名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.515 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第10章-子どもの楽園-④〜

2017.08.28  【525日連続投稿】

 

 日本の子どもが泣かないのは、モースの言を借りれば、「刑罰もなく、咎められることもなく、叱られることもなく、うるさくぐずぐず言われることもない」からであったろう。だがそれは一面では、子どもの方が親に対して従順で、叱られるようなことをせず、従ってなく必要もなかったということなのだ。モースは「世界中で、両親を敬愛し老年者を尊敬すること、日本の子供に如くものはない」と言っている。またブスケも、日本の子どもはたしかにあまやかされているいるが、フランスの庶民の子どもよりよくしつけられていると感じた。マクレイは一方では日本の「親は子供をひどく可愛がり甘やかす」といいながら、「同時に子供に対してけっして手綱を放さない」と見ている。

 フレイザー夫人は日本の子どもは、「怒鳴られたり、罰を受けたり、くどくど小言を聞かされたりせずとも、好ましい態度を身につけてゆく」と言っている。「彼らにそそがれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包み込み、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良いよころを伸ばすように思われます。日本の子供はけっしておびえながら嘘を言ったり、誤ちを隠したりはしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです」。彼女は「小さな家庭では、子供がすべてを牛耳ってい」ると認めながらこう述べる」「それでもけっして、彼らが甘やかされてだめになることはありません。分別がつくとみなされる歳になるとーいずこも六歳から十歳のあいだですがー彼はみずから進んで主君としての位を退き、ただ一日のうちに大人になってしまうのです」。

 

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p395~396

本日のつれづれ no.514 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第10章-子どもの楽園-③〜

2017.08.27  【524日連続投稿】

 

 日本の子どもは泣かないというのは、訪日欧米人のいわば定説だった。モースも「赤ん坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、私が今までのところ、母親が赤ん坊に対して癇癪を起こしているのを一度も見ていない」と書いている。イザベラ・バードも全く同じ同意見だ。子どもが厄介をかけたり、いうことをきかなかったりするのを見たことがない。英国の母親がおどしたりすかしたりして、子どもをいやいや服従させる技術やおどしかたは知られていないようだ」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.394

 

おわり。

本日のつれづれ no.513 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第10章-子どもの楽園-②〜

2017.08.26  【523日連続投稿】

 

 カッテンディーケは長崎での安政年間の見聞から、日本人の幼児教育はルソーが『エミール』で主張するところとよく似ていると感じた。「一般に親たちはその用事を非常に愛撫し、その愛情は身分の高下を問わず、どの家庭生活にもみなぎっている」。親は子どもの面倒をよく見るが、自由に遊ばせ、ほとんど素裸で路上をかけ回らせる。子どもがどんなにヤンチャでも、叱ったり懲らしたりそている有様を見たことがない。その程度はほとんど「溺愛」に達していて、「彼らほど愉快で楽しそうな子供たちは他所では見られない」。

 日本人が子供を叱ったり罰したりしないというのは実は、少なくとも十六世紀以来のことであったらしい。十六世紀末から十七世紀初頭にかけて、主として長崎に住んでいたイスパニア商人アビラ・ヒロンはこう述べている。「子供は非常に美しく可愛く、六、七歳で道理をわきまえるほどすぐれた理解をもっている。しかしその良い子供でも、それを父や母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子供を罰したり、教育したりしないからである」。日本人は刀で人の首をはねるのはなんとも思わないのに、「子供たちを罰することは残酷だと言う」。かのフロイスも言う。「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責するだけである」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.392~393

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.512 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第10章-子どもの楽園-①〜

2017.08.25  【522日連続投稿】

 

 日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。彼は初めて長崎に上陸したとき、「いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことで騒いでいるのに出くわ」してそう感じたのだが、この表現はこののち欧米人来訪者の愛用するところとなった。

