名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.525 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第11章-風景とコスモス-④〜

2017.09.07  【535日連続投稿】

 

 観察者たちの眼には、しかしたんに日本の自然に美しさや、自然と融合した江戸の魅力だけが映ったのではなかった。その美しさもさることながら、彼らは、当時の日本人の自然と親和する暮らしぶりに驚きと讃嘆を禁じえなかったのである。「日本人はなんと自然を熱愛しているのだろう。何と自然の美を利用することをよく知っているのだろう。安楽で静かで幸福な生活、大それた欲望を持たず、競争することもせず、穏やかな感覚と慎ましかな物質的満足に満ちた生活を何と上手に組み立てることを知っているのだろう」という感嘆はギメだけのものではなかった。

 彼らのある者は日本の田園の名物である茶屋に、自然と親和の好見本を見出した。「日本人は狂信的な自然崇拝者である。ごく普通の労働者でさえ、お茶を満喫しながら同時に美しい景色をも堪能する。したがって茶店の位置も、目を楽しませるという目的のために特別の配慮をして選んである」「私は日本人以上に自然の美しさについて敏感な国民を知らない。田舎ではちょっと眺めの美しいところがあればどこでも、または、美しい木が一本あって気持ちのよい木陰のかくれ家が旅人を休息に誘うかに見えるところがあればそんなところにも、あるいは、草原を横切ってほとんど消えたような小径の途中にさえも、茶屋が一軒ある。」

 ジェフソン=エルマーストは「日本人で、茶屋に寄らずに通りすぎるような心の持ち主を見たおぼえがない」と言う。「金がある奴はお茶か酒、たいていは後者を一杯やる。金のないのは腰掛けに坐り、他人が一杯やっているのをじっと見つめてご満悦なのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』

 

おわり。

本日のつれづれ no.524 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第11章-風景とコスモス-③〜

2017.09.06  【534日連続投稿】

 

 しかし、江戸というこの特異な都市への頌として最後に引くに値するのは、やはりオールコックのそれだろう。「ヨーロッパには、これほど多くのまったく独特のすばらしい容貌を見せる首都はない。また、概して首都やその周辺の地方に、これに匹敵するほどの美しさーしかもそれはあらゆる方向に、数リーグにおよんでいるーを誇りうる首都はない」。「この首都には、ヨーロッパのいかなる首都も自慢できないようなすぐれた点がある。それは、ここが乗馬をするのに、ひじょうに魅力的な土地だということである。都心から出発するとしても、どの方向に進んでも、木のおい茂った丘があり、常緑の植物や大きな木で緑どられてにこやかな谷間や木陰の小道がある。しかも市内でさえも、特に官庁街の城壁沿いの道路や、そこから田舎の方向に向かって走っている多くの道路や並木道には、ひろびろとした緑の斜面とか、寺の庭園とか、樹木のよく茂った公園とかがあって、目を楽しませてくれる。このように、市内でも楽しむことのできるような都市はほかにない」。江戸は郊外も美しい。太刀打ちできるのはイングランドの生垣の列の美しさくらいのものだ。「東洋的な太陽がほとんど一年中、晴れた空から万物の上に光の洪水をそそぎかけて、アーチ型をなしている木々から、たえず上下に変化する模様窓格子の絵のような濃い影をつくりだしては、われわれを驚喜させる」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.444~445

 

おわり。

本日のつれづれ no.523 〜授業でハッピー・サンキュー・ナイスやってみました。〜

2017.09.05  【533日連続投稿】

 

普段は仕事のことは書かないのですが、今日は残しておきたいことがあったので仕事のことを書こうと思います。

 

私が勤めている特別支援学校は2学期が始まって本日で3日目を迎えます。

今日は私が担当する日常生活の指導、通称「日生」の授業が2学期で初めてありました。

 

その授業の中で、朝の会も行います。その朝の会の時に2学期から「ハッピー・サンキュー・ナイス」というものをやり始めました。

 

ハッピー・サンキュー・ナイスのやり方をざっくり説明すると、みんなで一つの輪になり、嬉しかったこと、感謝したいことをみんなに共有するというものです。特に言うことがなければ、「パス」と言うだけでもいいです。誰か発表した後には、聞いてた人が「ナイス」と返して次の人にいきます。「パス」と言っても「ナイス」と言います。

