名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

読物つれづれ no.2 〜自分の仕事をつくる〜

2017.02.07   【323日連続投稿】

 

2017年2冊目の本は、『自分の仕事をつくる』 著:西村 佳哲(働き方研究家)

 

自分の仕事をつくる (ちくま文庫)

 

この本と出会ったのは、ちょうど一年前くらいだろうか。

 

大学卒業後の進路決めず、フラフラとしていた頃です。

 

その時期に、名古屋で行われたシゴトバーのプレイベントに参加しました。

 

その時の「生きるように働く仕事を独自の取材の元にwebで求人広告をしている『日本仕事百貨』」を知り、日本仕事百貨を立ち上げている中村健太さんの講演を聞いたことがきっかけです。

 

よろしければ、日本仕事百貨をご覧ください

     ↓↓↓↓↓

日本仕事百貨

  

中村さんは、大学で建築を学ばれた後に一般企業に就職。その後起業されるのですが、起業する前そして後にも「何かふと立ち止まる時には、『自分の仕事をつくる』と言う本を読み返していた」と話されたことがこの本との出会いです。

 

この本を読んでみようと思ったのは、当時の私が中村健太さんに惹かれ日本仕事百貨でやりたい仕事を見つけたことが影響しているのかもしれません。(やりたい仕事にはつけませんでしたが。)

 

後日、本を購入し読み始めましたが、50ページ程読んで読むのをやめてしまいました。

おそらく、当時求めていたことが書かれたいなかったからなのでしょう。

当時は、アウトローな感じやカッコいい仕事に就きたいと心中で思っていた部分もあり「自分で仕事をつくる」というタイトルから今の自分でも何か新しいことを始めるヒントになるようなことを求めていたのだと思います。

当時の僕には、未熟すぎて作者の言いたいことが分からず、ちっとも入ってきませんでした。

 

1年ほど本棚から出すことがなかったに再び読むきっかけになったのが、週に1回通っている寺子屋塾にこの本が机の上にポツンと置いてあったからだと思います。

なんだか少し懐かしさもあってパラパラと読み始めると、すっかり読み入ってしまっていました。以前は読むことが苦痛くらいの本で距離を置いていたのに、大切なことが詰まっている本だと今は思います。

 

大切なことがありすぎますが、最後のあとがきが最も私にとって心刺さる部分だったので引用させて頂きます。

 

 〜中略〜

 

 話が少し脇道にそれるが、自分は妻と小さなデザイン事務所をひらいていて、企業や自治体などから相談いただいて進める、いわば請け負い仕事と、誰から頼まれるわけでもなく自分たちで思い付いて、形にして販売までするメーカーポジションの仕事の両方を手がけている。その傍で大学でデザインを教えていて、授業で学生たちにプロジェクトを紹介すると、「好きなことやって食っていけるんですか?」という質問に出会うことが、ままある。

 もし、そこで「食っていける」と答え、その約束を取り付けてたら、彼らは好きなことをして生きてゆくのだろうか?というツッコミを脇に置いて、それより彼らに戻したくなるのは、「単に好きなことをやってるわけじゃない」ということ、「他の人と共有できる予感があるから形にできるんだ」という、自分の立ち位置である。

 ところで、出版からだいぶ年月の経ったある日、一通のメールが届いた。数年前まで美術大学で学び、その後グラフィックデザインの仕事を経て、現在はライターやイラストレーターとして働いているという人からのもの。つい最近、『自分の仕事をつくる』を読み、励まされると同時に、共感できない部分があったのでお伝えしたいというお便りだった。

  ーーーどんなにダメなテレビ番組でも、一生懸命作っている人がいます。それは「手の込んだ」というよりは、もっと消極的な「この範囲内でベストの」という類の仕事かもしれません。

 でも、その仕事をしたその人本人には責任があるとは思えない。そうしなければ成り立たない、どうしようもない状況があるからです。

 そういう背景には言及せずに、「広告の多い雑誌が駄目で、手の込んだコーヒーカップがいい」というのは、あまりに紋切り型な対比だと思います。まえがきを読んでわたしは悲しくなり、くやしく思いました。

