名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.477 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第4章-親和と礼節-④〜

2017.07.19  【485日連続投稿】

 

 「都会や駅や村や田舎道であなたがたの国のふつうの人びとと接してみて、私がどんな微妙なよろこびを感じたことか、とてもうまく言い表せません。どんなところでも、私は、以前知っていたのよりずっと洗練された立ち振る舞いを教えられずにはいなかったのです。また、本当の善意からほとばしり、あらゆる道徳訓を超えているあの心のデリカシーに教えを受けずにはいられませんでした」。東京クラブでこう語ったとき、アーノルドは日本人の礼儀正しさの本質をすでに見抜いていたのだった。彼によるとそれは、この世を住みやすいものにするための社会的合意だったのである。

 「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、『やかましい』人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男でも女でもきらわれる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言を吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、最も下層の車夫でさえ、母親の背中で体をぐらぐらさせていた赤ん坊の頃から古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つける事ができないのである」。「この国以外世界のどこに、気持よく過すためのこんな共同謀議、人生のつらいことどもを環境の許すかぎり、受け入れやすく品の良いものたらしめようとするこんな広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるこんなにもみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動のかくのごとき普遍的な抑制、毎日の生活のこんな絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然へのかくも生き生きとした愛、、美しい工芸品へのこのような心からのよろこび、楽しいことを楽しむ上でのかくのごとき率直さ、子どもへのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味や習慣のかくのごとき普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとするうえでのこのような熱心ーこの国以外のどこにこのようなものが存在するというのか」。「生きていることをあらゆる者にとってかぎり快い者たらしめようとする社会的合意、社会全体にゆきわたる暗黙の合意は、心に悲嘆を抱えているのをけっして見せまいとする習慣、とりわけ自分悲しみによって人を悲しませることをすまないとする習慣をも含意している」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.181〜183

 

おわり。

本日のつれづれ no.476 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第4章-親和と礼節-③〜

2017.07.18  【484日連続投稿】

 

  通商条約締結の任を帯びて1866年来日したイタリアの海軍中佐ヴィオットリオ・アルミニヨンも、「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国はほかにはない」と感じた一人だが、彼が「日本人の暮らしでは、貧困が暗く悲惨な形であらわになることはあまりない。人々は親切で、進んで人を助けるから、飢えに苦しむのは、どんな階級にも属さず、名も知れず、世間の同情にも値しないような人間だけである」と記しているのは留意に値する。つまり彼は、江戸時代の庶民の生活を満ち足りたものにしているのは、ある共同体に所属することによってもたされる相互扶助であると言っているのだ。その相互扶助は慣行化され制度化されている面もあったが、より実質的には、開放的な生活形態がもたらす近隣との強い親和にこそその基礎があったのではなかろうか。

 開放的で親和的な社会はまた、安全で平和な社会でもあった。われわれは江戸時代において、ふつうの町屋は夜、戸締りをしていなかったことをホームズの記述から知る。しかしこの戸締りをしないというのは、地方の小都市では昭和の戦前期まで一般的だったらしい。ましてや農村で戸締りをする家はなかった。アーサー・クロウは明治十四年、中山道での見聞をこう書いている。「ほとんどの村にはひと気がない。住民は男も女も子供も泥深い田圃に出払っているからだ。住民が鍵もかけず、何ら防犯策も講じずに、一日中家を空けて心配しないのは、彼らの正直さを如実に語っている」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.158.159

 

おわり。

本日のつれづれ no.475 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第4章 -親和と礼節-② 〜

2017.07.17  【483日連続投稿】

 