 

これにどんな意図があるかというと一言で言えば、「温かい雰囲気づくり」です。(以下のHPから引用しました)

 

詳しくはこちらに書かれています。

               ↓↓↓↓↓↓

ハッピー・サンキュー・ナイス

 

個人的には、上記のHPでも書いてあるように、「日常の中の淡々とした中に目を向ける機会」を作りたいという想いもありました。

 

ただ、狙いを定めるより「まずはやってみよう」という精神で、本日ハッピー・サンキュー・ナイスのやり方説明して、まずは職員がハッピーやサンキューを言い、生徒は「パス」「ナイス」を言う練習を行いました。

ちなみに、10名の生徒に対し3人の職員がいます。

 

個人的には、他2人の職員も乗り気で、生徒は気持ちが良い「パス」と「ナイス」を言っていたと感じました。なかなか言葉を口で発することが難しい生徒もいるのですが、何かしらのリアクションで応えており、私の中では温かい雰囲気になってると思いました。

 

良かったなぁと思って周りを見渡していると、私の左隣りの生徒がポロポロ涙をこぼしていました。

とりあえず、授業を終えて話を聞いてみました。

 

「どーした??」

 

「グッドが嬉しかった」

 

「あっ、さっきのナイスのこと?」

 

「はい」

 

その子にとっては、みんなからのナイスがそんなに嬉しかったんだなぁと思って、温かい雰囲気以上に、私の心が温かくなりました。

 

とりあえず、ハッピー・サンキュー・ナイス継続してやっていきます。

 

おわり。

本日のつれづれ no.522 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第11章-風景とコスモス-②〜

2017.09.04  【532日連続投稿】

 

 江戸が当時世界で最大の人口を擁する巨大都市であることは、来日した外国人たちにもよく知られていた。しかし彼らが実見した江戸は、彼らの都市についての概念からあまりにかけ離れた「都市」であった。それはヨーロッパの都市と似ていないのはもとより、彼らの知るアジアの都市にも似ていなかった。つまり江戸は、彼らの基準からすればあまりに自然に浸透されていて、都市であると同時に田園であるような不思議な存在だった。ひと口でいえば、それは巨大な村だったのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.439

 

おわり。

本日のつれづれ no.521 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第11章-風景とコスモス-①〜

2017.09.03  【531日連続投稿】

 

 欧米人たちに日本を楽園と感じさせた要因のひとつが、その恵まれた自然の美しさだったことはいうまでもない。彼らは口を揃えてその美しさを讃美せずにはおれなかった。

 彼らの多くはまず長崎に寄港したが、その美しさはすぐに彼らの間で語り草になった。プロシャの輸送艦エルベの艦長としてこの港に入ったとき、ヴェルナーは「すでに港の美しさについて多くのことを聞いていた」。しかし「期待は現実によっってまったく凌駕された」。リオ・デ・ジャネイロリスボンコンスタンチノープルは世界の三大美港とされているが、「長崎の港口はこれら三港のすべてにまさっている」というのが彼の実感だった。ポンペは一八五七年初めて長崎湾の風景を見たときのことを、「乗組員一同は眼前に展開する景観に、こんなにも美しい自然があるものかと見とれてうっとりしたほどであった」と記している。彼はオランダ海軍の教育隊員としてこの地で任務につかねばならないのだったが、「本当にここで二、三年生活することになっても悔いるところはない」と感じた。リンダウは「私はヨーロッパ人で、長崎の町の素晴らしい位置とその全景の魅力的な美しさに心打たれることなく長崎に上陸したものを知らない」と言っている。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.428

 

おわり。

本日のつれづれ no.520 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第10章 -子どもの楽園-⑥〜

2017.09.02  【530日連続投稿】

 

 ルースが同国人よりも、日本人といっしょにいたがった理由はあきらかだ。日本人の子どもに注ぐ強い愛情は、彼女にとっても初めて知る蜜の味だったのである。彼女の同国人は、そういう手放しの愛情は子どもをスポイルするものだと考えていた。バードはこう書き加えている。「日本人は子どもに真の情愛を持っている。だが、ヨーロッパの子どもが彼らとあまり一緒にいすぎるのはよろしくない。彼らは子どもの倫理観をだめにするし、嘘をつくことを教える」。