 わたしは今、週刊誌で多く仕事をさせてもらっています。

 もちろん、大学で学んだような、いわゆる「いい仕事」ではありません。どうでもいい記事、ひょっとすると害になりそうな記事だって多く書きます。どうでもいいイラストを、物凄いタイトな進行で要求されます。ほんとうだったら、どんなにくだらない内容でも、たっぷり時間をかけたいというのが本音です。

 でも、そうできない現実があります。原因の一つは出版業界の不況だったりする。あるいは読者があまりにも安易な情報を求めていて、それを与えないと読まれないという現実があったりします。あるいは、編集長やクライアントや芸能事務所の「意向」や、先輩の不機嫌のせいだったりします。

 でもそういう不利な状況の中で、多くのライターや編集者は一生懸命ものづくりをしています。決して「この程度でいいや」という姿勢ではありません。せめて、ちょっとでも面白い記事を作ろうと頑張っています。風潮を変えようと、四苦八苦している人だっています。

 それを、有名デザイナーの仕事ぶりと対比され、批判されるのは悲しいことです。

 もしあの本に、「こんなもんでもいいでしょ」な広告ばかりを作っているデザイナーや、「こんなもんでいいでしょ」な雑誌ばっかりを作っている編集者や、風俗嬢や、掃除のおばさんのインタヴューがあったら、納得できたかもしれません。でも、そんな仕事についている人の話は一つもありませんでした。

 どうか、駄目な仕事を批判しないでください。ーーー

部分抜粋だが、ご本人の承諾をいただき、ほぼ原文のまま転載した。

 僕はこのお便りを読み、とても感じることがあったので、次のような返信を送らせていただいた。この人からのメールを全文掲載していないので、脈絡がわかりにくい部分もあるかもしれない。ご容赦ください。

ーーー西村佳哲です。お便りありがとうございます。

 いただいたメール、嬉しく拝読しました。感想のメールは時々受けとりますが、このような対決型の申し立てが届くことはまれです。

 最後の部分に「コーヒー豆を延々と栽培しなければならない仕事と、それに携わっている人を、誰が責められるか」と書いていますね。

 まったくその通りだと思います。

 あなたはそこに、仕事上のご自身の有り様を重ている。訴えたいのは、どんな仕事であっても、それに心血を注ぐことには尊さがあるということでしょうか。僕はそう受けとりました。そして、同感です。

 あの本を読んで「きれいな話ばっかり!」と反発を感じる人。それを表明してくる人は、何人かいました。僕には見えていない方々を含めれば、そんな感覚を持った人は多々いるだろうと想像します。

 そもそも、自分の憧れの人たちの働き方を知りたくて始めた取材群でしたし、感じ・考えたことをより強く伝えたいという気持ちがから、世の中で働いている人々が否応なく抱えている現実の、「それを言われると困ってしまう」ような弱い部分に、少し踏み込んだ書き口をとっている側面もある。読み返してみると、そういうところは嫌らしいなと思います。

 あの本で僕がなんとしても言葉にしたかったのは、広告貢の多い雑誌や水増しされたテレビ番組は良くないということではなく、「こんなもんでいい」というような、他人を軽く疎んじる働き方は、人間を互いに傷つけるということでした。

 他人を疎んじることは、自分をも疎んじない限り出来ないことですから、そのような働き方を通じて、結局は自己疎外の連鎖が深まってゆきます。その人がそこに「いる」感じのしない働き手や仕事が、世の中で増えてゆく。それは僕には耐え難いことです。

 たとえばあなたが、仕事の現場でどんなものをつくろうと、そこに本人による本人の疎外がない限り、僕はそれを人間の仕事として受容します。

 しかし、自己疎外の度合いが強いと、それは仕事というよりただの労働になってしまう。ただの労働の中でも、心血を注いでいる人はいると思いますが、僕はここで書いてある「労働」には、自分の気持ちや感情を度外視して働くことを指すニュアンスがあります。それはちょっとどうかな、と思うわけです。

 仕事という言葉は、「稼ぎ」や「つとめ」という言葉で語られることもあります。後者は、自分が属している世界に責任を果たすということです。

 つとめとして働く只中では、一時的に自分の気持ちをおさえたり・ひかえたり・膨らんでくる感情を殺さないと機能できないような瞬間が、当然のように混じるでしょう。このような胆力の有無は、人の成熟を示すものでもあると思う。

