名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

読物つれづれ no.7 〜吉本隆明 『フランシス子へ』〜

2017.06.09  【445日連続投稿】

 

読物つれづれとは、私が読んだ本の記録として、感想、気づき、印象に残った箇所を紹介したりするものです。

 

7冊目に読んだ本は、『フランシス子へ』(著:吉本隆明)です。

 

フランシス子へ (講談社文庫)

 

この本は著者の吉本さんとフランシス子という名の猫との関係から生まれた一冊です。フランシス子は別に特別美しかったり、特技があるわけでもない普通の猫、いや普通よりかは可愛げのない猫のような印象ですが、吉本さんのフランシス子の組み合せが絶妙で、私も実家にいるときは野良猫を世話していた経験があることから、読み終わるとつい目がうるっときてしまう魅力が感じられました。

 

そんな中で、この一説を紹介したいと思います。

 

猫型人間と犬型人間

 

 消極性っていうのは一般論としても猫の特性みたいになっているところがありますよね。

 人間でも、消極性が表に出ている人と積極性が表に出ている人、両方がある。

 どっちがいいんだって言われても、これはまあ、選べるもんでもないし、どっちがいいとも言えない。

 

 猫でも三毛猫みたいな希少な猫と、これといった特徴のない猫では人間のかまいかたもちがってくるかもしれないし、人間でも絶世の美女なら人をかき分けても接近して、自分の恋人にしたいと思うのかもしれないけど、僕なんかはもう、いくら向こうが魅力的でも諦めが早いといったらいいのか、積極的になったところでどうせ俺じゃ駄目だよっていうふうに思ってしまって、自然としりぞいていきますね。

 

 そういう考えだと、やっぱり猫的になりやすいんだと思う。

 その意味では自分はどうしたって猫型の人間だと思います。

 

 自分がそんなふうだから、積極的な人の魅力というのはすごいもんだなあ。これはちょっとかなわないなとあっけにとられるほど感心することがありますね。

 たまにいるんですよ。

 あくまで積極的に突進していって、粘り通して思いを遂げるみたいなことをできる人が。

ワンちゃん型の人といったらいいのかなあ。

 

 そういう人に会うと、こいつはすばらしいねって呆れかえるっていうか、諦めるっていうか、こっちはわあって感じになりますよね。

 ああいうのは何だろうな。

 育ちなのか、人柄の魅力なのか。よくわかりませんが、にわかにやろうとしてやれるもんじゃないし、やっぱり持ち味なんでしょうね。

 

 ただ、ワンちゃん型の人であっても、当初の強さ、積極性が貫徹するっていうことはなかなかなくって、だんだん積極性が失われていったときに、なんとなくその人にぬけがら、残骸が残ったみたいな感じをさせるっていうことも多い。

 つまり当初の勢いがこの人の持ち味っていうふうになると、それが薄れていったときに、なんだか精彩を欠くみたいな感じになることもあると思うんです。

 やっぱり人間だから、どっかに弱点とか欠点があって、なかなかうまくいかないもんだねえって感じに終わっちゃうこともありますよね。

 反対に、積極性が衰えてくる頃になって初めて、その人らしい持ち味が出てくる場合もあって、消極的な人っていうのはだいたいそういう感じですよね。

 僕なんかもそうで、猫型の人はそうじゃないかなって。

 最初は、その人の育ちとか人間ってものに対する考えかたとか全部を総動員して、かろうじて積極性らしいかたちができるっていうことところから始めて、終わりのほうになってやっとその人らしい持ち味が出てくる。

 

 そうなるまでは、猫型の人っていうのは自分のほうからはすすんでやりたがらないから、なんとなくその場しのぎみたいになるし、評価してもらいづらいんですよ。

 やっぱりワンちゃん型の人のほうが派手で目立つし、有利な感じがします。

 

