまう。

 

身につけるのは、自分が分かり始めてからでも遅くはないと思う。

 

今のままじゃだめだ。

その気持ちが本来の自分を見ようすることを邪魔する。

 

削ぎ落とすことは、何も捨てるってことではないと思う。

あれこれ手を出さず、これかなと思うことを淡々とやってみることなんだなぁ。

 

おわり。

本日のつれづれ no.580 〜思い込みはなくならない〜

2017.11.04  【593日連続投稿】

 

思い込みはよくない。

思い込みはできるだけしないようにしよう。

思い込みがないことがいいことだ。

 

なんて思い込みがありませんか?

 

たしかに、思い込みによる問題が起きることもあるけれども、

思い込みをいくら外そうとしても、思い込みから逃れることはできないです。

 

だから、常に何かの思い込みがあるはずだと思って

他人と話したり関わったりすればいいと思っている。

 

むしろ、思い込みがよくないのではなく、

思い込みがあることを前提にそこからどうしていくかという視点や思考がないから、

思い込みに苦しむのだろうな。

 

おわり。

本日のつれづれ no.579 〜上手くいくより上手くいかないことが宝なわけ〜

2017.11.03  【592日連続投稿】

 

いつからだろうか。

 

上手くいくことより、上手くいかないことの方が自分にとって宝物のような貴重な経験だったと少しは思うようになったのは。

 

良い時はいい。

悪い時は悪い。

 

時にはそうやって割り切るようなことも、自分を保つ為には必要だろうとは思う。

 

だけども、目を向けたくないような出来事が起きた時にいかに対処するかというのはとても大切だと思います。

それはやっぱり、上手くいっていないことを経験しそれを目を背けることも、凝視することもせず、自分の中で受け入れられたら、それでいい。

 

「同じ失敗をするな」

とよく耳にするし、子どものときにはよく言われたような気がする。

 

誰かの言い訳とかにできたり、失敗を正当化しようとしてしまう状況の中で失敗すると「失敗からは何も得られない」と思います。

 

だから、上手くいかず失敗だったけど「自分は何ができたのだろう」と考えるだけで、上手くいかなかった経験を貴重だと思えるようになるかもしれない。

 

後ろを向きばかりでも

前向きすぎても

って感じがします。

 

おわり。

本日のつれづれ no.578 〜自分の調子を見るってこと〜

2017.11.02  【591日連続投稿】

 

自分の調子が分かるのは、超人的な人に出会わない限り自分しかいないと思います。

(超人的な人については、体を触ったり見たりするだけでその人の調子が分かってしまう人がいると半分信じているということです。)

 

疲れてる=ゆっくり休む

 

これは基本中の基本だと私は思っていますが、

 

毎日らくだプリントをやる。

毎日ブログを書く。

これらのことを続けていると、疲れているなりにもどうするかという対処を取るしかない状況に追い込まれます。

人間、追い込まれるとなんとかしようとする本能があるんでしょう。

それなりに、やるんですね。

 

どうやるかというと、疲れているといっても四六時中体を全く動かせないほど疲労していることはほとんどないと思います。どこかのタイミングで、「重い腰をあげようかな」みたいなタイミングがやってくれると思います。そのタイミングを逃さず、やるってことがより自分を見ることに繋がる気がしています。

 

決して、無茶に気合いでやるのではなく、自分の調子に合わせていかにできるかというタイミングを観察しておくことが大切なんだと思います。

 

今年の正月に書いた今年の抱負が「淡く続ける」でした。

一年の抱負がちゃんと自分を捉えていることが今までなかったと思うので、少しびっくりしています。

 

時間に余裕がある時や調子がいい時にできるのは当たり前。

忙しい時や大変な時にやるからこそ、気づくことがあるんですね。

また、その気付きで疲れが吹っ飛んだ気になったりするので、やりつづけちゃってるんでしょう。

 

おわり。

 

 

 

本日のつれづれ no.577 〜「スッとやる」とは?〜

2017.11.01  【590日連続投稿】

 

このブログでよく「スッとやる」という表現を使います。

 

この「スッとやる」という表現はとても感覚的な表現だなぁと今になって思いました。

 

では、私が思う「スッとやる」とは、どういう意味なのだろうか?