 しかしやはり、自分をいかして生きてゆくことこそ、一人ひとりの人間の仕事だろうと僕は思うので、できれば殺さないで欲しいという気持ちがあります。

 どんな仕事でも、本人の現場で一所懸命に働いている人には、かけがいのない尊さがある。イラクに派兵されたアメリカ兵の中にも、ベストを尽くしている人は多々いるでしょう。人間性が必要とされないような極限的な現場で、でも人間的であろうとする人たちは戦場に限らず、無数にいると思う。

 一所懸命にやっている人、生きている人を責める気はない。しかし、人間を粗末に扱ってる人間がいることは頭に来る。

 ベストを尽くして記事を書いている人を責める気はない。が、広告媒体として雑誌を発刊し、安い人件費で働いてくれる編集者や、都合のいいネタを提供してくれる人をある意味搾取している人間がいることは、頭に来るわけです。僕の憤りは後者の方に向けられています。

 と同時に、これは本当に余計なお世話なんですが、前者に対しても「それでいいの?」という想いは出てくる。

 与えられた仕事に疑問はあるが、でもやらざるを得ない状況に立たされている・・・という人たちは、不利な取引をしています。

 たとえばイラク派兵でいうと、アメリカでは軍隊が、大学で学びたい優秀な若者を対象とする奨学制度を設けています。学費は全額支給+奨学金数百ドルで、引き換えに軍事への参加が義務付けられているらしい。軍人教育を目的とした制度なので、そもそも看板に偽りはないのですが、非常事態時には在学中でも召集される。

 「でもやらざるを得ない」という状況に立たされる人は、なんらかの人質をとられています。あるいは暗黙の契約を交わしている。

 最近の日本でいえば、ワーキングプアーや、派遣労働をめぐる問題が取りざたされていますよね。

 しかし、たとえば都会に固執しないで地方へいけば、人間的な仕事はまだいくらでもあるというのが僕の実感です。かっこいい仕事ではなく賃料も低いかもしれないけど、ハローワークに募集掲示がないわけじゃないし、労働搾取的な案件ばかりでもない。お金がないと何も手に入れることができないという思い込みについても、それを手放すことで、あるゲームから降りることができる。

 

 あの本では「いい仕事」をしているデザインやものづくりの先達の、余裕ある働きっぷりが目立っているかもしれません。でもどんな人にも、その人となりの切実な現実はある。そしてその現実を選択しているのは、いつもその人自身だと思うんです。

 たとえばトップデザイナーと呼ばれているような人たちは、すごい華やかに見えるだろうし、力を持っているように見えるかもしれません。実際、素晴らしい力能と運と条件を持ってる側面も、ないとは言えないんじゃないか。

 いずれにしれも、自分をどこで・どういかして生きていくかということは、その人自身の手元にあると思うのです。ーーー

後半部分に多少手を加えたが、これもほぼ原文通りである。

 

著者の価値観とその通りにはいかないという価値観が混ざりながらも、自分の人生は常に自分が主役であることを忘れないで自分がより生き生きと生きられる場所にいることができるという想いが込められていました。

 

どれだけ周りから「いい仕事だ」と言われなくても、本人が自らの仕事を自分事としているのであればそれは立派な「いい仕事」と言えるかもしれないと思いました。

 

続編の『自分をいかして生きる』を読むのが楽しみです。

自分をいかして生きる (ちくま文庫)

 

おわり。

インタビューゲーム日記 no.32 〜「ふっふっふぃ〜」〜

2017.02.06  【322日連続投稿】

 

インタビューゲーム32人目のお相手は、長谷川由佳さん。

 

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《インタビューゲームとは??》

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インタビューゲームについて - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

由佳さんとは、年始のサムハプでの書初め新年会で初めてお会いし、今回でお会いするのが2回目でした。由佳さんはインタビューゲームを2回経験したことがありました。そんな中で早速インタビューをスタートしました。

 

