名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.547 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第14章-心の垣根-⑤〜

2017.09.29  【557日連続投稿】

 

 幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、一つの完成された域に達した文明だった。それはその成員の親和と幸福感、あたえられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念、自然環境と日月の運行を年中行事として生活化する仕組みにおいて、異邦人を讃嘆へと誘わずにはいない文明であった。しかしそれは滅びなければならぬ文明であった。徳川後期社会は、いわゆる幕藩体制の制度的矛盾によって、いずれは政治・経済の領域から崩壊すべく運命づけられたといわれる。そして何よりも、世界資本主義システムが、最後に残った空白として日本をその一環に組みこもうとしている以上、古き文明がその命数を終えるのは必然だったのだと説かれる。リンダウが言っている。「文明とは、憐れみも情もなく行動する抗し得ない力なのである。それは暴力的に押しつけられる力であり、その歴史の中に、いかに多くのページが、血と火の文字で書かれてきたかを数えあげなければならぬかは、ひとの知るところである」。むろんリンダウのいう文明とは、近代産業文明を意味する。オールコックはさながらマルクスのごとく告げる。「西洋から東洋に向かう通商は、たとえ商人がそれを望まぬにしても、また政府がそれを阻止したいと望むにしても、革命的な性格をもった力なのである」。だが私は、そのような力とそれがもたらす必然について今は何も論じまい。政治や経済の動因とは別に、日本人自身が明治という時代と通じて、この完成されたよき美しき文明と徐々に別れを告げなければならなかったのはなぜであったのか。その点について、文明の保証する精神の質という面から、いくらか思いつきを書きつけるにとどめよう。

 

おわり。

本日のつれづれ no.546 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第14章-心の垣根-④〜

2017.09.28  【556日連続投稿】

 

 人びとを隔てる心の垣根は低かった。彼らは陽気でひとなつこくわだかまりがなかった。モースが言っている。「下層民が特に過度に機嫌がいいのは驚く程である。一例として、人力車夫が、支払われた賃銀を足りぬと信じる理由をもって、若干の銭を更に要求する時、彼らはほがらかに微笑し哄笑する。荒々しく拒絶した所で何等の変わりはない、彼は依然として微笑しつつ、親切そうにニタリとして引きさがる」。その事実にはすでに一八一〇年代に、ゴローヴニンが蝦夷の獄舎で気づいていた。「日本人は至って快活な気風を持っている。私は親しい日本人たちが暗い顔をしているのを見たことは一度もない。彼らは面白い話がすきで、よく冗談をいう。労働者は何かする時には必ず歌う。またたとえば艪をこぐとか、重い荷物をあげるとか云ったような歌の調子に乗る仕事なら、皆が歌うのである」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.563

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.545 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第14章-心の垣根-③〜

2017.9.27  【555日連続投稿】

 

 その安息と神話の世界には、狂者さえ参入を許されていた。フォーチュンはディクソンら友人とともに鎌倉を訪ねたが、町中に入ると女が一人道路の真中に座りこみ、服を脱いで裸になって煙草を吸い始めた。明らかに気が違っているのだった。フォーチュンらが茶屋で休んでいると、彼女がまた現れて、つながれているフォーチュンらの馬に草や水を与え、両手を合わせて馬を拝んで何か祈りの言葉を呟いていた。彼女は善良そうで、子どもたちもおそれている風はなかった。フォーチュンたちはそれから大仏を見物し、茶屋へ帰って昼寝をしたが、フォーチュンが目ざめて隣室を見やると、さっきの狂女が、ぐっすり寝こんでいる一行の一人の枕許に坐って、うちわで煽いででやっていた。そしてときどき手を合わせて、祈りの言葉を呟くのだった。彼女はお茶を四杯とひとつかみの米を持って来て、フォーチュン一行に供えていた。「一行がみんな目をさまして彼女の動作を見つめているのに気づくと、彼女は静かに立ち上げって、われわれを一顧だにせず部屋を出て行った」。狂女は茶屋に出入り自由で、彼女のすることを咎める者は誰もいなかったのだ。当時の文明は「精神障害者」の人権を手厚く保護するような思想を考えつきはしなかった。しかし、障害者は無害であるかぎり、当然そこに在るべきものとして受け容れられ、人びとと混りあって生きてゆくことができたのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.562~563

 

おわり。

本日のつれづれ no.544 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第14章-心の垣根-②〜

2017.09.26  【554日連続投稿】

 

