名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.902 〜弱いことが人間の根本②〜

2018.10.15  【935日連続投稿】

 

昨日の続きです。

昨日参加した「これからの福祉を考えるセミナー」にて参加者の高齢者の方がおっしゃっていたことが印象的でした。

 

人間は弱者から始まり弱者で終わる。

人間は元々弱くて、強くなった気になって、弱くなる。

この歳になって気づいてことです。

 

思ったことを内田樹さんの言葉をお借りして綴っております。

 

 でも、現代の家族集団は必ずしもそうなっていない。むしろ、メンバーの中でいちばん活動的で力の強い人間を基準に制度設計されている。弱いメンバーは他の強いメンバーからは「自己実現の妨害者」「足手まとい」という見方をされる。社会保障が国家予算の半分近く占めていて、育児支援とか老人介護とかを行政が必死で手当しないとどうにもならなくなっているのは、福祉システムの制度設計が間違っているというより以前に、今の家が弱者ベースで作られていないからだとぼくは思います。人々はそれよりむしろ「強者連合」をめざしている。階層が同じ、学歴が同じ、趣味嗜好が同じものが群れる傾向がある。その方が快適だから。そりゃ、快適がいいでしょう。郊外の高級住宅地でも、都心の超高層マンションでも、同一の階層集団が集まって、貧しい人や「よそもの」を排除しようとする。でも、ぼくはそういう閉じられた共同体というのは、どこか本質的に間違っていると思う。強者を基準にして、あるいは強者になることを目標にして社会制度を設定するべきではない。それはどこか人間的じゃない。

 

『ぼくの住まい論』著:内田樹 p.21

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.901 〜弱いことが人間の根本①〜

2018.10.14  【934日連続投稿】

 

 「人間は弱い」というのがぼくの人間観の根本なんです。だから、最優先の仕事はどうやってその弱い人間を慰め、癒し、支援する場を安定的に確保するか、です。「家は」なによりもまず「集団内でいちばん弱いメンバー」のためのものであるべきだとぼくは思います。幼児や妊婦や病人や老人が、「そこでならほっと安心できる場所」であるように家は設計されなければいけない。家は、メンバーのポテンシャルを高めたり、競争に勝つために鍛えたりするための場じゃない。そういう機会なら家の外にいくらでもある。家というのは、外に出て、傷つき、力尽き、壊れてしまったメンバーがその傷を癒して、また外へ出て行く元気を回復するための備えの場であるべきだとぼくは思っています。「おかえり」という言葉がいつでも用意されている場であるべきだと思っています。

 

『ぼくの住まい論』著:内田樹 p.20~21

 

おわり。

本日のつれづれ no.900 〜社内レクでのんほいパークへ〜

2018.10.13  【933日連続投稿】

 

今日は、私が勤めている就労継続支援B型事業所ゆいの社内レクリエーションで愛知県豊橋市にある「のんほいパーク」に行ってきました。

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就労継続支援B型事業所とは、障害福祉サービスの就労に関する国の事業で、障害等の理由により一般就労が困難であったり一般就労に向けて訓練する場所です。

 

社内レクリエーションでは、普段自宅と職場の往復のみが生活圏の方が多いため、ちょっと外の世界へ出てみようか!ということで、企画しています。

 

社内レクリエーションでは、いつもの仕事上では見れない利用者の姿が見れることが本当に楽しみです。何より「評価されない状況」だからこそ、利用者とスタッフがフラットに慣れていい感じの雰囲気なんです。

 

また、利用者さんと関わっているときは、自分が気づいていない「凝り固まった価値観が解れていく」時間でもあるのです。

なんか、この雰囲気を感じにきてほしいなと思います。

 

来月は、ゆいで焼きそばパーティーやるので、焼きそば食べながらこの雰囲気を感じに来て欲しいなぁと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.899 〜アマゾンプライム日記「昭和元禄 落語心中」〜

2018.10.12  【932日連続投稿】

 

以前、Amazonプライム・ビデオで一気に2周してしまったアニメ「昭和元禄 落語心中」。

 

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(アニメ公式HPより拝借  アニメ「昭和元禄落語心中」

 

今日、NHKで10時からドラマ化されて放送されていました。

 

アニメはシーズン1と2それぞれ十数話あるのですが、一気に2周観てしまいました。

 

落語なんて「じゅげむ じゅげむ ごこうのすぎきれ ...」くらいの印象だったのですが、

 

アニメで落語を観て、落語面白いって思いました。

 

お笑い芸人みたいに大声を出して笑うような面白さではないのですが、面白い。

 

実際に、寄席に行ってみたいですね。

 

