名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.397 〜なぜ「できない」を大切にしたいと思っているのか?〜

2017.04.22  【397日連続投稿】

 

 なぜは私は「できない」を大切にして生きたいと思っているのだろうか?

 

今日、寺子屋塾にて、寺子屋塾の井上淳之典さんと友人の塩坂太郎さんが企画されている「V.O.P(ベリーオーディナリーピープル)の予告編鑑賞会」を参加したことを機にこの問いが浮かびました。

 

それは、寺子屋塾関連の関わりから影響を受けていることが大きいと思いますが、そもそも自分が「できない」、「失敗」、「ショックなこと」が生きる上で欠かせないことになっているからだろうと思っています。

 

よく成功体験が大切なんだということが言われますが、私はどちらかというと成功体験よりも失敗やショックな出来事が今の自分を支えていると思っているので、できないことも成功することに引けを取らず、必要なものなんだろう思っているということです。

 

正直今でも、失敗したり恥をかいたりするのは嫌です。

おまけに、私は自分のことを失敗したり恥をかいた時には、一人で抱え込んでネガティヴになりやすい質であるだろうなと思っています。

でも今は、色んな人に関わることで自分で抱え込むことがなくなっていることが、日々起こる「失敗」や「ショックなこと」があったとしても楽しく過ごせていることに繋がっているのだろうと自分なりに捉えています。

 

一人で抱え込みがちな自分そのものを変えることはできなくとも、そんな自分があるからこそ、人と関わることをしようとしているのではないかと思うのです。仕事がない日は、極力グダグダしたくても、寝坊してでも人と関わるのはそういうことなんだろうと思います。

 

「できない」からこそその次が見えてくるからこそ、私の中で「できない」が大切なんだろうな。

 

そんなことを思わせてくれた「V.O.P予告編鑑賞会」については明日書きたいと思います。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.396 〜入試の基準は学力だからいい? 『見えない学校・教えない教育』より〜

2017.04.21    【396日連続投稿】

 

《基準》

大学は人生を決定しない

だからここに入る基準は

偏差値や共通一次センター試験)のように

いい加減なものがいいのだ

人間の価値と関係あるものが

入試の基準になったとき

社会はもっと息苦しくなる

 

『見えない学校・教えない教育』(著:平井雷太)

 

おわり。

本日のつれづれ no.395 〜「聴く力」 茨木のり子〜

2017.04.20  【395日連続投稿】

 

ここ最近、『あなたの人生を変える対話術』という本をもとに記事を書いています。

 

今日は、著者の泉谷閑示さんが別に書かれた『「私」を生きるための言葉』から詩を引用したいと思います。

 

聴く力

 

ひとのこころの湖水

その深浅に

立ちどまり耳澄ます

ということがない

 

風の音に驚いたり

鳥の声に惚けたり

ひとり耳そばだてる

そんなしぐさからも遠ざかるばかり

 

小鳥の会話がわかったせいで

古い樹木の難儀を救い

きれいな娘の病気まで直した民話

「聴耳頭巾」を持っていた  うからやから

 

その末裔は我がことのみに無我夢中

舌ばかりほの赤くくると空転し

どう言いくるめようか

どう圧倒してやろうか

 

だが

どうして言葉たり得よう

他のものを  じっと

受けとめる力がなければ

茨木のり子  『詩集 寸誌』)

 

「他のものをじっと受けとめる力がなければ」

 

それは一体どんな力なのだろうか。

相手を受けとめるということは、容易いものではないと思う。

受けとめるということは、相手を認めつつ自分が自分であるということなんだと思う。

コミュニケーションで言うなれば、相手の話を聴きつつ、自分の考えはしっかりとあるということなのではないだろうか。

自分があるから、対話ができる。

自分がなければ、相手の言うことすべてが正しいと思い鵜呑みにしてしまうだろう。

そんなのは対話ではないと私は思う。

だから、聴く力がある人は自分の核となるものがある人なんだろう。

核となるものがない人は、相手の話を聴きすぎてしまうが故に、安心して聴くことはできない。

じっと受けとめる力は、自分という存在と他人という存在を自覚して生きるということなんだろうな。

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.394 〜孤独だからこそ愛がある〜

2017.04.19  【394日連続投稿】

 

ここ数日、『あなたの人生を変える対話術』(著:泉谷閑示)をもとに記事を書いています。

 

昨日書いた記事には、二人称関係(二項関係)は人との関わりから生じる苦悩から逃げいていることに繋がることを書きました。

本日のつれづれ no.393 〜相手は自分と同じだろうと妄想する罠〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