 みんながみんな、積極的でがむしゃらにやられても、これはちょっとやりきれないなあってことになるんでしょうけど、消極性っていうのはやっぱり褒められたもんじゃないっていうかね。

 消極的な人もいてくれたほうがいいとは思うんだけど、僕なんかにしても、そうしてるしかしかたがないからそうしてるんだけどね。自分でそうしようと思って、選んでやっているわけじゃないから、それを長所とか美点みたいに言うわけにもいかない。自分の欠点として自覚しています。

 ダメなヤツもいてくれたほうが救われるって言われれば、こっちのほうが救われる気もするんですけどね。

 そういうもんでもないんだろうなあ。

 消極性が有効に作用することがあるとしたら、それはもう、たまたまそうなっただけのことで、偶然のおかげじゃないでようか。

 いいこともあるのかもしれないけど、いいことの記憶っていうのは、やっぱり少ないからね。

 

 僕は、自分のやったことに積極的な意味をみだりにくっつけたりしたら、自分はもうだめだって思ってやってきました。

 なんでもそうなるかっていったら、要するに自分は何をいっぱしにやろうとしたところで世間並みには振る舞えないってことがいちばん根底にあるんだと思います。

 積極的にやろうとしても、ことごとくうまくいかないって思いをさんざんしてきたから、「人並みに」というのがずっとある気がしますね。

 

『フランシス子へ』(著:吉本隆明)p.52〜57

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.440 〜意味や価値がなくてもいい〜

2017.06.08  【444日連続投稿】

 

一日のの出来事や感じたことに対して、意味や価値をどうしても見だしてしまいたいと思っている時っていうのは、なかなかブログの記事が書けないとき何だと思います。

 

今日のこの出来事は、こういう自分にとっては意味があって学びになったんだ。

 

というようなことを前までは書いていたようなんだけれども、どうも最近はそういうことは書く気になれない。

 

何でかっていうと、 毎日そんな自分が過ごしてた日々に意味づけするなんてことはいらないんじゃないかって思います。私自身の場合、無理やり意味づけしようというもんなら、自分の満たされたいであったり、充実した日々を送りたいという欲から意味づけを施しているにすぎないのではないかと思うのです。

今までの人生、そんな意味づけしようのない日々もたくさん過ごしてきていると思います。そうなると、自分にとって意味があること、価値があることしかやらない考えないってことになりますし、いっちょ前に、自分はこんなこと知りましたよ、学びましたよってことはそんなに毎日言えるもんでもないと思うんです。

 

じゃあ、一応毎日続けているこのブログは何だって聞かれると「意味や価値がなさそう」だけど続けているものなんだと思います。

はじめから、意味や価値がありそうなことを書こうと思って書くのではなく、「なんで自分はこんなこと書いてるんだろう?」ってくらいの気持ちでいるときの方が、自分は性に合ってると思います。

 

大切なことはすぐには分からないものだと、最近つくづく感じていることでもありますし、何かと何かが結びついてこうなるっていうのも一側面でしかなく一概に言えないと思うようになってきたので、意味や価値を見出すってことも、簡単なことじゃないです。

 

自分から積極的に何かを生み出そうとすることも大切だと思いますが、果たして本当に自分から生み出されているのかと言ったら言い切れないのではないかと。

このブログはすら、自分が書こうとする気持ちや意志だけでは続かないんだと最近思うようになってきました。

誰かが見てくれていたり、自分がいろんな人と関わったり経験をしていたりする中で表現することを周りから許されていたりすることは自分の意志を越えたものでやってるんでろうと思います。

 

それは、日常も同じで自分ではどうしようもないことの中に、良い悪いなんて言えないことあって、誰かを責めたり自分を傷つけたりする必要なんてないことばかりです。

 

意味や価値がなくても私たちは生きていくわけで、「それなりに生きていればよし」って思ってるくらいが私の場合はちょうどいいんだと思うそんな気分です。

 

