2021.06.01 【1881日連続投稿】
「課題の分離」というワードを知っている人は、どのくらいいらっしゃるのだろう?
課題の分離とは、アドラー心理学に登場する考え方の一つで、『嫌われる勇気』(著:岸見一郎)の出版で少なくない人たちが目にした言葉であると思っている。
意味としては、「その課題を最終的に引き受けることになるのは誰になるのか?と考えること」だと私は思っている。
朝寝坊して遅刻してしまうのは、本人の課題で、家族や本人の教育・支援に当たる人の課題ではないということになる。
本人の課題に踏み込むことで、こじれることもあれば、本人が課題に向き合う力も奪ってしまうことが懸念されている。
とはいえ、すべてのことが課題が明確に分かれることではないと、私個人は思っている。
遅刻する息子にどう関わるか?というのは親の課題になり、遅刻して学校にやってきた際の対応は教師の課題であると思っているからだ。
立場を変えれば、色んな見方ができるわけで、自分の課題ではないからほっておけというのが難しいのが現代である。
しかし、それは本当にあなたの課題ではないということを課題だと思い込んでいる人が一定数いるのも確かなこと。
そう、なぜ課題の分離をするかというと、自分の課題を明確にするためである。
他人に介入したり、誰かの課題を勘違いして引き受けることではなく、自分の課題を明確に自覚するために、あえて分けて考えてみることで、自覚を促すのである。
そのバランスがすべて0か100かにはならないことを念頭に置き、自身の課題があっても、自分の力のみで解決できるわけではないが、原点は自分の力であると自覚することが、課題の分離であると思っている。
【本日の晩酌】
休肝日。
おわり。