名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.431 〜自分のなかに歴史をよむ 「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」〜

2017.05.30  【435日連続投稿】

 

『自分のなかに歴史をよむ』(著:阿部謹也)の一節「生きてゆくことと学問の接点」より

 

自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)

 二年間のゼミナールの間で、もっとも大きな出来事はいうまでもなく卒業論文の題目の決定でした。先生はどんなテーマでもかまわないといわれるので、みな一生懸命にテーマを考えるのですがなかなかきまらないのです。私はローマ帝国史に関心がありましたし、日本の問題にも興味を持っていました。ヨーロッパ中世の修道院にもひかれているといった状態で、何かひとつにテーマをしぼることができずにいたのです。そこである日、思いきって先生のところに相談に行ったのです。

〜中略〜

 先生は長い間待たせたことを詫び、二人で話し出しました。ところが先生は私がローマ史をやりたいといえば、「それは結構ですね」という具合で、特に反対もせず、かといってそれをやれともおっしゃってくださらないのです。いろいろ話しているうちに先生はふと次のようにいわれたのです。、「どんな問題をやるにせよ、それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね。」

 そのことばを聞いて、私はもうほかの質問はできなくなり、そのまま家に帰って白紙の状態でふたたび考えることにしました。

〜中略〜

私は「生きてゆくということはいかに食べるか」だと思っていたらしいのです。そう考えると、それをやらなければ生きてゆけないテーマはあるはずがないのであって、食物さえあればとにかく生きてはゆけると考えていたらしいのです。

 しかしそれでは何も進みませんので、生きてゆくことと学問とをつなぐ接点を数歩後退して求めるために、何ひとつ書物をよまず、何も考えずに生きてゆけるか、と逆に自分に問いを発してみたのです。するとその問いには容易に答えが出たのです。そんな生活はできないということが体の奥底から納得できたのです。

 そういうわけで、「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」を卒業論文でみつけ、それを扱うという結果にはなりませんでしたが、そのような方向で一生その問題を探し続けるという姿勢のようなものはできたように思います。いわば、これが私の研究の原点であったようにいってもよいでしょう。

 そのときほど真剣に考えたことはありません。答はだれでも知っている至極当然のことにすぎなかったのですが、それを私は自分一人で考え、自分の体の奥底で納得したのです。

 

それをやらなければ生きてゆけないテーマ。

 

この言葉がただただ私の中で強く響いた言葉だったので、書き残しました。

 

おそらく、それをやらねば生きてゆけないものは何となくあるんだろう。

 

それを見つけるには時間がかかることも何となく「そうなんだろうな」と思っている。

 

すぐに見つかるものは、変わりやすい。

 

じっくりじっくりいろんなところで、色んな人と関わり、色んな考えに触れ、自分に問うことを繰り返すことに時間をかけることで、「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」ってものは見つかるのかもしれない。

 

 

おわり。

本日のつれづれ. no.430 〜元気がなくてもよいのだ〜

2017.05.29  【434日連続投稿】

 

世の中に元気な人ばっかりだったらたまらない。元気じゃない人の果たしている役割こそ重要だ。

『「〜しなさい」と言わない教育』(著:平井雷太)

 

元気な人をワイワイと賑やかな人と置き換えると、私にとってはたまらないなぁと思います。

 

元気でない人は、誰かに安らぎと安心をもたらしているのかもしれない。

 

自分自身に置き換えても同様で、いつも元気でもいつかは疲れる。

 

疲れている時は自分にとって何だか下がっているときだなぁと思いがちだが、そんな時の自分も重要なんだと思いました。

 

おわり。

読物つれづれ no.6 〜阿部謹也 『自分のなかに歴史をよむ』〜

2017.05.28  【433日連続投稿】

 

読物つれづれとは、私が読んだ本の記録として、感想や気づき、印象に残った箇所を紹介したりするものとなっています。

 

6冊目に読んだ本は、『自分のなかに歴史をよむ』(著:阿部謹也)です。

  

自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)

 

今回の本も、他の本に関した記事にお決まりのように登場・紹介をしている名古屋市中村区で寺子屋塾をやられている井上淳之典さんの影響で読むことになりました。以前、未来デザインという、とても端的に言えば「これから事業を起こしたりするときに役立つフレームワーク」をやる際にこんなことを言われました。

 

「現在っていうのはどこからどこまでなのか不確定なものなんだよね〜」

 