【聞く側はどんなスタンスでいた方がいいのか?】

 インタビューゲームの説明が終わった時に、「聞く側はどんなスタンスで聞くのがいいんでしょうか?」と質問がありました。過去2回のお相手は、自分から多くの質問をしなくてもたくさんの聞き入ってしまうお話をして下さる方であったようで、本来の聞く側はどのようなスタンス(姿勢・在り方)でいるのがいいのか。傾聴か?聞く側が誘導するのか?のようなお話を受けました。その時は、スッと答えられる言葉が出てこず、思い返してもその時に何を話したのか覚えていないので、上手く答えられなかったのだろうと思います。

 

 インタビューゲームが終わって振り返りの時に、再び聞く側のことが話題となった時は、自分が納得して言えることを話していました。多少修正を加えているが、言いたかったことはこういうことなのだと思います。「基本的に聞き手が主役であることが、インタビューゲームの本質だと思っています。心地よいインタビューゲームができている時は、聞きたいこと聞けて話したいことを話せている状態だと思います。だから、聞きたいことを聞けず、もし相手が話したいことだけを話す状況になっているのであれば、聞き手が主役であることを思い出してインタビューすることが大切かもしれません。」

 とは言っても、こうした方がいいものはなく少なくとも私にとってのこうした方がいいにすぎないと思っています。

 

私がインタビューゲームをどう捉えているのか?インタビューゲームを通じて何を伝えたいのか?改めて考えさせられる質問を投げかけて頂けました。感謝しています。

 

【ふっふっふぃ〜】

 

インタビューゲームをしていると同じような問い・質問に巡り会うことがあります。「インタビューゲームはなぜ始めたのですか?」「なんで今の仕事をしているのですか?」この2つは結構聞かれます。その度その度、事実は変わらないが話している感じや話し方は毎回違うと思っています。そして、今回「ふっふっふぃ〜な感じで始めたんですよ」と答えている自分がいました。相手がキョトンとすると同時に私自身も「何を言っているんだ俺は?」と思っていました。当然のように、「それはなんなのですか?」と質問が入りました。

 「ふっふっふぃ〜」には何が込められているのかを掘り下げていくと、「軽々とゆるく気負わず気付いたらこうなっていた」というような感じがあるなと思いました。上手く言葉で伝えるよりも擬音で感覚的に捉えたらそうなると思ったから「ふっふっふぃ〜」と言ってしまったかもしれません。

 自分からしても恥ずかしくなるほど意味不明な言葉を発していました。でも、まぁそのおかげで「それはなんだろう?」とお互いが「ふっふっふぃ〜」に関心を寄せることで、生まれた関係性ってのがあるんじゃないかと思いました。

 

【今日で◯人目とか関係ないようにしたい】

振り返りも終わり、お店を出て歩いていると「この質問以前にもされてそうだから、しちゃいけないかもな」と思ってしまった、とおっしゃっていました。相手側の問題かもしれないが、できるだけ「何を聞いてもいいですよ」と伝えたり、せっかく湧いてきた質問を制限してしまうことがないようにしていきたいなぁと思いました。

 

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*2月のインタビューゲーム会@サムハプは、25日(土)14時〜18時になりました。

興味ある方は、是非ともどうぞ!

 

おわり。

本日のつれづれ no.329 〜おめでたい席にて〜

2017.02.05  【321日連続投稿】

 

昨日は、中学高校の友人の結婚式(ニ次会)に出席してきました。

 

私は友人の結婚式に出るのは初めてでした。

友人が私よりもずっと大きなオトナに見えました。

 

誰かと共に人生を歩むと決めたことを公にすることが結婚式をやる意味だと、何かの本に書いてあり、心に残っている言葉です。

 

結婚は、男を成長させるって本当なんだなぁと思いました。

 

今まで、お世話になった両親や友人などに感謝し祝福われ、しみじみと懐かしさがあると共に周りの変化に気付いたり、とても影響力がある場所なんだと感じました。結婚・結婚式は人生を変える力があるかもしれないと思いました。

 

新郎の友人が最後の一言が私の心になんだか響いてきました。

「これからも迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」

ありがちな言葉かもしれないが、友人が放つこの言葉にはずっしりとした重みがあったと感じました。

 

結婚おめでとう。

末永くお幸せに。

最後に、この詩を贈ります。

 