 事実、日本の市街は子どもであふれていた。スエンソンによれば、日本の子どもは「少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわっている」のだった。1873年から85年までいわゆるお傭い外国人として在日したネットーは、ワーグナーとの著書『日本のユーモア』の中で、次のようにそのありさまを描写している。「子供たちの主たる運動場は街上(まちなか)である。・・・・子供は交通のことなどすこしも構わずに、その遊びに没頭する。かれわは歩行者や、車を引いたり人力夫や、重い荷物を担いだ運搬夫が、独楽を踏んだり、羽根つき遊びで羽根の飛ぶのを邪魔したり、紙鳶の糸をみだしたりしないために、すこしの迂り路はいとわないことを知っているのである。馬が疾駆して来ても子供たちは、騎馬者や馭者を絶望させうるような落ち着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.388

 

おわり。

本日のつれづれ no.511 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第9章-女の位相-⑤〜

2017.08.24  【521日連続投稿】

 

 英国公使夫人メアリ・フレイザーは、公使館で「隔週に英文学の読書会を、それのない週にはこの翻訳の朗読会」を開いていた。それは彼女が興味と共感を抱く日本婦人の人生に少しでも近づきたいからであり、あまりにも知的な楽しみから隔てられている日本婦人に、来日以来の親切のお返しをするとともに、別の多くの点で彼女たちから教えてもらいたいからだった。彼女は何を日本の女から学びたかったのだろうか。会が進むとともに感動した聴衆からさまざまな反応があったが、その一人がメアリにこう言った。「人の心というものは欧州でも日本でもおなじなのですね。英国のご婦人はまことに勇敢で義務に忠実のようですが、それこそ私たちの理想なのです」。メアリは「ため息まじりに」答えた。「その点に関しては、あなた方こそ私たちにもっと教えて下されるはずです」。そのとき彼女は「もし我々西洋の女性が東洋の姉妹たちから、勇気ある謙遜、義務への忠実、比類なき無私を学ぶなら、どんなにか世のなかを変えることができるだろう」と考えていたのだった。

 むろん「ひとつの美点があまりに大きすぎると、自然の厳格な天秤はつりあいを保つために、きっと欠点をあたえる」。メアリは日本の夫たちが妻たちに与える不当な冷遇を思った。そして「この国では、西洋と違って結婚は人生における至高の関係ではなく・・・・私たちが言うような愛とは何の関係も」ないという事実について、考えをめぐらせぬわけにはいかなかった。「日本女性にとって結婚とは子供時代の屈託ない幸せな日々から、理性により責務を段階への移行です。全身全霊、頭も心もこの一事ーー新しい家の主人とその一族をことごとく満足させることーーに捧げなければならないのです。私たちから見れば、これはとても辛く冷酷なことです。西欧の最良の女性は、自分の価値をはっきり意識するよう教育されていますから、もしこのような絆に縛られれば、自分の人格がばらばらのなったと感じてしまうでしょう」。しかし、「英国の歴史のどこを探しても日本の妻たちがしばしば主人の足もとに捧げたような崇高で強い愛の例は見あた」らない。「愛はほんとうは、私たちには束縛としか見えないもののかなに生まれるのかもしれ」ない。メアリはそう考えて、今聞いた日本の女の目を見張るほ潔い話について、「彼女はどんなにか夫を愛していたことでしょう」と叫んでしまった。ところが「小柄な我が日本の友は、黒い瞳にあどけない微笑といういくぶんの驚きを見せ」ながらいうのだった。「違います。それは彼女の義務だったのです。彼は彼女の夫でしたから」。

杉本鉞子はミッション・スクール在学時に、「西洋の書物に描かれた恋愛をおもしろくまたたのしく」読んだが、それでも「それは精神の強さや高貴さという点では、親の子に対する恩愛の情とか、主従間の忠節とかには、較ぶべくもないように」感じた。彼女はのちになって「この未知の問題に対してゆがめられた考え」を持っていたと反省しているのだが、フレイザーが直面したのはまさに「感情よりも義理を重んずる」武士家庭のしつけだったのである。