確かに、現在を今日と認識している人もいれば、今年と認識する人もいるなぁと思いましたが、私は「現在が不確かだからなんなんだ?」とあまりよくわかっていないませんでした。周りの人もそんな感じだったので、井上さんはこの本を紹介されたのだったと記憶しています。(多分、大筋はこんな感じのはず。)

 

そこである一文を読まれたのです。

そのとき読まれた内容は、よく覚えていませんが「私が認識している時間軸ってのは絶対的なものではなく、学校とかではそう習ったけど、私が勝手に思い込んでいるに過ぎないのかもしれない」と思ったことはよく覚えています。

 

ちなみに私がその時に認識していた時間軸ってのは、こんなイメージです。

 

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でもそれは私自身の認識に過ぎないと気付かされた一説があるので紹介したいと思います。

 このようにみてくると、国や民族の全体に大きな影響を与えた大事件や革命などが現在の出発点をなすといえそうですが、それだけではないのです。現在というからには、その中で使われていることばは、少なくとも同時代人である私たちすべてに理解できるものでなければなりません。

 新しい言葉が若い人びとの間で流行したとき、親や先輩の人びとはそのことばが通じないと軽いショックを受けます。ただ世代のギャップを感じたというでけではなく、ことばが通じなくなるかもしれないという恐怖があるからで、時代の違いを感じとってしまうからです。なぜなら、ことばが通じることこそ、現在という共通点の時代をいている同時代人のあかしだからです。

 ですから、明治維新が日本の現在のはじまりであるということはこの点ではむずかしいでしょう。中江兆民の『三酔人経綸問答』は、現代日本語に訳さなければならなくなっているからです。こうして翻訳しなくても理解しうる生活の範囲が現在だということもできるのです。

 ところが良く考えてみますと、私たちが日常生活を送るなかでなにげなくしている行為や行事が、現在だけのものであると必ずしもいいきれないのです。

 たとえば道で煙草をすおうとしてマッチがないとき、通りすがりの人に「すみませんが火を貸してくださいませんか」といえば、たいてい気軽に貸してくれるでしょうし、マッチで煙草に火をつけてくれたあとで、「ではいつ返してくださいますか」と聞く人はまずいないでしょう。ところが、電話をかけようとして十円玉がないとき、通りすがりの人に借りるとしても、返す約束をしなければ借りられないのです。

 ではなぜ火ならよいのでしょうか。いろいろ考え方があるでしょうが、石器時代に人間が火を聖なる共有物とみなしていたことが、私たちの意識の奥深くでいまも生きていて、火を課すことは人間として当然の義務だと考えているのかもしれないのです。

 このように考えてみますと、私たちは現在に生きていながら、私たちの振る舞いや使っていることばその他のなかに、数えきれないほどの過去がしのびこんでいることに気付くのです。ことばはいうまでもなく過去から私たちに贈られたものですから、ことば本来の意味を探ってゆくと、遠く古代にまでさかのぼれることばはひじょうに多いのに、私たちはそのことに気付かず使っているのです。

私たちの意識の奥底にしのびこんでいるのです。 年中行事のひとつの正月も同じです。誕生日を祝うということも過去の再現に他ならないでしょう。毎年誕生日がめぐってくるとき、人びとは今日この日に自分が生まれたのだといいます。抽象的な数の流れとして年月を考えればそんなことはありえないことなのですが、日本人の意識の中では三百六十五日が単位となって、一年たってふたたびまた新しい一年がくり返すという考え方があるので、このように考えるのでしょう。

〜中略〜

 このように考えてくると、現在と過去をはっきりと区別することがむずかしくなります。いわば現在は過去によって規定され、現在の足元に過去が流れこんでいるからです。

 しかしながら、現在を規定しているものは過去だけではないのです。未来もまた現在を規定しています。将来の計画をたてて現在の生活を営む人、受験勉強のために遊びをかかえ塾通いをする人、あるいはもっと大きな計画の準備をするために今日の生活を送る人たちは、未来によって現在を規定しているのです。

 このように考えていきますと、現在はきわめて複雑にみえ、現在とは何かという問いに明確に答えられないように思われるかもしれませんが、どんなに過去に規定され、未来に規定されようとも、現在は現在であるということもできます。私たちは過去がどうであれ、あるいは未来がどうでなろうと、おいしいものを食べれば楽しく、美しい音楽を聞くと心が安らぎ

友人とともにいるときに幸福を感じます。一回限りの生命をうけ、現在生きていることは確かなのですから。

 

