名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.483 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第6章 -労働と身体-④

2017.07.26  【492日連続投稿】

 

 ブスケによると当時、大人が一人大都会で暮らすのに月に二円七十五銭(十四フラン)、農村なら年に二◯円(百フラン)あればよかったという。だが私たちがこの一節におどろくのは、ブスケの言い分が、いわゆる発展途上国の近代化の困難について嘆く、今日の先進国のテクノクラートの言い分にそっくりだからだ。彼は言う。「社会的観点からみれば、彼らは何ら不幸ではない。彼はおだやかで、戸外で、日向で、ぶらぶらと暮らしている。彼の境遇は、マンチェスターの工場でどうにか生活の糧を得たり、またはロンドンのみすぼらしい蝋燭の下で無為に過している、貧しく過労のため疲れきった労働者よりは百倍も望ましい」。しかしそれでは「進歩せず大して生産的でもな」く、日本の工業は「ヨーロッパとの競争に勝てない」のだ。

 彼は日本は結局、工業化・近代化に失敗すると見ていた。彼の見通しは誤っていた。だが、それはいまの問題ではない。問題は日本の民衆の労働習慣ないし勤労のエートスが、彼によって、かくも工業化・近代化の不適合とみなされていたという事実だ。六◯年代から導入された近代化論の立場では、徳川期には石門心学などを通じて、民衆のうちに勤勉のエートスが確立され、それが明治期における近代化の成功の基盤となったとされている。また第三章で紹介した速水融の見方からすれば、徳川期は農民が「勤労の意味を知った」時代であった。私はこれからの見解の妥当性を一面において認めつつも、それが掬い落とす重要な側面があることを強調しておきたい。日本の民衆は確かに勤勉であったに相違ないが、そのことは、彼らが、アンベールのように働きたいときに働き休みたいときに休み、オールコックやブラックのいうように時間の価値を知らず、モースのいうように労働のうちに嬉戯することを、一向に妨げなかったのである。近代化を評価の基準とすれば、そのような彼らの働きかたは、怠惰、無気力、無規律と映りもしよう。しかしブスケのような近代的法律家の眼に、進歩へのインセンティブを欠いたダルな自足と映った労働の様態こそ、イリイチのいう民衆はやはり、このような労働の原質を奪いとられて、近代的労働の担い手として、業火のなかで鍛え直されねばならなかったのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.244.245

 

おわり。

本日のつれづれ no.482 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第6章-労働と身体-③〜

2017.07.25  【491日連続投稿】

 

モースは、明治十年以上にはまだそのまま残存していた徳川期日本人の労働の特質を目撃したのである。むろん、何もせずに歌っている時間を省いて、体力の許すかぎり連続的に労働すれば、仕事の効率は計算上では数倍向上するに間違いない。しかしそれはたんなる労役である。ここで例にあげられている地搗きや材木の巻き揚げや重量物の運搬といった集団労役において、動作の長い合間に唄がうたわれるのは、むろん作業のリズムをつくり出す意味もあろうが、より本質的には、何のよろこびもない労役に転化しかねないものを、集団的な嬉戯を含みうる労働として労働する者の側に確保するためであった。つまり、唄とともに在る、近代的な観念からすれば非能率極まりないこの労働形態は、労働を賃金とひきかえに計算化された時間単位の労役たらしめることを拒み、それを精神的肉体的な生命の自己活動たらしめるために習慣化されたのだった。イヴァン・イリイチふうにいえば、労働はまだ”ワーク”にはなっていなかった。

 彼らはむろん日当を支払われていた。だがそれが近代的な意味での賃金でないのは、労働が彼らの主体的な生命活動という側面をまだ保ち続けており、全面的に貨幣化され商品化された苦役にはなっていなかったからである。苦役というのは過重な労働という意味ではない。計器を監視すればいいだけの、安楽かつ高賃金の現代的労働であっても、それが自己目的としての生命活動ではなく、貨幣を稼ぐためのコストとしての活動であるかぎり、労役であり苦役なのである。徳川期において普遍的だったこのような非能率な集団労働を、使用する側の商人なり領主なりは、もっと効率的な形態に「改善」したいとは思わなかったのだろうか。仮にそう思ったとしてもそれは不可能だった。なぜなら、それはひとつの文明がうちたてた慣行であって、彼らとてそれを無視したり侵犯したりすることは許されなかったからである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』 p.240.241

おわり。

インタビューゲーム日記 〜第9回インタビューゲーム会を終えて〜

2017.07.24  【490日連続投稿】

 

昨日、私が住んでいるシェアハウス「サムハプ」にてインタビューゲーム会を行いました。

 

《インタビューゲームとは??》

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インタビューゲームについて - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

今回は、7人参加して頂きました。インタビューゲームは基本2人ペアで行うため、私が入ってペアが4組できる状況でやりました。

 