 「どうやら『惚れた腫れた』という万人共通の楽しみは、結婚生活の義務を優しく心をこめて遂行することとまったく無縁であるように思われます。そしてひとりに人間がもうひとりの人間を全人格を傾けて崇拝する栄誉を授かるのに、なにも結婚前に準備として恋の病にかかる必要などないのかもしれません」と、フレイザーはやや冑を脱ぎ気味である。つまり彼女は日本人の友が、なぜそれは愛ではないと否定したのか、その理由がわかっていたのだ。”日本人の友”は愛を恋愛と受けとり、主人公が夫のために自己犠牲を払ったのは恋愛感情からではないと言いたかったのである。もはや惚れた腫れたなどという恋の病とは無縁の義務、それこそより深い意味の愛で無くして何だろうか。愛は恋とは無縁に、義務という束縛の形をとって育つ。これはフレイザーにとって発見だった。しかしなおかつ彼女には、トゥルバドゥール以来の西欧の伝統であるロマン主義的な恋、トリスタンとイズー風な運命的恋愛への夢を棄て去ることは不可能であったに違いない。彼女も言及しているように、日本の古き文明はそれを実生活とは関わりない舞台上の心中に閉じこめたのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.378~380

 

おわり。

本日のつれづれ no.510 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第9章-女の位相-④〜

2017.08.23  【520日連続投稿】

 

 徳川期の女性はたてまえとしては三従の教えや「女大学」などで縛られ、男に隷従する一面があったかもしれないが、現実は意外に自由で、男性に対しても平等かつ自主的であったようだ。多くの外国人観察者が東洋諸国にくらべれば留保しながら、日本の女性に一種の自由な雰囲気があるのを認めねばならなかったのは、女性の男性への服従という道徳的なたてまえだけでは律しきれぬ現実が存在することに、彼らが否応なく気づかねばならなかったからではないか。徳川期の女の一生武家庶民の別を問わず、そう窮屈なものではなく、人と生まれて過すに値する一生であったようだ。悲惨な局面があったように見えるとすれば、それは現代人の目からそう見えるだけで、それも一種の知的傲慢であるのかもしれない。徳川期の女ののびやかで溌剌としたあたりかたは、明治に入ってかなり程度後退したかに見える。しかしまだその中期ごろまでは、前近代的性格の女の自由は前代の遺薫をかおらせていたのである。

 外国人観察者は少数の例外を除いて、こぞって古き日本女性を賛美した。彼らのある者は、日本の男は醜いが、女は別人のように美しく優れているとさえ書いた。その年表はモラエスであり、アーノルドである。明治三十年代に日本に滞在した道楽者のゴードン・スミスも、「この国ではひとりとして恰好いいいい男を見かけない。ところが女のほうはまるで反対だから驚いてしまう」と日本到着後六日目の日記に書きつけている。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.375~376

 

おわり。

本日のつれづれ no.509 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第9章-女の位相-③〜

2017.08.22  【519日連続投稿】

 

たとえば離婚の問題をとっても、彼女か紹介している一例はむしろ当時の女性の自由度を示すものとして読むことができる。彼女が交際している上流家庭のお菊さんという女中がいた、彼女は結婚のためにその家からひまを取ったのだが、ひと月余りでその家へ舞い戻って来た。主人が「夫が不親切な男だったのか」と問うと、彼女は「いいえ、夫は親切で気のよい人だったのです。でも姑が我慢できない人でした。私を休むひまもないくらい働かせたのです」と答えた。姑がそいうきつい女であるのを、彼女は結婚前から知っていた。だが、夫となる男が、母親を兄のところへやって、自分たちは別箇の世帯をもつと約束したもで、彼女は結婚を承知したのである。ところが、母親が移って行った先の兄息子の嫁は怠け者である上に性質が悪かった。それにくらべてお菊さんは大変よい嫁だとわかったので、婆さんは兄息子の家を出て、お菊さんの新世帯に転がり込んだのである。転がりこまれたお菊さんの生活はたえがたいものになった。そこで彼女は離縁を求め承認されたというのだ。この話のどこに家制度の束縛があり、男の圧制があるのだろう。あるのは女どうしの闘争ではないか。男は女にはさまれてうろうろしているだけだ。姑と嫁の戦いにしても、強い方が勝つのであることは、婆さんが兄息子の嫁から追い出されたのを見てもあきらかだ。しかも、お菊さんは姑から追い出されたのではない、自分の方が我慢できなかったので離婚の請求したのである。そしてベーコンの認めているように、離婚歴は当時の女にとってなんら再婚の障害にはならなかった。その家がいやならいつでもおん出る。それが当時の女性の権利だったのである。