今日は、苦悩から逃げなくていいんだよとう話でもあるし、そもそも人間は苦悩を持つような存在なのだという話を書きたいと思います。

 

そのキーワードとなる言葉が「孤独」です。

 

孤独が嫌だから、怖いからこそ自分と同じような相手を求めるのかもしれません。

孤独は、なんだか寂しい、悲しいという印象をどうしても抱きがちです。

 

大学生が学食で友達と一緒にワイワイしているグループが複数ある中一人で学食でご飯を食べている時、

飲み会で誰ともしゃべっていない時、

これらは「孤独」という言葉を連想しそうなシーンだなぁと思っていました。

 

私自身も「孤独」という言葉をなんとなくのニュアンスで捉えていたのですが、本書では、「孤独」と「孤立」は違うと書かれています。

 孤独について言えば、孤独とぼくたちに与えられる万人へ通ずる分け前なんだ。(中略)ただ、孤独と孤立はちがう。(中略)一人でいるとは、自分であるということ以外のなにごとでもないんだ。他のどんなものになれるというんだろうか。誰もぼくの代わりに生きることはできないし、代わりに死ぬことも苦しむことも愛することもできやしない。これこそ、孤独といわれるものであり、存在しようとする努力の別の言い方にほかならないんだ。君の背負っている重荷をかついでくれる人はどこにもいない。(中略)

 だから孤独とは、他人を拒否することじゃなくて他人を受け入れることであり、他人を他人として(自分の一部や道具や対象としてでなく)受け入れることなんだ。だからこそ、愛することは、ありのままの姿で見れば孤独なんだ。(中略)

 愛は孤独の対極じゃない。愛とは、他人の孤独によって分かち合い、満たされ、照らしだされた        ー  そしてときに曇らせる  ー  孤独なんだ。愛はつねに孤独なんだけれども、それはどんな孤独も愛をふくんでいるからではなく、それどころかあらゆる愛が孤独だからだ。ぼくの代わりに、ぼくのうちで、ぼくのように愛することは誰にもできやしない。自分の周りに、あるいは愛する対象の周りにあるこの砂漠こそが、愛そのものなんだ。

『愛の哲学、孤独の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィルより

 

どうやら先ほど書いた孤独のように思っていたシーンは、孤立のような気がします。

 

まさに私自身「孤独」と「孤立」が混同していました。

 

人は皆生まれながらにして孤独なのでしょう。

孤独を認識するから、愛が生まれるのでしょう。

孤独を認識することは、あなたが自分とは違う「他者」であり、私はあなたから見た「他者」であることを知ることなんだと思います。

 

他人同士が生きているんだから、ちょっとした意見のすれ違いなど取るに足らないのだし、人の目を気にしても結局全てを分かることはないのです。

お互いが異なるから、知りたい気持ちが生まれるし、関わりたい気持ちが生まれるのだと思います。

 

孤独は時に、辛いものになるかもしれません。しかし、孤独だからこそ、一層の喜びや幸せがあるのだと私は思っています。

だから、人との関わる苦悩はどうしても付き纏いますが、苦悩があるから愛があるんだと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.393 〜相手は自分と同じだろうと妄想する罠〜

2017.04.18  【393日連続投稿】

 

昨日の記事で登場した「二人称関係(二項関係)」の続きについて『あなたの人生を変える対話術』(泉谷閑示)を元に書きたいと思います。

 

本日のつれづれ no.392 〜複数人数いると話しにくいのは?〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

昨日の部分だけ読むと、二人称関係ってお互いが仲良くていいじゃないと思う節もあるかもしれません。確かに、多くを言わずともお互いの気持ちが何となくわかってくれたり、安心して接することができる人がいることは助けになると思います。

 

しかし、二人称関係でいるってことは、こんな一面もあるようです。

 私は、「二項関係」は、一人称-三人称関係が本質的に持っている苦悩的要素からの逃避を意味している、と考えている。二人称関係においては可能的に最大限のものが既知のものに還元される。(中略)たとえ人間関係から起こって来ることでも、思いがけないこと、非常に困ったことは、天災的なものと見做される傾向がある。(中略)それを甘受して、それが過ぎ去るのを待つということになる。(中略)人間的矛盾に対する時に起る「苦悩」(ANGOISSE)がそこには欠如している。

 しかるに「二項方式」の内部では凡てが一変する。お互いに相手は自分にとって二人称であり、「汝」であり、しかもそれが「私的な」関係であるということから、そこには「恋」あるいは「慰安」(CONFORT)と「苦悩(ANGOISSE)ちの絶え間のない交替が始まる。(中略)しかし本当は自己も相手もいつでも一人称になり、相手にとっては三人称になる可能性を保持している。また現実にそれは起こって来る。そこから「安心」は「不安」へ、「慰安は「苦悩」へと変貌する。