 この一説を読むとどうやら、現在というものは過去や未来に影響を受け決められている側面があり、同時に現在によって過去も未来も決められる側面もあるんだろうなと思います。

 過去→現在→未来のように時は流れていると思っていましたが、捉え方により様々な時の流れ方があるんだと気付きました。

 

この本は、ヨーロッパ中世の研究から差別や人と人との関係性を明らかにしよう試みるなど、他にも多く気づきがあったのでまた他の記事に書きたいと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.429 〜仕事について書くのをやめて〜

2017.05.27  【432日連続投稿】

 

なんだかんだ毎日書くことが続いていますが、今は何でも書いていいことから少し変えておりまして、仕事のことについては極力書かないと枷をはめています。

 

昨年度(2016年度)の記事の内容を大まかに見てみると、感覚的に6,7割近くが仕事で起きた出来事から、自分が考えたことや気付きを書いていました。確かに、平日の大半の時間は仕事をしているので、ふと意識が仕事に向きがちというのは分かる気がしますが、仕事のことだと事細かく書くわけにもいきません。そして、書いている内容が同じことを何度も何度も書いてしまっていることについてもいい加減どうにかしたいなぁと思っていました。

 

今年度に変わるくらいのタイミングで、「仕事のことは極力書かない」という枷を自ら決めて書き続けてみて振り返って見たいと思います。

 

【事実をもとに書こうとする意識がある高まりつつはあると思う】

 昨年度は、仕事のことについて直接赤裸々に書くわけにはいかないから、直接的には書かず想いをフワフワと書くようなことが多々あったのですが、それが減ってきたかなぁとは思います。今でも時々やってしまう時はありますが。

事実をもとに書こうとするとなると、より日常を観察してなければ書くことはできません。そして、仕事に関しては書くことはできないと決めているため、それ以外で目を向けることが必然となるわけです。それって結構大切なことだと最近は感じていて、一つのことばっかり目を向けないようにすることで、過去の変えられないことをズルズル引きずらないための手段になったり、自分の枠を外そうと心がけることに繋がると思っています。

 

【本を読む時間が増えた】

これは間違いなく、本を読む時間は増えていると思います。電車の中で読むことが多く家ではあまり読まなかったんですが、最近は家でも自然と読むようになりました。本から書くヒントをたくさん得ています。積ん読している本もたくさんあるので、ぼちぼち読んでいければいいかなぁと思っています。

 

おわり。

本日のつれづれ no.428 〜日常の中のできる・できないの基準はどこにある?〜

2017.05.26  【431日連続投稿】

 

できる・できないってのは、日々の日常で過ごしていたら何を持ってできる・できないと言うのかよく分からないなぁと、ふと思いました。

 

自分自身ができると思っていても他人が「それはできてないでしょ」と言えば、それはできてないことになるもんだと今まで思っていたけど、どうなんだろうか?

 

他人から言われるできないは、何だか絶対的な判断だとつい思いがち、自分より上の立場の人からい言われると特にそうなりがちだと思います。

ただ、他人から言われる「それできてないよ!」の一言には他人の解釈が入ったものだと知っておく必要があるだろう。

 

これはあなたにとっては「できてない」なんだ、と知ることができればいいと思います。

 

他人に「できてない」と言われて、傷つくとかって言うのは、大抵相手が言ってることを鵜呑みにしてしまっているからなのではないだろうか?

 

そう言う時は、相手から一つの尺度を学んだと思えば、いいと思います。

 

なんだかこれについてはまだまだ書けそうなんだけれども、またの機会にさらに詳しく書こうと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.427 〜『スナフキンの名言集』に書いてあることがよく分からない〜

2017.05.25  【430日連続投稿】

 

大学生のときに思わず買ったこの本。

スナフキンの名言集

 

当時は読んでもよく分からなかった。

1、2年の間手にとっていなかったけど、手放さずに持っていた。

 

今日、久しぶりに手にとってパラパラと読み返してみた。

今でもよく分からない言葉がたくさんあった。

多分、ムーミンを書いたトーベ・ヤンソンを人生とか生きた時代や場所を知らないと本当に分かるってことはないのかなぁと思った。

 

でもその中でこれは大切だと思う言葉に出会うことができた。

「あんまり誰かを崇拝したら、ほんとの自由は、得られないんだぜ。本当さ。ぼく、知ってんだ」突然、スナフキンは言いました。

スナフキンの名言集』文&絵:トーベ・ヤンソン  訳:渡部翠  

 

”ほんとの自由”ってなんだろう?