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以下、参加者の感想です。

・相手を介して自分を見つめる。

・いつも考えておくこと(答えが見つかってる)に関しては即答できる。詰まっちゃう、考えちゃう、言葉にしずらいことこそ大事な気づき。

・引き出す「聞く力」と受けとめる「聞く力」

・相手に興味を持つきっかけ。

・相手に考えてもらう問いの大切さ

・今回のインタビューゲームを終えて、自分の過去のこと、未来のこと考える時間を創ることは大切だと感じました。社会人となって大学の時のことを考えることがあまりなかったのですが、質問されて改めて振り返ることが出来て充実した時間を過ごせました。ありがとうございました。これからも問い続けていきます。

・インタビューゲームでペアの話を聞くのも、自分の話を聞いてもらうのも、大事ですが、最後の感想や考えたことの共有が特におもしろかった。関心があることに対してしか問えない。他人を介して問うこと、インタビューすることで他人に興味を持つこと、多くの学びをありがとうございました。日々、なぜだろうを問うてみようと思いました。

・初めての人とやるのって良いなぁ...と感じました。反応がとても新鮮で参考になる。回数を重ねて変に慣れてくると、小手先に頼りがちなる。そうした自分に気づけました。問うことにみんな関心持ってるよね〜。

・たぶん5回目か6回目のIG(インタビューゲーム)。これまでで一番力を抜いてできた感がありました。インタビューさせてもらったぬまりんもそうだし、他の6名のみなさんの話を聴いているうちに、自分が、いい意味で希薄になって、相手の言葉が入ってくる感想があった。これは心地よいことだった。人の価値観を生い立ちもまじえて、こんなにきけるチャンスはそうそうないのではと思います。自分にない考えが感じ方に触れて、よいものを見せてもらった、というほんのりとうれしくなった第9回インタビューゲーム会でした。

・今回は第2回目のIG(インタビューゲーム)でした。同じIGでも、人も場所も環境も違うため、第1回とは違いました。インタビューゲームってなんだろう疑問が強くなりました。自分だけでなく相手とのやりとりを通して進めるもので、1人では気づかない問いがいただけて、発見がありました。自分は自分の中でやりたい想いがあったとしても、上手く人に伝えられないことが分かり、日々練習しようと思いました。コミュニケーションの何に困っているのか、もう一度考えたいです。もう1つ「自分は生きてるだけでいい」と考えている人とペアになり、そういう考え方を自分はできていないなと思いました。

・IG(インタビューゲーム)を通して、普段では気づけなかった自分に気づくことができた。「聞くこと」と「聴くこと」。インタビューはどちらかと言うと「聴くこと」だと思いました。相手に興味関心を持つことで問いが生まれてきて、その人のstoryを知れておもしろいと思いました。自分のことを聞いて、客観的に他の人が自己紹介してくれることがとても新鮮で楽しかったです。

 

個人的にも、大きな収穫があり最近はインタビューゲーム会を開催しておりませんでしたが、2ヶ月に1度のペースで今後はやっていこうかと思います。

 

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次回は、9月23日(土)14時〜18時です。

また後日案内を流します。

 

おわり。

本日のつれづれ no.481 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第6章 -労働と身体-②〜

2017.07.23  【489日連続投稿】

 

昨日の続きです。

昨日の記事はこちら

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本日のつれづれ no.480 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第6章 -労働と身体-①〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

 むろん彼は、そのような幼い日におぼえたスイス職人の姿を、いま見る日本人庶民の姿に重ねたのである。「質素であると同時に安易な生活の魅力」とは実にこのようなことを意味した。オールコックが「東洋では時間はけっして高価なものではない」と言い、「まったく日本人は、一般に生活とか労働をたいへんのんきに考えているものらしく、なにか珍しいものを見るためには、たちどころに大群衆が集まってくる」と書いているのは、まさにこの事実に関わる。簡素な生活とは、ゆとりと自主性のある生活ということなのだった。彼が「いそがしそうであるが適度に働く」日本の庶民を、「非常に満ち足りた気さくな人たち」と感じたのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.236.237

 

おわり。

本日のつれづれ no.480 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第6章 -労働と身体-①〜

2017.07.22  【488日連続投稿】

 