森有正森有正全集 第12巻』

 

 この文章を読んで、二人称関係(二項関係)とは、人と接する上で傷つくことを恐れているため自分の守りに入っている関係性とでも言い換えることができると思いました。

 

 そして、二人称関係で安心安全だと思っていても、人と人が接することでありますから、自分と違うことが許せなかったり、相手に裏切られたと感じてしまうのも二人称関係だからこそ起きるのだろうと思います。

 

どれほど仲が良い友人でも変わってゆくし、自分も変わってゆくのだから、私と異なる相手と接しているということを、いつも心に留めておくことが大切なのだろうと思います。ついつい近しい人と接する時ほど忘れがちになる時がありますがね。

 

そもそも自分が思っているんだから、相手も同じようなことを思っているとはかぎらないってことを知ることからだと思いました。そんなことを妄想するから、人と接することが怖くなったりするのかもしれません。

 

おわり。

本日のつれづれ no.392 〜複数人数いると話しにくいのは?〜

2017.04.17  【392日連続投稿】

 

今日も『あなたの人生が変わる対話術』(著:泉谷閑示)から書きたいと思います。

 

一対一なら話せるけど、複数人になったらあまり話せないってことが私自身、結構あるなぁと思います。

それは何故なのか紐解いていけたらなぁと思います。

 

日本人においては人間の一人一人が、つまり他人と区別された自分として、充分に独立的に、独立的な主体として自覚されないということがあります。他人と自分との間の区別が、はっきりとしていないということです。つまり、他人がいつまでたっても、私にとって「あなた」である。そこまではいいのですけれども、今度は、その「私」は「あなた」に対してのみ「私」なのです。(中略)天皇や親や、あるいは仕事上の上役や先輩から「お前」とか「君」とか「あなた」とか言われる人間として、自分を自覚しているのです。

 あるいは一家の中にあって、子供から親として考えられ、妻君から夫として考えられ、つまり全ての他の人から二人称として考えられるのです。だからその相手の意思を、相手の考えを推しはかってみなければ、自分の行動を決定することができないのです。また相手も同時に、自分にとって二人称なのです。

森有正『いかに生きるか』『Ⅱ  日本人の生き方』より

 

日本人は相手との関係性が変われば、相手の呼び名が変わったり、敬語になったりタメ口になったり、相手との関係性を前提に話し方や内容までをも決定するということみたいです。

 

そもそも、話す行為が一対一ありきの構成になっていることが、日本語を難しくさせ、大勢の人の前で話しにくい所以のようです。

 

私がここで思う肝心な部分としては、二人称ということがどういうことなのかということだと思います。

 

ここでいう二人称というのは、相手に自分の同意を求めることしかしない関係であるということだと思っています。

 

他人を他人としてみていない。

言える範囲内でしか物事を言わない。

そんなことを「二人称」という言葉を使って表現されているのだと思います。

 

お互いが違う人であることを前提に接することを受け入れることができれば、他人に伝わる伝わらないを問題せず、一対一でなく複数人数での対話のスタートラインに立てるのではないかと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.391 〜たかをくくらないために〜

2017.04.16  【391日連続投稿】

 

先日の読物つれづれでご紹介した『あなたの人生が変わる対話術』(著:泉谷閑示)から、「たたをくくらない  5つのポイント」をピックアップしたいと思います。

 

 読物つれづれ no.4 〜あなたの人生が変わる対話術〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

私は特別支援学校で講師をしていたり、個人的にインタビューゲームというコミュニケーションや対人関係を学ぶワークショップを行っている様々な場面から、他者に対して先入観を持つことで起きる対人関係の問題が結構あるのではないかと思っています。

 

自分をさらけ出すことへの恐れや苦手だと思っている人と接することなどは、自分が先入観を持っているから起きていることが多くあるのではないかと思います。

 

だからこそ、「先入観を外す=たかをくくらない」ということが重要なのだと思っています。しかし、具体的にどうやればいいのかということはなかなか私は分かりませんでした。

本書で紹介してある心構えは、具体的に示してあり、私にとって大変勉強になったものです。

 

「たかをくくる」ことへの説明とともに書き残したいと思います。

 

「たかをくくる」ことは、「対話」の精神の対極にあるものであり、これも〈「対話の死」〉を招いてしまいます。変化するもの同士だからこそ、今日の「対話」で終わることなく、明日の「対話」が意味を持つのです。

 