 

多分、スナフキンが言いたい自由ってのは、好き勝手にできるってことじゃないんだと思う。

崇拝ってことは、自分で考えなず他人の考え、生き方を自分にはめるってことにならないか。

 

一つだけ今の自分でも言えるのは、問い得ることは自由を得るということだろう。

今までの自分にはない思考の枠や価値観が拓けていくことは、自分が自由であろうとするからだろうと思った。

 

おわり。

 

インタビューゲーム日記 no.36 〜既に成立している関係の中で関係性は存在している〜

2017.05.24  【429日連続投稿】

 

インタビューゲーム36人目のお相手は、早川なつさん(以下.なつさん)でした。

 

《インタビューゲームって何??》

インタビューゲームについて - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

なつさんとは、私が週に一度通っている寺子屋塾で知り合いました。べてるの家という精神障害者の施設の方々のドキュメンタリーを見るイベントで知り合いました。

 

本日のつれづれ no.398 〜V.O.P予告編4鑑賞会に参加して〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

【既に成立している関係の中で関係性は存在している】

 今回は、寺子屋塾で行ったことで、私となつさん以外にその場に5名ほどいらっしゃいました。個人セッションでは、カフェでやるときがほとんどで、その場合ですと知り合いでない人や何の関係もない人が周りにいても大して気になりません。しかし、知り合いや寺子屋塾を介した繋がりがあると、意識をしていなくても話すことや聞くことが変わってくるのだと思いました。

 

 例えば、私の目の前にはインタビューゲームを41人の方とやられている本田信英さんがいらして、時折目が合っていました。良い悪いではなく、なんからの影響はあったんだろうと思います。

 

もし仮に、二人だけの空間ならば全く違ったんだろうと思います。直接関わっていなくても2人以外の誰かが、その場にいるだけで二人の関係ではなく、複数人としての関係が生まれているんだと思いました。

 

 そして、さらに言えば、関係性というのは築き上げていくというのがこれまでの私が持つイメージだったのですが、ちょっと最近は異なるイメージを持っているので書こうと思います。

最近はどう思っているのかと言いますと、関係性っていうのは築き上げていくというよりも、既に関係性は成立していく中で私たちは他者と関わっているのではないだろうかと思うようになってきました。もちろん、関係性は変容していくものだと思いますが、変容していく有様も既にあるものなんじゃないかと思うようになってきました。

 

 聞きたいことを聞けない気持ちも勇気を出して話した話も、自分の意思を越えたことなんじゃないかと思うようになってきました。

だからこそ、恐る必要なくもっと聞いたり話したりすればいいんだよなぁ〜と言うことを考えらようになってきています。

 

 インタビューゲームを続けていると、インタビューが上手くことが重要なのではないんだと思います。人との関係というのをよーく観察できるようになることが大切なんだと思うようになってきました。観察することができれば、インタビューも上手くなるのは必然だと思います。

 

【聞きたいことを聞けなくても、相手に伝わっていた】

 今回聞きたいことを聞けなかったです。それは、聞きたいことが本当にどうやって伝えたら良いのか分からなかったからです。10分くらいどうやったら相手に聞けるだろうかと考えてたまま時間は過ぎ、結局聞けないままインタビューが終わってしまいました。上手く言葉にならなかったと思っています。

 私は聞けなかった代わりに相手になりきって自己紹介文を書くときに、聞きたかった気持ちを書いてみることにしました。受け取った相手のなつさんは、私が書いたことから聞きたかったことを受け取ってくれていて、そのことについて振り返りの時間で話すことができました。

 インタビューゲームでは、「何を聞いてもいい」というルールがあり、勇気を持って聞いてみることをすればよかったのかもしれませんが、今回にとっては「話し言葉で聞くよりも書き言葉としてが相手に聞きたいことが聞けた」という初めての経験をしました。

 

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4、5月は忙しかったこともあり、あまりインタビューゲームができませんでしたが6月以降は少しずつ余裕が出てくると思います。

興味ある方は、是非私とインタビューゲームをやりませんか?