 

あれこれ考えず、とりあえずやる。

 

まずはやってみる。

 

そんな感覚はしているが、極端にいえば、一つ一つ意思するまでもなくやることが「スッとやる」に相応しい気がしている。

 

今の私が、

歩こうと思って、歩き方を考えることはない。

食べようと思って、口の動かし方を考えることはない。

水を飲もうとして、水の飲み方を考えることはない。

 

これらはやろうと思ったら、やろうと意気込んだり気が高まらないとやらないことではない。

ふと思ったら、気づいたらもうやっているようなことであると思います。

 

これが私が言う「スッとやる」ってことに近いのだと思いました。

 

おわり。

読物つれづれ no.10 〜宮台真司『14歳からの社会学』〜

2017.10.31  【589日連続投稿】

 

 

読物つれづれとは、私が読んだ本の記録として、感想、気付き、印象に残った箇所を紹介したりするものです。

 

10冊目に読んだ本は、『14歳からの社会学』(著:宮台真司)です。

 

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

 

宮台真司さんのことを知ったのは、『中学生からの愛の授業-学校では学べない、宮台真司が10代に本気で教えたいこと-』の中身を、名古屋市本陣で寺子屋塾をやられている井上淳之典さんがブログで書かれていたことがきっかけです。

 

『中学生からの愛の授業』を知り、同時に『14歳からの社会学』も知りました。同時に2冊を購入し、なんとなく『中学生からの愛の授業』のほうが内容がディープなイメージがあったので、『14歳からの社会学』から読むことにしました。

 

読み終わっても、社会学ってなんだだろう?と思います。

しかし、結局は自分にとって「社会」とは何?

自分にとって「幸せに生きるとは何?」

あなたはこれから「どう生きていくの?」

と考える時に、背景として見ておくべきことが社会学にはあるのではないかと思いました。

 

「社会」という大きそうで目に見えない概念は、人間の中で生まれています。

他の動物たちは「社会」という概念はおそらくないでしょう。(仲間や群れを社会と思っているかもしれませんが、そこから自分たちがどう生きるなんて考えるとは考えにくいですから。)

もっと言えば、概念を生んでいる人間を知ることが社会を知ることになると著者の宮台真司は思ってるんじゃないかと私は感じました。

 

何か制度を語るのではなく、人間を語っている本書は実に面白しく所々、自分の胸の響くものがありました。

 

あとがき ーーーいま〈世界〉にたたずんでいるかもしれな君に

 

 僕の娘は2歳になる。名前は「はびる」。僕の大好きな沖縄・与那国地方の方言で「蝶々」という意味だ。お腹にできる前から決めていた。オムツをかえたり、お風呂に入ったり、いっしょに遊んだり・・・・できるだけいっしょに過ごすようにしている。

 娘が14歳になったら、親として、ひとりの大人として、自分はどんなことを語るのだろうーー。そう考えながら、この本を書いた。できるだけ読みやすくするように心がけた、でも内容は深いはずだ。社会学の最先端の知識が、この本にはふんだんに盛りこまれている。

 今の時代、本当に先が読めない。たとえば20年前だったら、ずっと10年後を予測しやすかった。でも今の時点で、10年後の社会を予測するのは難しい。日本も、世界の国々もどうなっていくかわからない。

 ぼくたちは不幸になるといいたいんじゃない。本当に予測がつかないということだ。だから、何が起こってもあたふたしないように免疫をつけておいた方がいい。「こうなるはずだ」という思いこみで生きていくのは危険だ。それが外れたら、不幸になってしまうかもしれない。