《たかをくくらないために  「5つの心構え」》

1、どんな相手に対しても、自分の感じ方や考え方を超えたものを持っているかもしれないと思って「聴く」こと。

2、昨日までのその人と今日のその人が同じとはかぎらない、と思って今日の話を聴いてみること。

3、途中まではいつも通りの話であっても、どこか微妙に変わってきているのではないかとおもって「聴く」こと。

4、相手が同じ話を何度もすることは、その話に込められている重要な意味をこちらが汲み取れていないからではないかと考えてみること。

5、昨日までは聞き取れなかった何かを、今日の自分ならば聞き取れるかもしれないと思ってみること。

 

おわり。

本日のつれづれ no.390 〜すぐに解決策に目を向けないこと〜

2017.04.15 【390日連続投稿】

今日は、名古屋市中村区にある寺子屋塾中村教室にて未来デザインというフレームワークの続きを行いました。

2ヶ月前から「インタビューゲームの今後について」をテーマに進めております。理念設定→現状把握→未来予測→要所解明→方法立案の5つの局面があり、今回は未来予測の局面を行いました。

そもそも未来デザインをやることになった動機が、今後の自分の人生を少しでも先を見据えると言いますか、どんな人生にしたいか、なんのために生きているのかというところを考える機会としてやることにしました背景があります。

 

前回の現状把握の局面で、私がやっているインタビューゲームが私の理想とかけ離れているものになっているということに気がつきました。
どうも今は、単発的なものになっていてイベント的なものになって少しの娯楽的なものになっていないかという懸念が私の中にあることに気がつきました。

今日の未来予測の局面では、今の現状がこうなったらいいなという理想的な好ましい未来を描くというものでした。未来を描くということで、「どんな状態であってほしいか」ということに目を向けるはずが、実際に取り組んでみて、私は「今の現状からどうすればいいか」ということを書いてしまっていました。別の言い方をすると、料理を作らないのに、食材だけ集めている感じとでも言えると思います。

 

「こうあってほしいから、こうする」となることの方が筋があって、目的と手法が逆にならなず、上手くいくはずなのですが、どうも上手くいかなかったことがあると解決策をすぐに見つけてしまいがちなのだなぁと実感しています。

 

今日のことを振り返って、書いてみました。 

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上手くいかないことがあると、すぐに上手くいきそうなやり方に目をやりがちだ。

しかし、上手くいかないことが上手くいくことに変わることが最も大切なことではない。

自分という存在の意味や価値を見ず、上手くいくことを優先することが大切なのか?

自分の大切にしたい想いを忘れず、理想を持つことを忘れずいることは、上手くやることよりも大切だ。

上手くいっていないことを歓迎して、短絡的な解決をせず、本来の目的に立ち返ればいいのだろう。

だからこそ、自分の理念や信条は大切なんだろうな。

自分の想いを掘り下げることは、自分にしかできないのだから。

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おわり。

読物つれづれ no.4 〜あなたの人生が変わる対話術〜

2017.04.14  【389日連続投稿】

 

 『あなたの人生が変わる対話術』(著:泉谷閑示)という本を読みました。

 

あなたの人生が変わる対話術 (講談社+α文庫)

この本との出会いは、いつも御世話になっている寺子屋塾の井上さんがインタビューゲームに関連する推薦参考書の1冊として『こころをひらく対話術』(著:泉谷閑示)を紹介されていることがきっかけとなりました。しかし、最近までは絶版となり入手できない状態でありました。2017年2月にやっと『あなたの人生が変わる対話術』として、出版社が変わったこともありタイトルが改められ刊行されることになったことで手にすることができました。

 

著者である泉谷閑示さんの『普通がいいという病』という本を以前読んだことがあります。自分と関わることや他人と関わることについて書かれており、何度でも読み返してしまう一冊でした。

 

そのこともあり、手に取ると早速読み始めました。

タイトルから想像すると、コミュニケーションの技法が多く紹介されている本のように受け取ってしまいそうですが、

そもそも「対話とは何か?」というところから始まっており、私は今まで当たり前のように「対話」という言葉を使っていましたが、対話についてにもっと言えばコミュニケーションや生き方についても考える機会を与えてくれることになりました。

 

第1章で、そもそも対話とは何か?という問いに対し、対話を行う4つの前提を泉谷さんが提示されています。

《対話を行うための4つの前提》

前提1:相手を「他者」として見ることから「対話」は始まる

前提2:対話は、「他者」を知りたいと思うことから始まる

前提3:対話は、お互いが変化することを目標とする

前提4:対話において、話し手と聴き手に上下関係はない

 

 

以上の4つの前提を見て私なりに対話というものを考えてみました。

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 異なる「私」と「あなた」という存在が、

 