 

おわり。

本日のつれづれ no.426 〜算数プリントのミスが人間関係を見つめるきかっけに〜

2017.05.23  【428日連続投稿】

 

今日のらくだプリントなら答え合わせをして、よくミスをするときって「ちゃんと確認していないから」ミスが起きているんだと、思いました。

しかし、今月は全問正解の日がわずか2日しかないこともあり、「確認したら、ミスは減らせるんだらうな」と思っていると、気付けば「確認」という言葉に注目していて、算数プリントから飛躍した振り返りになりましたので、書き残そうと思います。

 

今日のらくだプリントは、5ー37で、3つの数字の最小公倍数を求めるという問題でした。最初は、丁寧にそれぞれの倍数を書き出して、一緒の数はどれだろう?というところから始まり丁寧に進むプリントだなぁと感じていました。

 

さらに、例えば3・6・9の最小公倍数を求める問題だとすれば、こんな解き方があると自分で理解できるように問題が構成されています。

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4・6・9の最小公倍数を求める問題だとこんな具合に解きます。

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これのやり方を使えばミスなくできそうで、全問正解できる可能性が高いと思うのですが、私はとてもめんどくさがり屋なので、毎回こんなに書くのは嫌だなぁと思い、すぐにもっと簡単にできるように身の丈に合わない解き方をしてしまうのです。

身の丈に合わない解き方というのは、途中式を書かずに頭の中でやってしまうことが多々あります。

このプリントは32問あり目安時間が8分でした。途中から本当に面倒だなと思って、頭の中でやるようになってしまったのです。

32問解き終わった時点で、4分26秒と目安時間の約半分の時間で溶けていました。いい具合だなぁと思いながら答え合せをしていると、なんと4問ミス。不合格になってしまいました。(ミスが3問以内で目安時間以内に解けていれば、合格)

 

頭の中でやってしまうということは、自分の世界や主観にどっぷり浸かった状態で問題を解いてしまっているということだと思いました。数字というのは、客観性がある思いますが、頭の中にある数字に客観性はないと思いました。

 

2・5・8の最小公倍数を求める問題をちゃんと書いて行えば、答えが40になるのは私にとってそうそう難しいことではありません。

しかし、これを頭の中でやると狂うのです。狂ってしまっていたのです。

 

らくだプリントをちゃんと書いて解くことは、頭の中でやってしまう私にとっては「ちゃんと確認しながら解くということ」だと思いました。

 

こんなことを思っていると突然、確認する作業というのはらくだプリントだけに言えることではなく、仕事についても言えますし、さらに言えば人間関係においてもとても重要なことなんだと繋がり、痛感したのです。

 

こっちが頭の中で思っている情報や他人への見方というのは、本当に正しいだろうか?

そういうのを思い込みと呼んだり、盲点に変わったりするものなんだろうな。

 

自分にとって相手のことを分かりきっていると思うことでも確認がてら聞いてみると、ズレが生じていたなんてことはありそうなことなんじゃないかと私は思います。

ズレていることが、いけないことと言いたいわけではありませんが、確認することは大切なんだと思いました。

 

「確認する」ということは、計算に止まらず人間関係に及ぶ行為になるんだとハッとさせられたので、今回の記事を書くことになりました。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.425 〜いい問い見つけました〜

2017.05.22  【427日連続投稿】

 

今日、いい問いを見つけました。

見つけたというよりも、寺子屋塾の井上さんにシェアして頂いたのですが。笑

 

今年の3月頃に私がどうやら「何を大切にしてますか?という質問は答えにくい」と発言していたそうです。

井上さんは同じようなことを聞きたい時に、他にどんな問い方があるかなぁと考えられていたみたいで、つい最近見つかったとのことでお話しして下さいました。

 

「あなたは、どんなことに目を向けていますか?」

 

これを聞いて、これなら答えやすいなと素直に思いました。

 

じゃあ、問いの何が違うのかと自分なりに考えてみました。

 

「大切にしているものはなんですか?」

というのは、恐らく色んなことを大切にして生きられている人がほとんどで、場面や時期によって大切にしたいことって変わるんじゃないかなぁと思います。それに対して、「大切なこと」というと、何だか普遍的なもののように捉えらガチじゃないかなぁと私は思います。

また、「大切にしたいこと」というと、カチッとしてるといいますか、グレーゾーンなことは言えなくなるように思えます。バシッと「これ!」みたいな感じに迫られる感覚が少なくとも私は若干感じるので答えづらい質問なんじゃないかなと思います。

 

それに対して、

「どんなことに目を向けてますか?」

というのは、ライトな質問のように思える。もちろん、場面や時期によって変化するものであるとは思いますが、そこ目が向くことの奥にはその人が大切にしたかったり、関心があることに繋がるのだと思います。

 

ついついインタビューゲームをしてるときとか、大事な話をする時に「大切なことはなんですか?」とストレートに聞いてしまいガチだが、スッと答えられる人は、私自身を含めそんなに多くないのではないだろうか。