 スイスの遣日使節団としてアンベールが日本に着いたのは1863年4月、紆余曲折を経て修好通商条約をやっと結べたのが翌64年2月、その十ヶ月間の見聞のなかで、彼もやはり、この国が「幾世紀もの間、質素であると同時に安易な生活の魅力うぃ満喫してきた」ことに感銘を受けずにはいられなかった。その感銘は彼を回想に誘った。「私は幼年時代の終わりごろに、若干の大商人だけが、莫大な富を持っているくせにさらに金儲けに夢中になっているのを除けば、概して人々は生活のできる範囲で働き、生活を楽しむためにのみ生きていたのを見ている。労働しれ自体が、純粋で激しい情熱をかき立てる楽しみとなっていた。そこで、職人は自分のつくるものに情熱を傾けた。彼らには、その仕事にどのくらいの日数を要したかは問題ではない。彼らがその作品に商品価値を与えたときではなくーそのようなことはほとんど気にもとめていないーかなり満足できる程度に完成したときに、やっとその仕事から解放されるもである。疲れがはなはだしくなると仕事場を出て、住家の周りか、どこか楽しい所へ友人と出かけて行って、勝手気儘に休息をとるのであった」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.236

 

おわり。

本日のつれづれ no.479 〜渡辺京二 『逝きし世の面影』第5章-雑多と充溢-② 〜

2817.07.21  【487日連続投稿】

 

 バードの記述でおどろかされるのは、それぞれの店が特定の商品にいちじるしく特化していることだ。羽織の紐だけ、硯箱だけ売って生計が成り立つというのは、なんということだろう。もちろん、店の規模はそれだけ小さくなる。ということは一定の商品取引量の養える人口が、その分大きいということを意味する。つまりここでは生態学的に、非常に微細かつ多様な棲み分けが成立しているわけだ。細民のつつましく生きうる空間がここにあった。それだけではない。特定の一品種のみ商うというのは、その商品に対する特殊な愛着と精通をはぐくむ。商品はいわば人格化する。商店主の人格は筆となり箸となり扇となって、社会の総交通のなかに、満足と責任をともなう一定の地位を占める。それが職分というものであった。しかも彼らの多くは同時に熟達した職人でもあった。すなわち桶屋は自分が作った桶を売ったのである。商店は仕事場でもあった。町の両側の店が間口をすべて開け放ち、「傘づくり、提灯づくり、団扇に絵を描く者、印形屋、その他あらゆる手芸が、明々と照る太陽の光の中で行われ」るのを見るのは、「怪奇な夢の様に思われ」るとモースはいう。すなわち通りは、社会的生産あるいは創造の展示場だった。そしてアーノルドのいうように、横町には横町の、きわめて雑多な店々の生態があった。庶民は住宅地域という生態学的な単純相に住んだのではない。彼らの暮らしは雑多な小売舗が混り合う複雑な相のなかでいとなまれた。人間のいとなみは多種多様な職分に分割され、その職分の個性は手仕事と商品という目に見える形で街頭に展示された。つまり人間の全社会的活動はひとつの回り橙籠となって、街ゆく者の眼に映ったのである。街は多彩、雑多、充溢そのものであった。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.214.215

 

おわり。 

本日のつれづれ no.478 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第5章 -雑多と充溢- ①〜

2017.07.20  【486日連続投稿】

 

200ページ程読み進めて、初めて障害がある方(本書では「按摩さん」として記載)が江戸時代にどのように生きていたのかということが記されていた。

 

 在りし日のこの国に文明について考えるとき、われわれは、それがいかに雑多で細分化された生き場所ないしかくれ家を提供する文明であったかということを、つねに念頭に置かなければならない。生態学のニッチという概念を採用するなら、それは棲み分けるニッチの多様豊富という点で際立った文明であった。羅字屋は羅字の掃除とり替えという、特殊に限定された専有された職分によって生きていくことができた。障害者は施設に収容されたり、専門家のケアの対象とならずに自力で生きてゆくことができた。アーノルドは言う。「日本の街路でもっともふつうに見かける人物のひとつは按摩さんだ、昼間は彼がゆっくりとーと言うのは彼が完全に目が見えないのだー群衆の中を通りすぎてゆくのを見かける。手にした竹の杖を頼りとし、またそれで人びとび道を明けるように警告する。・・・夜は見かけるというよりも、彼の通るのが聞こえる。たずさえている小さな葦の笛で千鳥の鳴き声にいくらか似ているメランコリックな音を吹き鳴らす。・・・学理に従ったマッサージを行う者として、彼の職業は日本の目に見えぬ男女の大きな収入源になっている。そういうことがなければ、彼らは家族のお荷物になっていただろうが、日本ではちゃんと家族を養っており、お金を溜めて、本来の職業のほかに金貸しをやっている場合もしばしばだ。目に見えぬ按摩は車馬の交通がはげしいところでは存在しえないだろう。彼の物悲しい笛の音なんて、蹄や車輪の咆哮にかき消されてしまうし、彼自身何百回となく轢かれることになるだろう。だけど東京では、彼が用心すべきものとては人力車のほかにない。そいつは物音はたてないし、子どもとか按摩さんと衝突しないように細心の注意を払ってくれるのだ」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.210.211

 