 幕末日本を訪れた観察者の前に現れたのは、こういう平和と安息の世界だったもである。それは彼らの期待と夢想によって異常に拡大された明るい側面にすぎない、という批判が聞こえてくる。しかし、暗い側面をあげつらうのは批判者にゆだねよう。混沌、逸脱、不調和、異常、無秩序を積極的に評価し、そういう様相を幕末・明治初期の社会の裏面からひろい出すような志向は、私がそれを追随せずとも、現代の時代構造そのものが生み出す流行の言説となっている。私がただ、それが明るいか暗いかとは別として、異邦人の目に映ったものを述べよう。それが圧倒的に明るい像だとするならば、像をそのように明るくあらしめた根拠について思いをはせよう、ダーク・サイドのない文明はない。また、それはあればこそ文明はゆたかなのであろう。だが私は、幕末、日本の地に存在した文明が、たとえその一面にすぎぬとしても、このような幸福と安息の相貌を示すものであったことを忘れたくない。なぜなら、それはもはや滅び去った文明なのだから。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.561~562

 

おわり。

本日のつれづれ no.543 〜9月の去年と今年の週末を比べてみました〜

2017.09.25  【553日連続投稿】

 

そういえば、最近の休日は家から一歩も出ずにダラダラと過ごすことがない。

 

昨年の9月ブログ記事などから、昨年の9月の土日のどちらかは、家にいる週末がほとんどでした。

 

それに対して、今月はずっと家にいた日はないんですね。ダラダラして充電しないといけないと思い込んでいた過去の自分が知ったら驚くでしょう。

 

僕の場合、外に出る時は何かしらの目的や理由があると外に行くけど、何もなくて外に出ることはあまりしない人なんだと今更思います。

 

だからと言って予定を詰めすぎるとまたダラダラがないとやってけないリズムになるので、程よく外に出て程よく家にいてってことがいいですね。

 

フェイスブックの機能の「過去のこの日」を毎日見ていて思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.542 〜 THIS IS CAMP 〜

2017.09.24  【552日連続投稿】

 

 

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9月23日、24日の二日間で静岡県掛川市にある明ヶ島キャンプ場でキャンプしてきました。

 

 キャンプ欲の火付け役となった思い出の地に再び行ってきました。

 

今回のテーマは「THIS IS CAMP」。

この夏キャンプグッズをある程度揃え、これこそキャンプというものになりました。

 

今回のキャンプ場は今年の6月上旬に行ったことがあり、約3ヶ月半ぶりでした。

「2回目です」と伝えたら、管理人の方からオリジナルコーヒーとその場で養殖された鮎を頂きました。

 また、キャンプ場までの道路が砂利道からコンクリートで舗装されていて、安全に行くことができるようになっていました。

 

 明ヶ島キャンプ場のテーマがお気に入りです。

「STUDY TO BE QUIET」

〜穏やかなる事を学ぶ〜

 

HPはこちら→炭焼の杜 明ヶ島キャンプ場(静岡県掛川市)

 

 

この場所に行かないと分からないこと、感じれないこと、気づけないことってたくさんあると思うので多くは書きませんが、一つだけ言えるのは「自分の自然の一部」ってことを感じました。

自分はなんでもできると思わずに、自分のやれることをやるしかない(良い意味で。)そんな気持ちになりました。

 

おわり。

 

おまけ写真

 

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本日のつれづれ no.541 〜キャンプだホイ。〜

2017.09.23  【551日連続投稿】

 

ついにっ待ちに待ったキャンプ。

 

今回は、僕のキャンプ欲を駆り立てるきっかけとなった場所に行ってきます。

 

その場所は電波が届かないので、23日の14時頃〜24日11時頃まで連絡取れません。

 

天気も数日前までは雨でしたが、てるてる坊主のお陰もあってか晴れてます。

 

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楽しんでいってきます。

 

おわり。

本日のつれづれ no.540 〜キラキラしようとしないということ〜

2017.09.22  【550日連続投稿】

 

好きなこと、やりたいこと、夢中になれることをやるのは良いことだ、という考え方がある。

確かに、好きなこと、やりたいこと、夢中になれることをやってる人は端から見て輝いているように見える。

 

できれば、ずっとやっていたい。

できれば、仕事にしたい。

そんな気持ちを持った人は口にしていない人も含めれば、大半がそう思うのではないだろうか。

 

そもそも、好きなこと、やりたいこと、夢中になれることなんてないっていう人もいるだろう。

どちらかというと、私も好きなこと、やりたいこと、夢中になれることを長年もったいなかった。

最近ようやく、

好きそうなこと、

やりたいかもしれないこと、

夢中になってるかもしれないこと、

がある気がしている。(仕事の話ではないです。)

 

