名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.741 〜人は皆同じ〜

2018.11.24  【974日連続投稿】

 

今日はカンボジアで孤児院を運営させている後藤勇太さんの講演会でした。

 

後藤さんとは、就労継続支援事業所の仕事で孤児院の子どもたちが使ったアクセサリーの在庫管理や配送、カンボジアブログの作成などで携わらせて頂いておりました。ビデオ通話でお顔を拝見したことはありましたが、実際お会いするのは初めてでした。

 

時々、海外支援をしている人をなんで国内のことよりも海外のことを優先するの?という目で見る人がいらっしゃいます。しかし、後藤さんのやっていることは、支援じゃなく共に生きるという選択です。

人生をかけて行なっている行為に他人はいちゃもんつけることはできないです。

 

更にいえば、海外だとか国内だからとか関係ないんでろうなって思います。

もちろん、国が違えが考え方や文化などなど違いはありますが、人に優劣などありません。

生まれながら、国が違うことで平等ではないって考え方があるかもしれませんが、僕は「戦後思想界の巨人」と言われる吉本隆明さんの考え方がしっくりくるんです。平等か不平等かではなく、「段階の違い」だと吉本さんは考えました。

 

 人類の近代化はヨーロッパが中心に推し進めてきたから、自分たちは高度で、それに比べるとアジアやアフリカを劣ってるみたいに思っているけど、そんなのは嘘ですよ。かつてドイツの経済学者カール・マルクスは、〈アジア的社会〉を視野に入れて、この問題を考えようと試みました。僕はさらに〈アフリカ的段階〉まで考えに入れて、そこの方から上を見るようにすれば、それは優劣ではなくて程度の問題で。〈段階〉のちがいにすぎないとわかるんじゃないかと思っています。もしアフリカの人を誰でもいいから、ヨーロッパに留学させるとかして、おんなじような教育を受けさせることができたら、ちゃんと同じだってことも目に見えてわかるはずです。

『ひとり』(著:吉本隆明)より一部抜粋

 

勇太さんがカンボジアの子供たちのことを話すとき、日本だからカンボジアだからといった垣根なく子どもの育つ力を信じている姿がとても印象的で「この人の力になりたいな」と思いました。

 

ただ、今は日本という国からカンボジアの国の孤児院で暮らす子どもたちは、貧しいという目になってしまうかもしれないけれども、それも現段階の話。

だから、人はみな同じ。

可哀想だからとかいらず、人は人と生きているのだから一緒に生きると考えるとカンボジアの孤児院だろうが、日本の障害者だろうが、将来に悩む若者だろうがみんな同じ。

 

おわり。