 日本人はルースに、いったいどんな同等的悪習とどんなう嘘を教えたというのか。エヴァの子守り婆さんは。まさか彼女に喫煙を仕込んだのではあるまいが、少なくともそれを助長した形跡はある。日本人の大人は子どもを自分たちの仲間に加え、自分たちに許される程度の冗談や嘘や喫煙や飲酒等のたのしみのおこぼれを、子どもに振舞うことをけっして罪悪とは考えなていなかった。すなわち当時の日本人には、大人の不純な世界から隔離すべき”純真な子ども”という観念は、まだ知られていなかったのだ。むろんそういう観念は西洋近代の産物である。バードは偏見の少ないすぐれた観察者であるけれども、彼女の使用する「道徳的堕落」とか「嘘」という用語には、西洋近代において成立する神経症オブセッションが色濃くまつわっている。ちなみに、ルースの父親ファイソンは1874年に来日し、新潟で7年間伝道に従事した英国人宣教師である。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.417

 

おわり。

本日のつれづれ no.519 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第10章-子どもの楽園-⑥〜

2017.09.01  【529日連続投稿】

 

 「日本ほど子供の喜ぶ物を売るおもちゃ屋や縁日の多い国はない」とグリフィスは言う。だが、彼があげる大道芸やのぞき眼鏡や講釈やしんこ細工や見世物は、子どもだけでなく大人も楽しんだのである。それを見る大人たちはたいてい口をあけていると、オールコックが書いている。スエンソンによれば「日本のおもちゃ屋は品数が豊富で、ニュールンベルクのおもちゃ屋にもひけをとらない。みな単純なおもちゃだが、どれもこれも巧みな発明が仕掛けてあって、大人でさえも何時間も楽しむことができる」。ヒューブナーも言う。「玩具を売っている店には感嘆した。たかが子供を楽しませるのに、どうしてこんなに知恵や創意工夫、美的感覚、知識を費やすのだろう、子供にはこういう小さな傑作を評価する能力もないのに、と思ったほどだ。聞いてみると答えはごく簡単だった。この国では、暇なときはみんな子供のように遊んで楽しむのだという。私は祖父、父、息子の三世代が凧を揚げるのに夢中になっているのを見た」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p409

 

おわり。

本日のつれづれ no.518 〜渡辺京二『逝きし世のお面影』第10章-子どもの楽園-⑤〜

2017.08.31  【528日連続投稿】

 

 日本の親は子どもを放任しているのではなかった。子どもは小さいときから礼儀作法を仕込まれていたし、アンベールも証言しているように、親に最大の関心は子どもの教育だった。あまやかしや放任のようにみえたのは、これもアンベールの言うとおり、親が子どもの「玩具にも遊戯にも祭礼干渉しない」からだった。バードはいつも菓子を用意していて子どもたちに与えたが「彼らは、まず父か母の許しを得てからではないと、受け取るものは一人もいな」かった。許しを得るとにっこりと頭を下げ、他の子どもにも分けてやる。「堅苦しすぎるし、少しませている」とバードは感じた。しかし一方、「子どもたちが遊びの際に自分たちだけでやるように教えられているそのやりかた」に彼女は感心した。「家庭教師の一部は。いろいろなゲームの規則をならうことである。規則は絶対であり、疑問が生じた場合は、言い争ってゲームを中断するのではなく、年長の子供の裁定で解決する。彼らは自分たちだけで遊び、たえず大人を煩わせるようなことはしない」。つまり日本の子どもは自分たちだけの独立した世界をもち、大人はそれに干渉しなかったのである。だからこそモースは、日本の子どもが「他のいずれの国の子供達より多くの自由を持」っていると感じたのだ。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.396~397

 

おわり。

本日のつれづれ no.517 〜2017.08.27 ファシリテーション講座での質問への回答〜

2017.08.30  【527日連続投稿】

 

 昨日の記事に書きました通り、8月27日(日)多治見市市民活動支援センター主催の「気持ちが伝わるファシリテーション講座」第1回『「聞くこと」はコミュニケーションの基本』で講師を務めました。

 

講座の最後に質疑応答の時間を少しだけ設けた時に2つの質問を頂きました。

その時の回答が、今までのやってきたことが少しは繋がって自分のものになっているような気がしたので、残しておこうと思います。

 

質問その1

「話し手に興味関心を持つにはどうしたらいいですか?」

 

〈回答〉

まず確認させて頂きたいのですが、話し手に興味関心を持ちたいと思っていらっしゃるけど、どうしたらいいのか分からないという意図での質問でお間違えないでしょうか?