ふと電車の中で、購入して1ヶ月くらい経ち読み始めた『フランシス子へ』(著:吉本隆明)を一日で読み終わって、ブログを書いているとこんな感じになりました。

次回の読物つれづれに書こうと思います。

 

おわり。

本日のつれづれno.439 〜聞き手主導のコミュニケーションってどういうこと?〜

2017.06.07  【443日連続投稿】

 

インタビューゲームを淡々と続けている私ですが、インタビューゲームをやっているとちゃんと対話していることを感じられると思っています。

 

《インタビューゲームについては、こちらをご参照下さい》

                                         ↓↓↓

インタビューゲームについて - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

インタビューゲームでは、聞き手と話し手がはっきり役割として別れてインタビューが行われます。会話にスタートは決まってと言っていいほど、聞き手から始まります。聞き手の質問に対して話し手が話していきます。ざっくりと、このようなコミュニケーションを私が毎週通っている寺子屋塾をやられている井上さんは、「話し手主導のコミュニケーションではなく、聞き手主導のコミュニケーションが大切」と話されます。

 

先ほどの説明した聞き手主導のコミュニケーションに対して、話し手主導のコミュニケーションは話し手が自分の話したいことを話し、聞き手がそれをただ聞いていてるというコミュニケーションです。どちらかがマシンガンのように話し、一方がうんうんと聞いている状態が続いているコミュニケーションとも言えるような気がします。

 

そういう話し手主導のコミュニケーションをしていると何が起こるかと言いますと、「自分は話したけど、相手に伝わっていない」ということです。

よく言われることですが、「伝えたことと、伝わったことは異なる」ということです。

こういう状況や経験をした時に、もっと上手く伝えるために言葉を選んだり、何度回も伝えたり、話すという方法の中だけで伝わるようにしがちなのではないかと思います。トーク力、スピーチ力などと言われる能力を磨くことも価値あるものだとは思いますが、それは話し手主導のコミュニケーションの場面で輝くものと言えると思います。具体的な例を出すと、大勢の人の前で話す講演会やトークライブみたいな場面には大いに役立つと思いますが、普段のコミュニケーションではいくら話すを磨いても伝わらないことは必ず生じるのではないかと私は思います。

 

「伝える」のではなく「伝わる」コミュニケーションにしたいのであれば、はやり「聞く」行為は欠かせないものなのではないかと、むしろ「聞く」からこそ伝わるが生まれるのだと思います。

 

何度も何度も「聞く」と書いていますが、ここで言う「聞く」とは「傾聴と質問」です。

聞き手主導のコミュニケーションと言うことは、相手に質問することからはじまるコミュニケーションということです。それにこの答えによって、相手はどんなことが知りたいのか聞きたいのかなどを知った上で話すから「伝わる」に繋がるのだと思います。相手が知りたいことについては話せばそりゃ伝わりやすくなります。

 

それに、分からなくても聞くことがコミュニケーションの中に入っているので「ズレ」を聞きやすい環境であることも聞き手主導のコミュニケーションの特徴何だと思います。

 

聞き手主導のコミュニケーションってことを自分は果たして解っているのか?という「自分への問い」から生まれた今日の記事ですが、今はここまで解っているということでしかないんだと思いながら書きました。

 

おわり、

本日のつれづれ no.438 〜他人の言葉を借りる〜

2017.06.06  【442日連続投稿】

 

私の中の沈黙にある言葉には、話し言葉にはできない時が多くあります。

 

沈黙も言葉ってことは、話していなくても人は少なからず何かしら思っていたり考えてたりしてるってことなんじゃないかと思います。

 

だからと言って、すぐに誰かに伝えたり言葉を自分から発することができるかといったらなかなかできないことが多くあるってことを毎日ブログに書くことを通じて感じています。

 