 解放されているのは家屋だけではなかった。人びとの心もまた解放されていたのである。客は見知らぬものであっても歓迎された。ユドルフ・リンダウは横浜近郊の村、金沢の宿屋に一泊したとき、入江の向い側の二階家にあかあかと灯がともり、三味線や琴で賑わっているのに気づいた。何か祝い事をやっているのだろうと想像した彼は、様子を見たく思ってその家に訪ねた。「この家の人々は私の思いがけぬ訪問に初めは大いに驚いた様子であったし、不安に感じていたとさえ思った。だが、この家で奏でられる音楽をもっと近くから聞くために入江の向うからやって来たのだと説明すると、彼らは微笑を漏らし始め、ようこそ来られたと挨拶した」。二階には四組の夫婦と二人の子ども、それに四人の芸者がいた。リンダウは、歓迎され酒食をもてなされ、一時間以上この「日本人の楽しい集い」に同席した。彼らは異邦人にびくびくする様子もなく、素朴に好奇心をあらわして、リンダウの箸使いの不器用さを楽しんだ。そして帰途はわざわざリンダウを宿屋まで送り届けたのである。これは文久ニ(1862)年の出来ごとであった。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.158

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.474 〜今宵はビール飲み比べ①〜

2017.07.16  【482日連続投稿】

 

今宵は、寺子屋塾にて未来デザインのワークショップの後に、ビール飲み比べをしました。

 

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本日のラインナップ

・インドの青鬼(ヤッローブルーイング)

・The MOLT'S(サントリー)

キリンクラシックラガー(キリン)

・Heineken(ハイネケン)

よなよなエール(ヤッローブルーイング)

・深み味わうエビス(サッポロビール)

・エビスマイスター(サッポロビール)

・青い空と海のビール(ヘリオス)

バドワイザー(アンバサダー・ブッシュ)

 

お気に入りは、、、インドの青鬼

クセになる濃い味でした。

 

おわり。

本日のつれづれ no.473 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第4章 -親和と礼節-①〜

2017.07.15  【481日連続投稿】

 

私が大学三年生の時インドに行ったときに多数の物乞を見かけました。物乞というのは、社会的に経済的・社会的にドロップアウトした人々なんだろうなと思っていましたが、江戸時代の物乞は、私がインドで見た物乞とは異なる物乞であったようです。

 

 日本に物乞がいるのは当然のことであり、何もおどろくべきことではないはずなのに、それが問題になるのはやはり、日本を天国視する言説がひろく流布していたからだろう。それに英人の場合、オリファントやオズボーンの記述の誤りを正さねばという意識が強かった。フォーチュンは言う。「ケンペルの告げるところでは、彼の時代には『帝国のあらゆる地方の道路、ことに東海道には無数の物乞が群がっていた』。エルギン卿使節団のあらゆる団員たちは、私の記憶が正しければ、川崎に訪れたさいに物乞を見なかったというので、このことの真実性を疑ったようだ。しかし、この場合、物乞はおそらく当局によって道路から排除されていたのだ。真実に従って私は、ケンペルの時代と同様今日でも、物乞は日本に大勢いて、しかもしつこいことを述べざるをえない。私が東海道を馬で通ったとき、『道傍に坐って物を乞うている』者が大勢いた。不具合やびっこや盲人たちで、私が通ると地にひれ伏して施しを乞うた」。

 オールコックも物乞にはこだわったひとりである。彼によれば、芝増上寺の近くの空き地には、「「いつも少数のやかましい物乞が陣どって」いた。「神奈川までの街道やその他のところにもたくさんいる」物乞は明らかに職業的で、「体の故障や不幸なことをできるだけあらわに示して、人に同情してもらおとする」この連中は、できものだらけのいやらしい手足を人目にさらしているか、あるいは普通道ばたの敷物の上に両手両膝をつき、髪は伸び放題で地面からほんのすこしだけ顔をもたげている」。彼は幸せな伊豆旅の帰途、藤沢あたりで「明らかに物乞と思われる道で死んでいる男のそばを通りすぎた」。「だれかが日本には物乞はいないといったり書いたりしてきたにもかかわらず」、「いかにまれとはいえ、貧困は存在していて、人が公道上で死ぬのである」。