おわり。

本日のつれづれ no.898 〜行き当たりバッチリ!〜

2018.10.11  【931日連続投稿】

 

先日、10月7日に愛知淑徳大学 長久手キャンパスにて「当事者研究全国大会」が開催されました。

 

その場には残念ながら、行くことができなかったのですが、当事者研究を教育分野に生かして実践されている寺子屋塾の井上さんが当事者研究全国大会で配られた冊子を見せてくださいました。

 

その中で、「行き当たりバッチリ!」というワードが目にとまりました。

 

思い通りにいくことがないとまでいかないですが、やはりほとんど思い通りに進まないことだなと思います。

 

だけど、やってみて、壁にぶつかって、バッタリではなく、

 

やってみて、壁にぶつかることが、順調で、バッチリなんだろうな。

 

上手くいかないときに「これで順調なんだ」と思わせてくれる、ステキな言葉だと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.897 〜当事者意識を持つということ〜

2018.10.10  【930日連続投稿】

 

当事者意識を持つということは、支援するにも教えることにも大切なこと。

 

当事者の見ている景色を見ていないのにもかかわらず、外野からとやかく言うことは簡単なこと。

 

常に自分は当事者の見ている景色を見ようとしているのだろうか?

という意識は当事者意識ではない。

 

自分自身の苦労や悩みを押し込めず、見ようとすることが当事者意識なのだ。

 

支援する側はしっかり相手を支えないといけないと力まなくていい。

教える側はしっかり相手に教えないといけないと力まなくていい。

 

誰かの悩みを解決することや誰かを教えて成長させることに喜びを感じる前に、まずは自分も当事者なのだから、自分の苦労や悩みを大切にするってことは、誰かの苦労や悩みに関われる力を持っているってことだと思う。

 

おわり。

本日のつれづれ no.897 〜自分であることを教えてくれるのは、他者〜

2018.10.09  【929日連続投稿】

 

自分が自分であることを教えてくれるのは、他者なんだなって思う。

 

他者との交流があるから、自分が生まれる。

 

他人と違うと気づくから、自分が自分であることに気づく。

 

他者と関わりたくないって思っていても、そう思うのも自分であるからこそ思うこと。

 

自分が分からないから他人と関われないって人は、逆なんです。

 

一人に自分なんてないのだから、誰かと関わる一歩が自分を知る一歩になる。

 

おわり。

本日のつれづれ no.896 〜人が問題なのではなく、問題が問題〜

2018.10.08  【928日連続投稿】

 

何か問題が起きたときに、

問題を起こしてしまったであろう人に問題があると見てしまうのは、

見当違い。

 

問題がある人ではなく、問題を持っている人といった表現も近いかもしれない。

 

問題がある人のように思うのは、その問題がその人の変えようのないものだと思ってしまっているからだ。

実は、問題があるように見えてしまっているのは、問題を持っている人が上手く問題を扱えていないだけの話。

 

問題を自分一人で持っていると、手放すこともできずいつまでも問題が問題になってしまう。

 

問題が問題にならなくするには、自分だけで問題を持つことではなく誰かと一緒に問題を持つ経験をすることなのだろう。

誰かと一緒に持つと自分に合う持ち方を学んだり、気付いたら手放すこともできるんだって気付いたりする。

 

自然とできる場にするにはどうすればいいんかなっていつも考える。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.895 〜『ぼくの住まい論』③母港であること〜

2018.10.07  【928日連続投稿】

 

 子どもは甘やかすと駄目になる、社会が弱肉強食のワイルドライフであるときに、そんな気楽なことを言う教師はかえって学生を損なっていると言う人もいます。むしろ、そういう意見の人の方が現代日本では多数派かもしれない。でも、ぼくは逆だと思う。母港のある船がいちばん遠くまで航海することができる。冒険の旅を事故なく終えることができるのは「帰ってくる場所」を持っている人間です。旅と冒険で成熟を果たした人々が、自分の成熟を確認できるのは、母港においてです。自分が何をしてきたのか、自分はどんな人間になったのかを知るためにはいつか母港に戻る必要があります。

〜中略〜

 母港があり、困ったことがあれば、そこに戻ればいい。振りかえると毎晩灯台の灯が見える。そういう人は、自分が何をしているのか、どこに向かっているのか、正しく把握することができます。だから、安心して、どこまでも航海を続けられる。母港を持たない船は、自分がどこからどこに向かっているのか、わからなくなってしまう。自分を「成長の文脈」という海図の中に位置づけることができなくなってしまう。