そんな時に誰かの言葉を借りるってのは、自分の枠を広げることになるんじゃないかと最近は思います。

一人で考えていても、思い耽っていてもなかなか堂々巡りを繰り返してしまうことも結構あります。

例えば、本から得られる言葉っていうのは自分の沈黙の言葉が上手いこと言い表せられていることがあります。

他人の話し言葉には触れることで、自分の沈黙の言葉が話し言葉へ浮かび上がってくる感覚になります。

最初は、他人の言葉をパクってるじゃんと思ってしまっていましたが、言葉が誰かのものなんてことは誰も決めていないし、自分の見栄やプライド勝手に決めちゃってるもんなんだろうなぁと思います。

 

誰かの言葉に枠を広げられながら、私が発信した言葉から誰かの枠が広がっているかもしれないと思うと、何だか言葉の世界も果てしないです。

 

毎日書くってことは、毎日枠を広げようとしていることでもあるんだと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.437 〜詩集『いじめられっ子のひとりごと』より①〜

2017.06.05  【441日連続投稿】

 

 月まで

行けるようになっても

地球が滅びるくらいの爆弾をつくることが

できるようになったとしても

私たちはまだ

隣の人とどうやって

うまくつき合えばいいのか

わからないのです。

 

おわり。

本日のつれづれ no.436 〜ひ弱のままでいい〜

2017.06.04  【440日連続投稿】

 

命あるものはすべて、ひ弱からのスタートです。ひ弱のままでいられることは、強いことであることにもかかわらず、ひ弱の存在を認めず、ひ弱を治そうとして、しなくてもいい援助ばかりを行うと、ひ弱であることがよくないこととして伝わってしまいます。

『「〜しなさい」と言わない教育』(著:平井雷太)

 

おわり。

本日のつれづれ no.435 〜自分のなかに歴史をよむ「解るということはどういうことか?」〜

2017.06.03  【439日連続投稿】

 

 上原先生のゼミナールのなかで、もうひとつ学んだ重要なことがあります。先生はいつも学生が報告をしますと、「それでいったい何が解ったことになるのですか」と問うのでした。それで私も、いつも何か本をよんだり考えたりするときに、それでいったい何が解ったことになるのかと自問するくせが身についてしまったのです。そのような自問をしてみますと、一見解っているように思われていることでも、じつは何も解っていないことが身にしみて感じられるのです。

 「解るということはいったいどういうことか」という点についても、先生があるとき、「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」といわれたことがありました。それも私には大きなことばでした。もちろん、ある商品の値段や内容を知ったからといって、自分が変わることはないでしょう。何かを知ることだけではそうかんたんに人間は変わらないでしょう。しかし、「解る」ということはただ知ること以上に自分の人格に関わってくる何かなので、そのような「解る」体験をすれば、自分自身が何がしかは変わるはずだとも思えるのです。

 

『自分のなかに歴史をよむ』(著:阿部謹也

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.434 〜問い続けることは終わらない〜

2017.06.02 【438日連続投稿】

 

「問い」とはわからないときにのみ

発するものではない。

すでに自分はわかっていると思っていることでも

「問い」にして発してみることで

いかに自分がものごとを一方的に決めつけて見ているのか

自分の見たいようにしか見ていないかが見えてくる

だから、いつ・いかなるときでも

自分がどれだけの思い込みで、ものを見ているのかとの

自覚があれば、どんなときでも「問い」は出てくるはず。

相手がそんなことをするのは

「◯◯だと思っているからに違いない」という

そんな勝手な思い込みを、

果たしてそうなのかと考えれば、「問い」が浮かび

「問い」はいつまでも限りなくで続けていく。

 

『「〜しなさい」と言わない教育』(著:平井雷太)

 

おわり。

本日のつれづれ no.433 〜色々ある一日の何に目を向けるか。〜

2017.06.01  【437日連続投稿】

 

一日過ごしてるだけでも、色々あります。

 

色々ってどんなことかって具体的に書こうとしても上手くかけないから色々って言ってしまっています。

 