 だがリンダウの見るところはいささか異なる。川崎大師でハンセン氏病の物乞が寄って来たことに触れて彼は言う。「一般的に言って日本には貧民はほとんどいない。物質的生活にはほとんど金がかからないので、物乞すらまさに悩むべき立場にないのである・・・路上や大通りで物乞に出会うことはめったにない。ほとんどいつも寺院の周りにたむろしているのが見られる」。つまり、物乞は聖域に住みつく存在であったのだ。1871年、英学校教師として熊本入りしたジェーンズは、橋を渡るごとに、そこにたむろしている物乞の叫び声を聞いた。いうまでもなく、橋は辻と同様、一種の宗教的聖域である。リンダウは「彼らはいわば不純なるものと見なされている特別の階級に属しているのだ」と言っている。

 つまり非人・物乞は文化的に徴しづけられた存在であり、寺院や街道や橋という特定の領域に囲いこまれていたのであって、都市や村落を常徘徊する存在ではなかった。だとすると先に紹介したようにブラックが、日本の一番気持ちよい特徴は物乞のいないことだと書いている理由もほぼ推測がつくというものだ。彼はその理由を、警察が物乞をみなつかまえて施設に収容し、保護するからだと言っている。これが非人制度のことを指すのかどうかは検討を要するだろうけれど、とにかく徳川期の物乞は、欧米人観察者が故国で知っていた工業化社会における物乞とは、異なる社会文化的文脈に属していた。それが社会てき分解過程にあった中国の物乞とも異なる存在であったことは、オールコックが「とはいえ、かれらは、隣国の中国におけるように無数にいるとか、餓死線上にあるのをよく見かけるというような、状態にはまだまだほど遠い」と言っていることでも明らかだ。彼によれば、日本の物乞はその態度からして「われわれは物乞として生きてゆかねばならぬ。だからといってあわれっぽくなる必要はない」とでも言っているようだった。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p149〜151

 

おわり。

本日のつれづれ no.472 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第3章-簡素とゆたかさ-④〜

2017.07.14  【480日連続投稿】

 

 彼(モース)は1877年、日光を訪ねた帰りに通った栃木県の寒村についてこう書いている。「人びとは最下層に属し、粗野な顔をして、子供はおそろしく不潔で、家屋は貧弱であったが、然し彼らの顔には、我国の大都市の貧民窟で見受けるような、野獣性も悪性も、また憔悴そた絶望の表情も見えなかった」。ある一人の女など、食事中のモース一行の横に座りこみ「我々が何か口に入れるごとに、歯をむき出しにしてニタリニタリと笑ったり、大声を立てて笑ったりした」。つまり彼女はたしかに野卑ではあったが、あっけらかんと陽気だったのである。

 彼は『日本の住まい』で、この知見をさらに一般化して繰り返す。「都市にあっては、富裕階級の居住する区域は、わがアメリカにおけるほどには明確なる一線を画していない。・・・ほとんどの都市において普通に見られることは、もっとも貧困な階層の居住する区域に近接して富裕階級の邸宅が建っている、という事実である。東京では、極端に粗末な小屋が櫛比して立ち並んだ町通りや横町があり、そこにはもっとも貧困な階層に属するひとびとが住んでいる。・・・しかしながら、このような貧民区域であっても、キリスト教圏のほとんどすべての大都市に見られる同類の貧民区域の、あの言いようのない不潔さと惨めさと比較するならば、まだしも清浄なほうである。これは確かなことだが、日本の金持ちは、貧困階級を遠方に追いはらってしまうために、自分の邸宅の周辺にある土地を残らず買収しようなどは、ふつうは思わないのである。貧困階級が近くに居住したところで、いっこうに苦にならないのである。実際に、日本の貧困層というのは、アメリカの貧困層が有するあの救いようのない野卑な風俗習慣を持たない」。「「あるタイプの家屋がそこの住人の貧困および無気力に封じこめられた生活状態を象徴し、また、あるタイプの家屋うがそこの住人の向上意欲および豊かさ溢れる生活状態を象徴している、とする識別方法」は、日本の家屋にはあてはまらない。日本にも立派な家屋敷はあるが、それは何百軒に一軒で、そのほかは雨露を凌ぐだけという家々が立ち並んでいる。しかし「そのような小屋まがいの家に居住している人々は根っから貧乏らしいのだが、活気もあって結構楽しく暮らしているみたいである」。つまり、「少なくとも日本においては、貧困と人家の密集地域が、つねに野卑と不潔と犯罪とを誘発するとは限らないのである。