 教育というのは、力動的に構成されている。「困ったことがあったら、いつでもおいで」という支援の言葉を背中に受けた人は、そういう言葉を受けていない孤立した人よりも、人間的パフォーマンスが向上する。落ちたら死ぬという条件で綱渡りしている人よりも、落ちても「セーフティーネット」が張ってあると思って綱渡りしている人では、リラックスの程度が違う。リラックスしている人の方が運動精度は高い。「自分にはアジールがある」と思っている人ほど、アジールが要るような状況には陥らない。アジールというのは、そういう逆説的な制度なんです。

 

『ぼくの住まい論』著:内田樹

本日のつれづれ no.894 〜『ぼくの住まい論』②「逃れの町」論〜

2018.10.06  【927日連続投稿】

 

「「逃れの町」という制度は聖書「民数記」が定めたものです。

 「あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を撃ち殺した殺人者がそこに逃れることできるようにしなければならない。この町々は、あなたがたが復讐する者から、のがれる所で、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことのないためである。」(『民数記』35:11-12)

 どのような社会にも、そこに逃げ込めば、もう復讐者の手が届かない安全地帯があります。そこでは暴力がとりあえず停止される、どれほど政治的に正しい根拠があっても、そこでは暴力の行使が許されない。そういう「世俗の信賞必罰ルール」が一時停止される場所が人間社会にはどうしたって必要です。

 日本でもある種の宗教的聖域は「逃れの町」として機能しました。聖域は血で穢らわしてはならないという禁制があったために、そこに逃げ込めば、直接的な暴力に身をさらされずに済んだ。

 道場もまたある種の「逃れの町」であるべきだとぼくは考えています。

 実際に門人たちから話を聞くと、学校や職場でのストレスで「壊れる」寸前に、すがりつくように合気道に入門してきて、世俗の社会とは全く異質の基準で人間を迎えるこの場に身を置いて、ようやくほっとできた・・・という述懐に触れることがまれではありません。

 合気道の道場では、強弱勝敗を論ぜず、技の巧拙を論ぜず、競争も格付けもしません。ただ、ひとりひとりそれぞれの潜在能力の開花のために、お互いがお互いを支援し合う。それだけです。ですから、かなりの長期間、同門同士で、毎週のように稽古をしながら、お互いのフルネームも職業も年齢も住んでいるところも知らないということもあります。知らないままに稽古の後にいっしょにご飯を食べに行ったり、お酒を飲みに行ったり、道場の合宿に参加して、起居を共にしているうちに、だんだんとお互いのことを知ってくる、ぼくはそれでいいと思います。

 だって、その人が「どんな人間」であるかは、稽古をしていればわかりますから。外形的な情報なんか副次的なものにすぎません。腹が据わっているか、背筋が通っているか、胆力があるか、肩の力が抜けているか、目の付け所がよいか、場における身の程をわきまえているか・・・・、そういうことは、道場での立ち振る居ふるまいを見ていればすぐにわかります、人間を知るときには、そこから入ればいい。社会的地位がどうであるとか、年齢がどうであるとか、国籍がどうであるとか、そういう記号的なものは道場内においてはさしたる意味を持ちません。問題になるのは、その人の生きる知恵と力がいかほどのものか、それだけです。

 

 でも、普段の社会生活では、人々はそのような基準では人間的な力を考慮されていません。もっと外形的、数値的なことで査定さてれいる。「人間を見られる」ということをあまりされていない。

 そのことが有形無形のストレスをつくり出し、人々の心身の自由を損なっています。その心身のこわばりが限界近くに達した人たちが「逃げる」ように道場にやってきます。直感的にわかるんでしょう。ここにくれば「ほぐれる」ということが。そして、そこで稽古をしているうちに、ゆっくりとこわばりがほぐれ、本来備わっていた生きる知恵と力が賦活される。道場というのは、そういう点では「授業の場」であると同時に「癒しの場」でなければならないとぼくは思っています。それもまた長い教員としての経験からぼくが得た確信のひとつです。

 

 潜在能力を開花させようと願うなら、目先の利益をちらつかせて誘導したり、脅しつけたりしてはいけない。その人が自発的にその「殻」を破って、自分自身を繋縛していた「檻」から自分で扉を押し開けて出てくるのを気長に待つしかない。そのためには、「ここには私を傷つける人は誰もいない」という確信を得ることがどうしても必要になります、のくはそれが道場のあるいはもっとも重要な成立条件ではないかとおもっています。「ここに来れば、安全だ。ここには、誰も私を処罰したり、私の復讐の的にする人は決してやってこない」という確信がなければ、ひとはこわばりを解くことができませんから。ぼくが道場は「逃れの町」でなければならないというのは、そういう意味においてです。

 

『ぼくの住まい論』著:内田樹

 

おわり。