2017.08.22 【519日連続投稿】
たとえば離婚の問題をとっても、彼女か紹介している一例はむしろ当時の女性の自由度を示すものとして読むことができる。彼女が交際している上流家庭のお菊さんという女中がいた、彼女は結婚のためにその家からひまを取ったのだが、ひと月余りでその家へ舞い戻って来た。主人が「夫が不親切な男だったのか」と問うと、彼女は「いいえ、夫は親切で気のよい人だったのです。でも姑が我慢できない人でした。私を休むひまもないくらい働かせたのです」と答えた。姑がそいうきつい女であるのを、彼女は結婚前から知っていた。だが、夫となる男が、母親を兄のところへやって、自分たちは別箇の世帯をもつと約束したもで、彼女は結婚を承知したのである。ところが、母親が移って行った先の兄息子の嫁は怠け者である上に性質が悪かった。それにくらべてお菊さんは大変よい嫁だとわかったので、婆さんは兄息子の家を出て、お菊さんの新世帯に転がり込んだのである。転がりこまれたお菊さんの生活はたえがたいものになった。そこで彼女は離縁を求め承認されたというのだ。この話のどこに家制度の束縛があり、男の圧制があるのだろう。あるのは女どうしの闘争ではないか。男は女にはさまれてうろうろしているだけだ。姑と嫁の戦いにしても、強い方が勝つのであることは、婆さんが兄息子の嫁から追い出されたのを見てもあきらかだ。しかも、お菊さんは姑から追い出されたのではない、自分の方が我慢できなかったので離婚の請求したのである。そしてベーコンの認めているように、離婚歴は当時の女にとってなんら再婚の障害にはならなかった。その家がいやならいつでもおん出る。それが当時の女性の権利だったのである。
むろんこれは、ベーコンの描く理念型をはるかに逸脱する庶民世界の話だ。しかし、絵に描いたような上流家庭の場合でさえ、嫁の夫やその両親への従属は「多くの場合、幸福な従属」であるとベーコンは認めている。「妻の座は、とくに子どもたちの母である場合には、往々にして楽しい」。というのは、夫や姑に気に入られるかどうかは、彼女の自己抑制能力にかかっており、その意味で、一家の雰囲気が楽しいものになるかどうかは彼女次第だからである。つまり彼女は従属者でありながら、その自己犠牲は一家のしあわせの源になって彼女に照り返すのである。ベーコンは、日本女性の愛するもののための自己犠牲を、とくに武士階級出身の女のそれを、ニューイングランドの古風なピューリタン的良心に似たものとさえみなしている。
渡辺京二『逝きし世の面影』p.362~363