 

そんな時に「どんなことに目を向けていますか?」というのは、視点を変えて相手がはなしやすくしつつ聞きたいことを聞いているナイスな質問ではないかと思いました。

 

今後、使ってみようと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.424 〜欠損女子BARに行ってきました〜

2017.05.21  【426日連続投稿】

 

 昨夜、欠損女子BARに行ってきました。

 

 欠損女子BARとは、義手や義足をつけている女の子がバーテンダーをやっているBARで、お店の名前は「ブッシュ・ド・ノエル」と言います。

 普段は、東京の新宿で月に1回程度不定期にお店を開かれているみたいで、今回(5月20日)は初めて名古屋での開催となったそうです。

 今回の形式は、国際センター付近にある福祉施設の一室を利用して、1回90分(料金6000円)で完全予約制で行われました。

 

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写真(琴音さん)はこちらのHPから拝借。インタビュー記事になっているので、私の記事より詳しいことが分かると思います。

義手・義足の“欠損女子”に会えるバーに潜入 障害は「かわいい・かっこいい」|ウートピ

 

 私が欠損女子BARのことを知ったのは、前日に友人の森戸 力さん(もりと ちから)(以下、力さん)からお誘いがあったからでした。力さんは、時々、私が住んでいるシェアハウス「サムハプ」に遊びにきてくれたり、料理を作りにきてくれたり、ベーコンにつくり方を教えてくれたりと交友がある方です。勝手に「サムハプ料理長」と呼ばせて頂いています(笑)。あと普段は、福祉タクシーを個人でやられております。

福祉タクシー病屋楽子 トップページ

 

 まぁこの力さんがずっと欠損女子BARに行きたかったようで、名古屋開催となったことを知ると、一定人数の予約がなければ開催できないとのことで、すぐにまだ誰も連れて行くことが決まっていないのにも関わらず、10人で予約を取り、今回の開催のためにご尽力されたそうです。結局は、欠席者が出てしまい自分を含め6人で参加しました。しかし、基本的に1人か2人で来る人が多いため、この行動力にはスタッフや他のお客さんから無事開催できたことに対して感謝される程の行動力だったのでした。

 

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(後方の真ん中が森戸力さん。前方の左端は、東京から来られたファンの方でTシャツが義手。)

 

 

 さて、本題の欠損女子BARについてですが、今回は3人の女の子が来られていました。会場には、私たち6人を含め、20人弱お客さんは入っており、今回は、BARの雰囲気というよりも他のお客さんとも席が隣でオフ会や交流会のような雰囲気でした。他のお客さんは東京や岐阜や長野など愛知県以外からも多く来られていました。

 まずは初めての人へのアナウンスと自己紹介からスタートしました。その内、2人の方が片腕が義手で、もう1人の方は片目が義眼でした。事故で失われたり、生まれつき欠損だったりと人によって背景は異なる様子でした。実際に、義手や義眼と取って見せてくれます。義手については、他人が見たら驚かれるから本物の腕そっくりなものを普段は着用されているそうです。

 彼女たちにとっては、欠損女子BAR史上最もお客さんが入った会っだったようで少し緊張気味にお話しされてました。

 

 一番上の写真で登場した琴音さんと少しお話しする機会があり、普段は知り合いの居酒屋で働かれてるとのことでした。普通に面接を受けても、欠損していることがネックでなかなか働きたくても働くことができなかったようです。

 私は仕事柄、日頃から障害のある人と接していることもあり、全く抵抗なく接していましたが、琴音さん曰く、「無いものは無いなりに生きているし、周りから変に気を使われたりするのが嫌だ」と話されていたことが私の中では一番印象的でした。

 

 あっと言う間に90分が終わり、最初は少し緊張感があった会場がワイワイと上がった雰囲気になっていました。私は結構好きな雰囲気でした。

 そんな感じで欠損女子BARを楽しく過ごしてきました。

 

 ちなみに、会場では個人的に撮影や録音等は一切禁止で、形にに残したいなら女の子の1人につき1000円でチェキが撮れます。

 

 詳しくことはネットに記事や動画がいくつかあるのでそちらをどうぞ。

「欠損女子BAR」という義手・義足アイドルが接客するバーに行ってきた・・・五体不満足の乙武さんも話題にした、”欠損萌え”

【琴音×堀江貴文】欠損バー"ブッシュドノエル"編vol.1〜居酒屋ホリエモンチャンネル〜 - YouTube

 

おわり。