やりたいこと、好きなことは探しても見つからない。見つかったと思っても、それは他人からよく見られたいとか、自分を輝かそうとか、よこしまな気持ちがあると思う。

あれもこれもできるようになりたい、達成したいという気持ちはとても素敵だか、よくよく見て見ると自分を苦しめる原因になっていることもしばしばあると思う。

だから、外に目を向けるんじゃなくて、内に目を向けることが大切。

内に目を向けるってことは別に何もせずにじっと考えればいいってわけでもない。

色んなことを経験して、自分はどう感じたのかを感じきることが内に目を向けることだと思う。

 

 別に高額なセミナーに参加する必要はないと思う。

それもある意味外に目を向けちゃってるから、何かにすがったり、これをやらば自分は変われる、輝ける。そう思いたいのだろう。

 

輝いているように見えちゃってる人は、自分から輝こうとしていない人もたくさんいると思う。

そういう人は、他人がどうやっても奪うことのできない輝きを持ってる。

モノとか肩書きとか環境とかじゃなく、その人の内から溢れ出すものだから奪いようがない。

 

何かを身につける前に、何か余計なものを背負っていらかもしれない。

余計なものを降ろして行くことで輝くこともあると思う。

輝くコツなんて分からない。

ただ、輝く必要なんてないし、輝こうとしてる人は何だか見ていて大変そう。

自分を見過ぎず、周りも見過ぎず、余計なことを考えない、感じきることがまずは大事なような気がしている。

 

日々の何気ない生活の中に幸せや喜びは溢れているはず。そう思います。

 

ということを結構前から思っていたので、綴りました。

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.539 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第14章-心の垣根-①〜

2017.09.21  【549日連続投稿】

 

 リンダウは一八五九(安政六)年初めて江戸を訪れたとき、アメリカ公使館付きのヒュースケンと川崎で出会い、彼の案内で江戸に通じる田舎道を通った。「そこでは全てが安寧と平和を呼吸していた」と彼はいう。「村々も、豊かな作物に覆われた広大な平野も、野良仕事の携わっている農夫達もである」。碧い海の上を滑り行く帆かけ舟、緑の庭園のような田圃、樹齢何百年の木立に包まれた寺院、花の香を運ぶそよ風、滲み通る静けさ、「全てが休息を招いていた。今まで私がこれほどまでに自然のさなかに生きる人間の幸せを感じたことはなかった」。安寧と平和というのは、たんに戸締りがいらぬととか、鍵をかけずともものを盗られないということではなかった。風景と人びとのうえに、このような輝くばかりの幸福感がみちているということだった。リンダウはその幸福感に酔い痴れたのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.558

 

おわり。

本日のつれづれ no.538 〜今年は雨男かもしれません。〜

2017.09.20  【548日連続投稿】

 

今年は雨男とよく言われます。

自分でも少しそうなのかなぁと思うくらい雨が降ります。

 

沖縄に行った時も

運動会の時も

珍しく出張があった時も

星空の映画館に行った時も

 

できれば降って欲しくない時に雨が降ります。

 

そして、今日は駅から出た瞬間に雨が降ってきたときに、ほんとにやめてくれと思いました。

 

今はコンビニの前で雨宿りしながら書いています。

 

雨にはネガティヴなイメージを抱いていましたが、「ちょっと待てよ」と雨は言っているのかもしれないとふと思ったことから、とりあえず書いてみようと思った次第です。

 

雨が降るのが嫌だとか、

普段の行いが悪いから降るのかもしれないだとか、

本当は雨男だから?と思うことだとか、

 

そんなこと思っていても雨が降る・降らないには影響しないわけですから、どう思おうが、どうしようもないものはどうしようもないのです。

 

人間も自然の一部であり、人間中心でこの世は回っていないし、自分中心でこの世は回っていないってことに雨は教えてくれます。

 

雨が降って喜ぶ生物や人もいます。

雨が降るから成り立つ生業もあるわけです。

 

雨が降って残念と思ってしまうのはしょうがないと思いますが、イライラするのは「自分の思い通りにならなかったことが受け入れられないことの表れ」だと思いました。

 

今まで24年生きてきましたが、思い通りにいくことなんて、人生そんなにないです。思ってもないことが大きいことから小さいことまでたくさん起きる。

だから、人生は面白いんだろうと思います。

 

雨は急いでいる人たちに

「急ぎ過ぎてはいませんか?」

 

雨は自分の思い通りにいくと思って人たちに

「そんなに上手くいくとは限らないよ」

 

雨はたくさんのことを教えてくれる。

 

今年は雨男とよく言われますが、雨は僕に何か教えようとしてくれているのかも知れません。笑

 

でも、今週末の待ちわびしていたキャンプに雨は降らないでおくれ。笑

 

おわり。