 モースは、日本における貧しさが、当時に欧米における貧困といちじるしく様相を異にしていることに、深く印象づけられたのだった。日本には「貧乏人は存在するが、貧困なるものには存在しない」というチェンバレンの言明もモースとおなじことを述べている。つまり、日本では貧は惨めな非人間形態をとらない、あるいは、日本では貧は人間らしい満ちたりた生活と両立と彼は言っているのだ。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.126.127

 

おわり。

本日のつれづれ no.471 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第3章 -簡素とゆたかさ-③〜

2017.07.13  【479日連続投稿】

 

ものに溢れている現代に、ものがあれば幸せってわけじゃないよと言っているかのよう。
ものに囲まれた生活をしていた当時(幕末〜明治初期)の欧米人が、日本人の暮らしを見て思うことは、現代の日本人が当時の日本人の生活を見て思うことなのではないかと思いました。

 

 日本人の家には家具らしきものがほとんどないというのは、あらゆる欧米人が上陸後真先に気づいた特徴である。たとえば、上陸後三日目に横浜の日本人町を見物したボーヴォワルは書く。「家具といえば、彼らはほとんど何も持たない。一隅に小さなかまど、夜具を入れる引き戸つきの戸棚、小さな棚の上には飯や魚を盛る漆塗りの小皿が皆きちんと並べられている。これが小さな家の家財道具で、彼らはこれで充分に、公明正大に暮らしているのだ。ガラス張りの家に住むがごとく、何の隠し事のない家に住むかぎり、何ひとつ欲しがらなかったあのローマ人のようにー隣人に身を隠すものなど何もないのだ」。

 オールコックには、この家具らしきものなしですむ生活というのは、ある意味で羨ましい限りに思われた。「かりにヨーロッパ人同士の夫婦が、ソファや椅子、ならびにそれに付き物のテーブルなどのない家を借りて、清潔な畳の上に横たわることに耐えられるとすれば、年収四百ポンドで結婚生活が営めるかどうかという論争などたちどころに解決して、誰しもが結婚できる見通しをえるだろうことは確実だ。日本においては、若い夫婦が家具屋の請求書に悩まされるようなことはありえない」。むろんこの口調には皮肉がある。彼は日本では、畳を敷いた家と、互いに持ちよる蒲団や衣裳箱と、それに鍋と半ダースの椀やお皿と、大きなたらいがあれば、みごとな世帯ができあがると言う。「牧歌的な単純な生活とは、このような生活のことを言うのであろう」と彼は書く。しかし実は彼が言いたいのは、「われわれが安楽に暮らすために必要不可欠だと考えているもの」が、日本人の生活にはまったく欠如しているということなのだ。ハリスに至っては「日本人の部屋には、われわれが家具と呼ぶようなものは一切ない」とまで書いている。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.120.121

 

おわり。

本日のつれづれ no.470 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第3章 -簡素とゆたかさ-②〜

2017.07.12  【478日連続投稿】

 

 江戸時代は、幕府が各藩に重い税をかけていたイメージがあります。小学生で習う参勤交代も「藩の財源を削るため」と習った気がします。そのような中での、人々の暮らしは天領(幕府管轄の土地)と藩領とでは金銭面での大きな違いがあったそうです。しかし、その中でも藩領の人々は幸福に暮らしていたという部分を抜粋しました。

 

 鉱山技師として幕府から招かれ、1862年から翌年にかけて北海道の鉱床調査を行なったハンペリーは、第二回踏査旅行の際幕領から津軽藩領へ入って、住民の状態の違いに愕然とせざるをえなかった。「わたしは津軽藩領地の住民たちに比べ、幕府直轄地の住民たちの境遇がはるかに豊かであることに衝撃を受けた。われわれが通りかかっている地方では、収入源に対し、不相応な重税が課せられているとのことで、村々は後輩の様相が窺われ、住民たちには浪費の気配があった。両者の違いは、地理上の境界線のように画然と引かれていた。原因は自然ではありえない。なぜなら、双方にとって唯一の収入源である海は、両者に差別なく恵みをあたえているはずだから」。