 むろんこれは、ベーコンの描く理念型をはるかに逸脱する庶民世界の話だ。しかし、絵に描いたような上流家庭の場合でさえ、嫁の夫やその両親への従属は「多くの場合、幸福な従属」であるとベーコンは認めている。「妻の座は、とくに子どもたちの母である場合には、往々にして楽しい」。というのは、夫や姑に気に入られるかどうかは、彼女の自己抑制能力にかかっており、その意味で、一家の雰囲気が楽しいものになるかどうかは彼女次第だからである。つまり彼女は従属者でありながら、その自己犠牲は一家のしあわせの源になって彼女に照り返すのである。ベーコンは、日本女性の愛するもののための自己犠牲を、とくに武士階級出身の女のそれを、ニューイングランドの古風なピューリタン的良心に似たものとさえみなしている。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.362~363

本日のつれづれ no.508 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第9章-女の位相-②〜

2017.08.21  【518日連続投稿】

 

 数ある観察者のうち日本における女性の地位に関してもっとも包括的な考察を行なったのはアリス・ベーコンである。彼女によれば、日本の女は幸せな少女時代を送る。ただしそれは両親や兄たちのペットとしてである。しかも彼女らは子どものうちから、悲しみや怒りをかくして常にきもちよい態度をとることで、周りの人びとを楽しくさせるという自己抑制のマナーを徹底して仕込まれる、だが彼女のしあわせは結婚とともに終わる。日本ではすべての女性は結婚すべきものなのである。彼女らの結婚生活が不幸なのは、夫と対等ではなく彼の筆頭召使に過ぎないからであるばかりか、夫の属する家へ入らねばなあらぬからである。彼女は生まれ育った家から新しい家へ移籍する、その新しい夫の両親がいる。とくに結婚生活の初期を不幸にする姑がいる。姑は彼女に家庭生活のあらゆる苦労をゆずりながら、家政の実験は手放さない。両親とくに姑のテストに合格しないなら、夫からどんなに愛されていても離婚の運命が待っている、離婚は日本では異常な確率を示しているが、それは結婚が両性の精神的結合ではなく、家の支配者である両親と夫への従属的奉仕の採用とみなされているからだ。離婚された女は悲惨である。子どもは夫の家に奪われ、帰る先の実家では、肩身の狭い境遇が待っている、そしてまた、日本には妻妾同居の風習がある。妻は真かけを歓迎せなばならないのだ。だから日本女性の美徳は徹底した忍従であり自己放棄である。もっともそのような自己犠牲の習慣から、日本女性の静かで威厳のある振舞いと、いかなる事態にも動じない自己抑制の魅力が生まれているのだが。

 以上のベーコンの叙述が、明治の上流家庭における結婚生活、とくに家観念の強い華族、士族出身の高級官吏、大商人や大地主の家庭におけるそれ、そかもその絵に描いたような理念型であることはいうまでもあるまい。彼女の東京での交際範囲は、華族女学校教師という地位からしても当然、明治の上流家庭に限られていた。そのような理念が抽出される現実に限ってみても、そこには様ざまな異変があったに違いないが、何よりもまず、そういう理念型を適用しうる家庭が当時の人口のどれだけを占めていたかが問題だろう。それはたかだか一割にも及ばない日本人の生活現実だった。それ以外の大多数の日本人は、むろん男尊女卑のイデオロギーの影響を受けながら、そのような理念型とはほとんど縁のない結婚生活をいとなんでいた。だからこそベーコンは、農民初めとする結婚生活の、よりのびやかで幸福な構図を補足せねばならなかったのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.361~262

 

おわり。

本日のつれづれ no.507 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第9章-女の位相-①〜

2017.08.20  【517日連続投稿】

 

 庶民の女たちの地位は支配者の妻たちの地位よりはるかに高いという認識は、チェンバレンだけのものではない。ブスケは農村の女について、「その仕事はヨーロッパの田舎の婦人の仕事とおなじで、その意見はあらゆることに採りいれられている」と言う。またウェストンは「日本の農村の生活で最も重要な特徴として目につくのは、婦人が非常に重要な役割を演じていること」であり、「これらの有能で金のかからない働き手は、より保守的な上流階級の婦人たちが通常置かれている状態に比べれば、はるかに多くの自由を楽しみ、それ相応の考慮を払われている。農家の主婦は夫と夫と労働を共にするだけでなく、その相談相手にもなる。主婦が一家の財布を預かり、実際の家庭を支配することが多い」と記している。