『 祝 婚 歌 』しゅくこんか
吉野 弘


二人が睦まじくいるためには

愚かでいるほうがいい

立派過ぎないほうがいい

立派過ぎることは

長持ちしないことだと

気づいているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい


完璧なんて不自然なことだと

うそぶいているほうがいい

二人のうち どちらかが

ふざけているほうがいい

ずっこけているほうがいい

互いに非難することがあっても

非難できる資格が自分にあったかどうか

あとで疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは

少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと

気づいているほうがいい

立派でありたいとか

正しくありたいとかいう

無理な緊張には色目を使わず

ゆったりゆたかに

光を浴びているほうがいい

健康で風に吹かれながら

生きていることのなつかしさに

ふと胸が熱くなる

そんな日があってもいい

そしてなぜ 胸が熱くなるのか

黙っていてもふたりには

わかるのであってほしい

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.328 〜気付かないところで関係性は築かれているかもね〜

2017.02.04  【320日連続投稿】

 

生徒との関係性についての話。

 

いくら教師が生徒を信頼しても、生徒が教師を信頼してくれるとは限らない。

 

生徒から信頼を得ることを求めすぎると辛くなるのは教師自身だと私は思います。

 

常に教師から歩み寄ることは、生徒を常に受け身側に立たせるということになってしまうから、とても曖昧な表現であるが、「絶妙な距離感」でいることが大切だと思っています。

 

私が思う「絶妙な距離感」は、生徒の選択肢の中に「教師に頼る・聞く」が入っていて、気軽に選択できる状態だと思いました。

 

だから、私は常に生徒の側にいることはしなくていいと思っています。

その生徒が、教師に頼ったり聞く必要があると思うならすぐに行動できる範囲に入れば問題ないような感覚です。

 

この感覚を私に気付かせてくれた生徒がいます。

 

以前こちらの記事で登場した生徒です。

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本日のつれづれ no.257 〜ズラが取れなくて良かったね〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

実は、この記事以降の2学期の期間は、もっと激しく私と日々戦っていました。

 

しかし、3学期は2学期ほど戦っていません。

抵抗されることはありますが、以前のように爪で引っかかれたり、髪を引っ張られたりなどはありません。体育で柔道をしていて私をやたら倒そうとはしてきますが。

 

その子との関係が変わったなぁと思い始めたのは、私に「トイレに行きたい」と伝えてくることが多くなってきたことがきっかけです。

 

その生徒は給食後に私が他の生徒の摂食指導をしていている私のところに来て「トイレに行きたい」と伝えてきます。

 

周りの先生が機転を利かせてくださり、摂食を代わってくれ、頼んできた生徒をトイレに連れて行きます。

 

私が見ている限り、自分から誰かに頼りに行くことがトイレ以外のことでもほとんどなかったその生徒が自分から伝えにくるようになってきていることに気付いて、一歩前進してるなぁと感じました。

 

まだまだ、特定の人でなく他の人にも頼れることやトイレ以外のことでも頼むなど課題はあると私は思っています。しかし、2学期はバチバチとしていたのに、今は手と手を繋いでるような関係になりつつあるのかなぁと思います。

 

信頼関係を築こうと意識しすぎる必要はなく、むしろ自分が気付かないところで生徒からよく見られているのかもしれないなぁと思いました。

 

今年度も残り一ヶ月半です。

来年度も今の学校にいられるのか分からないので、残りの日々がとても貴重な時間なんだと気付きました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.327 〜力を抜いて自分と向き合う〜

2017.02.03  【319日連続投稿】

 

自分と向き合うってのは、何だか辛い苦しいように感じる時があるかもしれない。

 

苦しいのは自分と向き合う過程の中に他者が介入しているからなんだと思いました。

 

自分がどうあろうと、他者がいるから自分がいる。

 

自分と向き合うことは、他者と向き合うことでもあるような気がする。

 

自分の思考の中に他者が介在しないことってほとんどないと思います。

 

だから、他人は鏡というのかもしれない。

 

自分の思考に他人も入っているから、自分を見る目と他人を見る目が同じだから他者から自分を見ることができると言えるかもしれないな。

 