お互いを知りたいと思う関心が交じること。

 

お互いが変わっていくことに不安や恐れがなく、

 

歳や経験が異なっていても、上下関係・主従関係などない。

 

自分の言いたいこと・聞きたいことで相手を束縛するのでなく、

 

相手が新しい自分に出会う機会になる。

 

それが対話なのではないだろうか。

 

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一記事でまとめることが到底できない本だと思うので、気になったポイントを数記事に渡り書くことになりそうです。

 

おわり。

本日のつれづれ no.389 〜本日のつれづれを再検討〜

2017.04.13  【388日連続投稿】

 

ここ最近、ブログについて再検討をしております。

 

2015年8月11日からアメブロで開始し、2016年1月よりはてなブログに移行して、「毎日書く」ということを決めています。

 

2016年3月22日から現在に至っては、毎日書くことが続いており、書くことから様々な気づきをもらっています。

 

多くの記事が、「これを書こう!」という気持ちで書くのではなく、書きながら気付いていくことを書くことをしている感覚です。

 

書いている記事の主なカテゴリーとしては、以下の3つです。

・本日のつれづれ

→その日の気づき等を書き留める。

・インタビューゲーム日記

→インタビューゲームを行なった振り返りの記録として。

・読物つれづれ

→ざっくりいうと読書記録。

 

私が書いている記事は、圧倒的に「本日のつれづれ」のカテゴリーに属しています。

 

当初は、その日の気付きを掘り下げることを意識していたのだと思っていますが、時には日記のようになったり、ただただ思ったことを書き留めただになった記事もあります。

 

過去に続かない経験を何回もしている中で、書く内容を自分でハードルを上げて書けなくしているということに気付き、「何でもいいから毎日書くこと」を決めてやってきました。振り返ると「何でもいい」としたからこそ、毎日書けたのだと思います。時には、「今日は書きたいことがありません。」と書いたこともありました。

 

今までは自分の思考を単純に文字に起こす。

想いやその時の感情を書き残す。

自分の感情を感じ切る。

 

何でもいいから書くことは、このような役割も果たしていたのではないかと思います。

 

約一年前には、そんなことを書くのはいいけど、わざわざFacebookに投稿するのはどうなんだろうと思ったこともありました。

 

本日のつれづれ no.67 〜自分のブログの在り方を再検討〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ 

 

FBに投稿することで、周りの人からの視線を気にする自分がいたり、自分の承認欲みたいなものがあるんじゃないかと思ったりしていました。

 

しかし、1ヶ月FBに投稿しなかった期間の間で、「書いたことは結局人に見てもらいたい」と思うようになりました。見てもらう人がいないと余計に自分寄りの表現といいますか、独りよがりの文章になっている ような気もしていました。

 

FBへの投稿を再開してから内容にはあまり他人を登場させないといいますか、自分の中で起きていることを書くことを意識して書きました。

 

結局、自分の想いばかり書いていても毎日同じようなことばかり書いたりしていて、「堂々巡りしてるなぁ、自分」と思うことがしばしばありました。週に1度通っている寺子屋塾での繋がりの方が書かれているブログを読むと、「結局、自分の中で起きていることの背景や過程が書かれていないと独りよがりの文章になってしまうのではないだろうか」と思うようになりました。

 

今回、再検討しようと思ったのは「いきなり自分の気持ちをずら〜と書いていくのでなく、そう思った背景や過程を書くことが必要なのではないかと思うようになってきたからです。背景や過程を書くことでより一層自分を客観的に観ることにもなるとともに、独りよがりのものではなくなるのではないかと思います。伝えたい気持ちもありますが、もっと自分の気持ちを自分が知ってできるだけ気持ちを表現したいのだと思います。表現するなら、伝わるものがいいとも思っているのかもしれませんが。

 

また、仕事の中身については書かない方向性でやってきたいと思っています。なぜなら、自分が背景や過程を書こうと思ったら、どうしても周りの人を登場させたりしなければならないことが多いと思い、それは名前などを出さなくても受け取る人によってNGだったりするかもしれないと思ったからです。

 

とは言っても、いきなり変える自信はなく、背景や過程をぶっ飛ばしたことを書いたりするかもしれません。(背景や過程をぶっ飛ばしてしまう可能性があるからこそ、今の仕事のことはあまり書かないようにします。)

 

今までは「本当に何を書いてもいい」という状態でしたが、今後は「何を書いてもいいけど、背景や過程を書こう」と思います。

 

少しでも変化を楽しみながら、書いていこうと思います。

これからも、、毎日書くは変わらず続けていくので、読んでくださる方はこれからもよろしくお願い致します。

 

おわり。