 パンペリーは根本的理由を「大君制」に求める。つまり、参勤交代を初めとする幕府の諸候に対する窮乏化政策が、このような違いを生んだのだと考える。その当否は、いまはあげつらうまい。また、収奪をゆるやかにして領民の幸福を実質的に保障した幕府が慢性の財政難に陥り、領民の収奪を強めて富強化した西南諸藩によって打倒された歴史の皮肉についても、いまは問うまい。私たちはただ、このような幕領と大名領の違いを踏まえながら、パンペリーが「日本の幕府は専横的封建主義の最たるものと呼ぶことができる。しかし同時に、かつて他のどんな国民も日本人ほど、封建的専横的な政府の下で幸福に生活し繁栄したところはないだろう」という、まさにオールコック的な概括を下していることに注目しておこう。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』 p.107.108

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.469 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第3章 -簡素とゆたかさ- ①〜

2017.07.11  【477日連続投稿】

 

 日本が地上の楽園などであるはずがなく、にもかかわらず人びとに幸福と満足の感情があらわれていたとすれば、その根拠はどこに求められるのだどうか。当時の欧米人の記述のうちで私たちが最も驚かされるのは、民衆の生活のゆたかさについての証言である。そのゆたかさとはまさに最も基本的な衣食住に関するゆたかさであって、幕藩体制下の民衆生活について、悲惨きわまりないイメージを長年叩きこまれて来た私たちは、両者間の存するあまりの落差にしばしば茫然たらざるをえない。

 1856年8月日本に着任したばかりのハリスは、下田近郊の柿崎を訪れ次のような印象を持った。

 「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている」。むろんハリスはこの村がゆたかだとは言っているのではない。それは貧しい、にもかかわらず不潔ではないと言っているだけだ。

〜中略〜

 彼は下田の地に有名な『日本誌』の著者ケンペルが記述しているような花園が見当たらないことに気づいていた。そしてその理由を、「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かではなく、ただ生活するだけで精一杯で、装飾的なものに目をむける余裕がないからだ」と考えていた。ところがこの記述のあとに、彼は瞠目に値する数行をつけ加えずにおれなかったのである。「それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいでけは食べ、着物にも困っていない、それは家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちが良い。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」。これは1856年11月の記述であるが、翌57年6月、下田の南西方面に足を踏み込んだときにも、これはこう書いている。「私はこれまで、容貌に窮乏をあらわしている人間を1人も見ていない。子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えているし、男女ともすこぶる肉づきがよい、彼らが十分に食べていないと想像することはいささかもできない」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.100〜102

 

おわり。

本日のつれづれ no.468 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第2章 -陽気な人びと- ④〜

2017.07.10  【476日連続投稿】

 

 オールコックは封建的日本の忌憚ない批判者であって、日本があたかも楽園であるかのようなイメージが普及していることに常に苦々しい思いを抱いていた。「長い間流布されてきたユートピア的な日本観は、日本についてよく知るにつれて破壊される」べきものだというのが彼の信念だった。彼によれば、日本は遠く離れて見ればこそ楽園で、実際そこに住んでみれば。それを「不魔殿」として書きたくなるのも「怪しむに当たらない」ような国だった。「私としてはその両極端に陥ることはでるだけ避けたい」と断っているものの。幕府官僚の「欺瞞」と排外主義的な浪人の脅威に日頃悩まされていた彼が、内心どちらの評価に加担したのかったか想像にかたくない。ところが、その彼が、これは伊豆地方を訪れたときのことだが。村々のゆたかさと美しさに感動するあまり、「エデンの園」なる形容をうっかり用いてしまったのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』 p.90.91

 

おわり。