力んでいると他人に対して、攻撃的であるかもしれない。

 

力を抜いて緩んでいると、他人に対して優しくいられるかもしれない。

 

肩の力を抜いてフワッとした気持ちで自分の思考に入り込み、主観を外してみてみると何だか、自分と向き合うってことが辛い苦しいことではないような気がするな。

 

おわり。

本日のつれづれ no.326 〜分からないことをやる時の自分へ〜

2017.02.02  【318日連続投稿】

 

分からないことをやることは、なんだかやりたくない気持ちになる。

 

それはめんどくさかったり、失敗するのが嫌だったり、これをすると自分にとって嫌だなぁと思うことを避けられないと思ったりするからやりたくない気持ちになるんだろうなぁと思います。

 

でもやりたくないことは、やってみないと分からないことなんだろうと思います。やらないと嫌なことが待ってるとか分からないですし、めんどくさいのかも分からないと思います。やる前から、やりたくないと思うことは大抵過去の情報から勝手に判断しているような気がします。

 

一回やったけど、めんどくさい。

やったことないけど、めんどくさい。

 

言葉は違うけど、言ってる意味はほとんど近いものなのかもしれないです。

 

1回目はそりゃ初めてのことだから、時間がかかってめんどくさいでしょう。でも、2回目をした経験がないってことは、初めてと一緒。2回目を経験するのは初めて。と言えるのかもしれません。

 

少し脱線した気がしますが、

 

分からなくてもやることは、

「何やってんだろう?俺。」

と思う時があります。

 

そんな立ち止まったりしている時間やできないを経験した時は、本当に今の自分に足りないものや課題を見させてくれることに繋がると思います。

 

僕が止まっている時は大抵一人で狭い思考の中でグルグルしているのです。

 

そんな時は、人に聞く。

何を聞いていいのか変わってなくても聞く。

世間一般の社会人としては、相応しい姿勢ではないかもしれないです。

聞くことがハッキリして聞くことが常識かもしれません。

それでも、相手に何か聞かなきゃいけない状況ができたら何かしら言葉を出そうとするから、そんなときに自分がわかるって事があるんだろうと思います。

「こいつ、何も分かってねぇな。話すの何回目だ?」と相手に思われると勝手に自分が思ってても、聞けばいい。

 

そんな時は、分からないながらも聞いた自分に◎を、お相手して下さった人に感謝を送りたい気分になる。

 

自分一人じゃ進まない。

他人がいてくれるから進められる。

これはいつも心に留めておきたいな。

 

おわり。

本日のつれづれ no.325 〜本当にやりたくないってどういうこと?〜

2017.02.01   【317日連続投稿】

 

「できるかできないか」「やりたいかやりたくないか」を考えず目の前のことをやっている中で、どうしてもできないことは多分本当に心の底からやりたくないことなのかもしれない。

 

できない理由を探す前にやってみて、違うなと思うのなら、それは違うかもしれない。

続けていくとやりたいことに変わっていくかもしれないという期待を持ってしても違うと思うのであれば、違うかもしれない。

 

やり続ける中で、やりたくない想いが蓄積されたものは本当にやりたくないことなんだろうなと思います。

 

「疲れた時はゆっくりしましょう」とよく言うが、疲れていても「ついやってしまうこと」はやりたくないことではないんだろうな。

 

今日は、書きたくないなぁと思っていると浮かんできたことを綴りました。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.324 〜他人や周囲とのズレは単なる「ズレ」でしかない〜

2017.01.31  【316日連続投稿】

 

昨日急遽スクールバスに添乗することになりまして、今朝は早起きして高浜市へ向かっています。

 

仕事を始める前は、淡々と仕事をする変わらない日々が待っているような印象を抱いていましたが、今の所は毎日何かしらの変化があって、抱いていた印象とは異なる日々を過ごしているなぁと思います。

 

スクールバスへの添乗の話は、昨日私が帰ろうとしていた時に言われました。見ていた周りの先生からは、

「断ってもいいんだよ」

「変わろうか」

など言われる方もいれば、

 

「なんであなたを心配して、体調崩してるのに頑張ってる自分に一言もないの」

と言われる人もおられました。

 