〜中略〜

 ベーコンも「日本の農民のあいだに、最も自由で独立心に富んだ女性を見出すことには何の疑いもない」と言う。」この階級では国中を通じて女性は、仕事はつらく楽しみは少ないけれど、頭を使う自立的な労働生活を送り、アメリカの女性の地位と同じようにかて内で尊重された地位を占めている彼女らの生活は、上流階級の婦人のそれより充実しており幸せだ、何となれば、彼女ら自身が生活の糧の稼ぎ手であり、家族に収入の需要な部分をもたらしていて、彼女の言い分は通るし、敬意も払われるからだ」。上流階級の女たちは結婚後月日がたつにつれて、自己を放棄した表情になってしまうのに対して、夫と肩を並べて働く農民の女の顔は、歳月とともに、自立と生活のよろこびに輝くのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.358~360

 

おわり。

本日のつれづれ no.506 〜第4回教師塾を終えて〜

2017.08.19  【516日連続投稿】

 

本日、講師に長谷川厚一郎さんを招いて第4回教師塾「マインドマップを通した自己理解」を行いました。

 

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ざっくりした流れとしては、3人または2人のグループを作り自己紹介後に、テーマを変えながらマインドマップを何度も書きました。

 

講師の長谷川さんの最後のお話で

「答えは、常に自分の中にある」ということは、マインドマップは自分と繋がるツールであるとかんじました。

 

以下は、参加者が「マインドマップだからこそ見えた自分」という問いに対して回答頂いたものです。

 

○何気なく生きていてもしっかり困っているものややりたいことが明確にあるんだと思いました。

 

○目の前のことに対しては迷いなき力を尽くせていると思います。これからのことについて書く機会が多かったのですが、マッピングの中に何度も「仲間」「友人」という言葉が出ていました。マッピングを通して、改めて自分にとって「友人」の大切さが身に染みました。

 

○問題・課題を探すのが大変だった。最近は落ち着いていてあまり心の葛藤もなくなってきているのか。もっと問題意識が必要なのか。絵を描こうとしなかったのは苦手意識の表れだと思った。きれいに書こうとすると連想が止まる。

 

マインドマップを書くことで、自分の中で考えていることが何かを自分の目で確認することができて安心でき、解決方法を探ることができている。

 

○私はやっぱり簡単な言葉とかからたくさん広げられるんだなあと思った。

 

○思考はできていてもマインドマップとして見えるかできてないと自分自身は行動できないのかと感じました。行動するために見えるかしたいと思います。

 

○考えているコト・モノ。キーワードで書くからこれが浮き上がってくる。

 

○自分から見た世界にことばかり考えていると感じました。自分の思い込みから悩んでいることも多いため、他人の視点やアドバイスを大切にしていきたいです。

 

○未来は自分でつくれる。原因は全て自分にある。意外と考えているんだなぁ。

 

○自分が何をすればいいのか、目標が明確にできた。

 

○普段なんとなく考えていたことを整理して、自分がとらわれる固定観念や、先入観や、思い込みなどに気づくことができました。何か物事を解決しようと思ったときに頭の中だけで考えると、リスクや失敗の経験、先ほど書いた固定観念や先入観からマイナスイメージをグルグルしているだけになってしまいがちだが、マインドマップを用いてポジティブな言葉を使い、客観的に自分を捉えることができ、そうすることで実践的で思考が統合された解決方法が見えてくるのだと感じました。

 

○頭の中でモヤモヤしていたことを可視化したことで自分が一番求めていたものは自分も家族も幸せに過ごせることだと気づけました。その軸がブレることがないよう折り合いをつけながら、自分の人生を歩んでいきたいです。

 

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次回の教師塾は11月19日(日)の13時から行います。

内容はインタビューゲームを用いたものにしていこうと思っておりますので、お楽しみに♪

また改めてご連絡いたします。

 

おわり。