おわり。

本日のつれづれ no.477 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第4章-親和と礼節-④〜

2017.07.19  【485日連続投稿】

 

 「都会や駅や村や田舎道であなたがたの国のふつうの人びとと接してみて、私がどんな微妙なよろこびを感じたことか、とてもうまく言い表せません。どんなところでも、私は、以前知っていたのよりずっと洗練された立ち振る舞いを教えられずにはいなかったのです。また、本当の善意からほとばしり、あらゆる道徳訓を超えているあの心のデリカシーに教えを受けずにはいられませんでした」。東京クラブでこう語ったとき、アーノルドは日本人の礼儀正しさの本質をすでに見抜いていたのだった。彼によるとそれは、この世を住みやすいものにするための社会的合意だったのである。

 「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、『やかましい』人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男でも女でもきらわれる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言を吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、最も下層の車夫でさえ、母親の背中で体をぐらぐらさせていた赤ん坊の頃から古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つける事ができないのである」。「この国以外世界のどこに、気持よく過すためのこんな共同謀議、人生のつらいことどもを環境の許すかぎり、受け入れやすく品の良いものたらしめようとするこんな広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるこんなにもみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動のかくのごとき普遍的な抑制、毎日の生活のこんな絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然へのかくも生き生きとした愛、、美しい工芸品へのこのような心からのよろこび、楽しいことを楽しむ上でのかくのごとき率直さ、子どもへのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味や習慣のかくのごとき普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとするうえでのこのような熱心ーこの国以外のどこにこのようなものが存在するというのか」。「生きていることをあらゆる者にとってかぎり快い者たらしめようとする社会的合意、社会全体にゆきわたる暗黙の合意は、心に悲嘆を抱えているのをけっして見せまいとする習慣、とりわけ自分悲しみによって人を悲しませることをすまないとする習慣をも含意している」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.181〜183

 

おわり。

本日のつれづれ no.476 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第4章-親和と礼節-③〜

2017.07.18  【484日連続投稿】

 

  通商条約締結の任を帯びて1866年来日したイタリアの海軍中佐ヴィオットリオ・アルミニヨンも、「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国はほかにはない」と感じた一人だが、彼が「日本人の暮らしでは、貧困が暗く悲惨な形であらわになることはあまりない。人々は親切で、進んで人を助けるから、飢えに苦しむのは、どんな階級にも属さず、名も知れず、世間の同情にも値しないような人間だけである」と記しているのは留意に値する。つまり彼は、江戸時代の庶民の生活を満ち足りたものにしているのは、ある共同体に所属することによってもたされる相互扶助であると言っているのだ。その相互扶助は慣行化され制度化されている面もあったが、より実質的には、開放的な生活形態がもたらす近隣との強い親和にこそその基礎があったのではなかろうか。

 開放的で親和的な社会はまた、安全で平和な社会でもあった。われわれは江戸時代において、ふつうの町屋は夜、戸締りをしていなかったことをホームズの記述から知る。しかしこの戸締りをしないというのは、地方の小都市では昭和の戦前期まで一般的だったらしい。ましてや農村で戸締りをする家はなかった。アーサー・クロウは明治十四年、中山道での見聞をこう書いている。「ほとんどの村にはひと気がない。住民は男も女も子供も泥深い田圃に出払っているからだ。住民が鍵もかけず、何ら防犯策も講じずに、一日中家を空けて心配しないのは、彼らの正直さを如実に語っている」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.158.159

 

おわり。

本日のつれづれ no.475 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第4章 -親和と礼節-② 〜

2017.07.17  【483日連続投稿】

 

 解放されているのは家屋だけではなかった。人びとの心もまた解放されていたのである。客は見知らぬものであっても歓迎された。ユドルフ・リンダウは横浜近郊の村、金沢の宿屋に一泊したとき、入江の向い側の二階家にあかあかと灯がともり、三味線や琴で賑わっているのに気づいた。何か祝い事をやっているのだろうと想像した彼は、様子を見たく思ってその家に訪ねた。「この家の人々は私の思いがけぬ訪問に初めは大いに驚いた様子であったし、不安に感じていたとさえ思った。だが、この家で奏でられる音楽をもっと近くから聞くために入江の向うからやって来たのだと説明すると、彼らは微笑を漏らし始め、ようこそ来られたと挨拶した」。二階には四組の夫婦と二人の子ども、それに四人の芸者がいた。リンダウは、歓迎され酒食をもてなされ、一時間以上この「日本人の楽しい集い」に同席した。彼らは異邦人にびくびくする様子もなく、素朴に好奇心をあらわして、リンダウの箸使いの不器用さを楽しんだ。そして帰途はわざわざリンダウを宿屋まで送り届けたのである。これは文久ニ(1862)年の出来ごとであった。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.158

 

おわり。