私としては、「明日だけだし、バスの中で生徒とゆっくり話せるのもいいな」と思ってました。なんだか普段と違う感じで、自分の中では修学旅行前日の様な気分でした。

 

私が抜けることで、登校時に生徒のお迎えなどで学年の先生方の動きが変わり、多少なりとも周りに影響はあると思いますが、そんなにあれこれ言うことでもないよなぁと感じてました。

 

誰かに何かの話が舞い込んでくれば、話を受けた本人以上に、周りが反応する環境なのかなぁと思ってしまいました。

 

最近、自分と他人や周囲とのズレを感じることや意識することがよくあるなぁと思います。しかし、そのズレはネガティヴなものでなく、ただ「ズレ」以外の何物でもないのだとつくづく思います。

ズレと何かを結びつけてしまいがちですが、それは先入観や偏見などによって自分が勝手に結びつけることに過ぎないのだなぁと思います。

 

むしろ、そのズレが「面白いなぁ」「素敵だなぁ」に変わっていくことは自分の先入観や偏見を外して相手や周囲を見ようと心掛けていることに繋がる気がしました。

 

電車に揺られていると、久しぶりに日の出を見ることができ、穏やかな気持ちです。

 

学校に着いたら、クラスのバス好きな生徒に「今日はバスに乗ってきたよ〜」と、自慢してみようと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.323 〜弥太郎会に参加しました〜

2017.01.30  【315日連続投稿】

 

昨日は、友人の大岩憲治(けんじぇる)が企画する「弥太郎会」に参加しました。

 

太郎会とは、

松浦弥太郎さんについてのシェア会です。

以下、松浦弥太郎さんについて。

文筆家。古本屋経営。

以前までは暮しの手帖の編集長を務め、

現在はクックパッドのサイト『くらしのきほん』

を運営し、編集長を務めている。

一方でビジュアルブック、詩集を中心としたCOWBOOKSという古本屋も経営している。

(第7回 弥太郎会facebookイベントページより)

 

私は、まだ弥太郎さんの本を読んだことがないのですが、けんじぇるから滲み出ている弥太郎さんに惹かれ参加したのだと思います。

 

日々のきほんを

何気ないことを

今日という一日を

目の前にいる人を

大切にする。

 

そんな想いを持っている人が、弥太郎さんの言葉に触れることで、癒されたり勇気づけられたりされてるような気がしました。

 

弥太郎さんの話から各々の日常の話をしたり、誰かとの出会いを振り返ったりした光景がありました。いつもは考えないことや考えていても口から言葉にはしないようなことを話すことで、日々の日常を思うことの心地よさを感じました。

 

次回参加するときは、一冊は読んで参加したいなぁと思います。

 

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気になっている弥太郎著書

・本業失格

・最低で最高の本屋

・「自分らしさ」なんていらない

 

「一日を大切に」と思いながら、学校に向かいます。

 

おわり。

本日のつれづれ no.322 〜目の前のことが見えない時〜

2017.01.29  【314日連続投稿】

 

別のことに意識がいっていると目の前のことが見えていない自分がいます。

 

昨日のブログで、誤記をしてしまいました。

 

今は訂正済みですが、

誤) 友人の塩坂太郎さんが映画の予告編「ベリーオーディナリーピープル」の鑑賞会に参加しました。
→友人の塩坂太郎さんが企画された映画「ベリーオーディナリーピープル」予告編の鑑賞会に参加しました。

 

誤)北海道の浦賀
→北海道浦河町

このように誤って書いていました。

 

今朝、井上さんに誤記と勘違いがあると教えて頂きました。

 

昨日は、鑑賞会の後に懇親会があり、バスと徒歩での移動中に書いており、手短に済まそうとして書いた後の読み返しませんでした。

 

懇親会では今年に入って読み返して投稿していると話してたのに、「その日のブログは読み返していないんかい!」と昨日の自分にツッコミを入れたいところです。

 

恥ずかしい気持ちですが、この気持ちが大切なんだと思います。

 

他人に読んでもらうのは、自分で気づいていない範囲を気付く機会になり、自分と向き合う機会にもなり得るのだと思いました。

 

今日はちゃんと読み返して、投稿しよう。

 

おわり。