色々って便利な言葉ですね。

 

具体的には上手くかけないけど、色々の中には楽しいこともあれば嫌になってしまうこととか、面倒だなぁと思うこと、緊張すること、もっと色々あるけど、今日一日を振り返っても、本当に色々ある日しかないんだと思うんです。たとえ、自分の部屋に籠っていてもずーっと同じことをやり続けたり考え続けたりってことは人間できないだろうから、色々ない人なんていないんだと思うんです。

 

色々やってるかなで上手くいくこともあれば、上手くいかないことが続く時もある。つくづく感じるのは、基本的に人は上手くいくようにしたいと思っているから大きく分けると「できないを味わいたくないからできそうなことをやる」人と「できなくても次できるようになるきっかけとなると思って、まずやってみる」人がいるように思える。

 

いや、人で分けるのも何か違う。

場面や関わる人が変われば「できないのは嫌だからできるなことをする」自分と「できなくても元々、やってみようとする」自分、両方自分は持ち合わせているんだろうと思います。

 

じゃあ、何で「できそうなことを優先させる」自分と「できなくてもまずやってみる」自分がいるのだろう。

それは「失敗」の捉え方が違うのであろう。

失敗=良くないこと

失敗=学び

この捉え方の違いが自分の行動・言動すらも影響を受けているんだろうと思います。

 

それは多分、失敗のみならずできないとか、弱音とかも自分の外に出すものではないと何となく思っているから。

できなさや弱さを隠さず、その人のままいる人にときに惹かれてしまうのは、自分が押し込めているものがあることの裏返しなのかもしれない。

 

色々あるって話からこんな話になってしまったけど、

色々ある中のどこに目を向けるかでその人の大切に思っていることがぼんやりと見えてくると思っています。

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.432 〜話したくないことは話さなくていい〜

2017.05.31  【436日連続投稿】

 

「言いたくないことは言わなくていい。」

 

今日、相手の方に「これは言った方がいいんだけど、言いたくないな〜」って気持ちになった時に、フッと湧いてきた言葉でした。

 

なんでこの言葉がフッと湧いてきたのかというと、私が個人的にやっているインタビューゲームに深く関係していることだからです。

インタビューゲームとは、ペア同士がお互いをインタビューし、相手の自己紹介文を書くことをとりあえず100人の方としようと思ってたやっています。

 

詳しくは、こちらをご参照ください。

 インタビューゲームについて - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

インタビューゲームには重要な3つのルールがあります。

⑴何を聞いてもいい(質問の自由)

⑵話したくないことは話さなくていい(答える自由)

⑶聞かれてなくても話していい(話す自由)

 

今日、フッと出てきたのは2つの目ルールと同じことで、無理に話したくないなら話さなくてもいいよなって思えたということです。

 

話してこう思われるだろうな。

逆に話さないことで、こう思われていることも自覚しているけど、話さないな〜と思ったので話さなかったんだと思います。

 

今まで話さないってことは、少し後ろめたく思うことがありました。

言いたいことは言わなきゃ言った方がよいとよく言いますが、言いたいわけでもなく言えないことってたくさんあるんだと思います。

 

でも、話したくないことは話さなくていいという保障があると、心が楽なんです。

本来は、話さなきゃいけないかもしれないけど、話す義務はなく、話したくないっていうなかなかのグレーゾーンってやっぱり人間ならある。

そういう時に、それでも話すことが良いことみたいな考えていると、苦しい思いをすると思います。

 

そんな時に、話さなくてもいいという考えや保障があると救われるときがあるんだと思います。

 

安心があるから話す気になれるし、話す時になったら話すってことはたくさんある。

 

こうやって綴っていると、「話したくないことは話さなくていい」という安心があるからこそ、話すこともあるんじゃないかと思いました。

 

今日の気づきは、自分が逆の立場になった時に忘れないようにしたいと思います。

 

おわり。