 今僕たちが生きている社会は、どんどの変わっていく、だからその変化に対応して、個人も社会も計画を変えていかなきゃいけない。そして、計画を変えたとしても、またすぐに状況が変わる。絶えず計画を変え続けることが、とても大切になってきた。

 社会が完全じゃないから、人間は生きていけるし、社会も回っていく。常に前に進んでいける。完全になってしまったら、社会も人間もそこで止まってしまう。ぼくたちは、永久に不完全な存在だからこそ、永久に完全さを求めて前に進むことができる存在なんだ。それを忘れないでおこう。

 不完全な〈社会〉の中で生きている不完全なぼくたちは、〈世界〉に直接つながることで安らかな気持ちになれる。そのことも若い君に伝えたかった。〈世界〉は広い。ぼくたちは〈社会〉の中で生きながら、〈世界〉の中で生きている感覚を持つことが、大切なんだと思う。

 

宮台真司『14歳からの社会学』p.228~229

 

おわり。

本日のつれづれ no.576 〜宮台真司『14歳からの社会学』-人が内発的に作り出す社会-〜

2017.10.30  【588日連続投稿】

 

 戦後の社会学の基礎を作ったパーソンズは、このホッブスの「性悪説」を否定した、つまり、人間は暴力をおそれるから秩序を営めるという考え方はよくないと考えた。人々が「内なる光」に従って生き、それが秩序形成につながるのが。よい社会だ、と考えたんだ。

 パーソンズは、ホッブスの「性悪説」とロックの「性善説」を比較した。ロックという人は、人間には生まれつき社会性が宿っているとした。みんなと調和しながら生きていこうとするから社会がちゃんとするんだとした。パーソンズはこっちの方がいいと考えた。

 「ただし」とパーソンズは考える。生まれつき「内なる光」が備わっている、などという「性善説」はバカげている。人間は育ち方次第でどうにでもなり得る存在だからだ。「ならば、人に『内なる光』をうめこめばいい」——。パーソンズはそれを「社会化」と呼んだ。

 人には生まれつき「内なる光」が宿るのではない。せいぜいあとからうめこまれる。うめこむのは誰か。親や先生だと考えれば、同時代の教育哲学者デューイの考えと同じになる。パーソンズはそうは考えなかった。「内なる光」をうめこむものーーそれは社会だと考えた。

 人は社会の中で育つ。社会の中には親や先生がいる。でもそれだけじゃない。都会的な環境も田舎的な環境もある。動植物とふれ合える環境もあれば、インターネットやビデオゲームにあふれた環境もある。親や先生をふくんだ「そんなこんな全体」が人を育てるんだ。

 

宮台真司『14歳からの社会学』p.185~186

 

子供は学校で全てを学ぶわけじゃない。

だからこそ、学校でできること・伝えられることがあると思います。

社会という中の一部である学校が担う役割をもう一度見つめることが必要なのかもしれないな。

学校が、先生がもっと頑張る必要なんてどこにもない。

 

おわり。

本日のつれづれ no.575 〜平井雷太 詞 「環境因果論を越えて(三)」〜

2017.10.29  【587日連続投稿】

 

環境因果論を越えて(三)

 

教育に救いがあるとしたら

どんな親から生まれても

どんな環境で育っても

子ども自身の力で

誰でもそれなりの大人に

育ってしまうという事実だ

 

平井雷太 『見えない学校教えない教育』 プロローグより

 

上手くいかないことがあるとすぐに、なんで「できなかったのか」と原因を探してしまうことがありませんか?

環境や背景が整ったからといって、全てがうまくいく保証なんてどこにもありません。

病気にかからないように、虫にたべられないようにと農薬をたくさん使われた野菜や果物がよい野菜や果物とは限らないと同じのように。

 

どんな環境でも育っていく力があり、そこに目を向けることを忘れてしまいがちだから、すぐに原因を探してしまうのかもしれません。上手くいかなくてもそこから学び成長する力があると思えば、原因を探すまでもなく、自分はどうしたいのかが分かっているはずですから。

 

おわり。