(質問者「はい、そうです。」)

まず、押さえておきたいのが人それぞれ何を持って話し手に興味関心を持っている言えるのかというのは異なると思われます。ただ、私が思うに「相手が話したことに対して相手に問いを投げる。質問をする。」ということは興味関心を持つことに繋がると思っています。興味関心を持っていないと、問いを投げたり質問したりすることなんてできないでしょう。だから、話し手に質問する前提で聞くことは結果的に相手に興味関心を持つということになるのだと思います。

聞くことができることは、相手に興味関心を持っていること。

興味関心がなければ、相手に質問はできない。

そういうことなのではないかと私は思っています。

 

質問その2

「グループでの話し合いをしている時に沈黙があると、怖いし気まずいです。よい解決法や何分の沈黙までなら場が壊れないなどの統計がありましたら、教えて欲しいです。」

 

〈回答〉

 先ほどのグループでの振り返りで「沈黙」についての話し合われている時に聞き耳を立てて聞いていました。まず「沈黙」についてですが私たちは「沈黙は気まずい。何か話していない時間がないと相手がない考えてるか分からなくて怖い。」といった思い込みがあるのではないかと思っています。グループの話し合いで「沈黙もコミュニケーション」という意見がありましたが、私も同じような考え方をしています。沈黙の言葉が私たちの土台にあるからこそ、口から出る言葉があるのだと思っています。

 統計については申し訳ありませんが、私には分かりません。ただ、統計を知っていることよりもグループでの「沈黙の時間」をどう捉えるかという考え方を共有したり、沈黙の時間が気まずいなら「気まずくない?」と発言できるような関係性を構築しておけば、何ら問題はないように思います。関係性ということを交えてもう少し話すと、ファシリテーションには限界があって、関係性を超えることはできないと思っています。ですから、ファシリテーションの手法よいうよりも関係性づくりが何より大切なのだと思います。今日のような打ち解けた雰囲気で話せたらいいのではないと思います。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.526 〜初めての外部講師経験を振り返る〜

2017.08.29  【526日連続投稿】

 

8月27日(日)に多治見市の市民活動支援センター「ぽると多治見」の「気持ちが伝わるファシリテーション講座」の第1回『「聞くこと」はコミュニケーションの基本』で講師を務めさせて頂きました。

有難いことに寺子屋塾のスタッフとしてお話を頂けました。

 

今まで自主催のインタビューゲーム会や知り合いの教員と企画した中学高校生対象にインタビューゲームを用いたワークショップは経験したことがありました。ですから外部で企画されたものに講師として立つのは初めての経験でした。

 

今回の講座は、ファシリテーション講座ということなのに、ファシリテーションについて詳しく学んでいない私ですが、メインのワークがインタビューゲームということで私でも伝えられることがあると思い、引き受けました。

 

ぽると多治見のスタッフの方々を含め、15名の方にご参加頂きました。

簡単な講座の流れそしては、以下の通りです。

概要説明(ファシリテーションと「聞くこと」がどうつながっているのかなど)

               ↓

インタビューゲーム実施

               ↓

自己紹介シートの共有

               ↓

個人で今日の気づきをブレーンストーミング

               ↓

振り返り・気づきのグループワーク

(ゴール:グループで重要だと思われる付箋を5枚選ぶ)

 

終了時間がギリギリになってしまった関係で、参加者の方が感想を書いて頂く時間が取れなかったため、実際どう感じられたのか知ることができなかったのが残念です。

しかし、インタビューゲーム中やグループワーク中の雰囲気や表情を見ていると、楽しそうな雰囲気でやられていたのが印象的でした。

グループワークの時は、個人で話し合いのゴールを決めていましたが、私の伝え方がイマイチでゴールまで到達しなかったグループがありましたが、今回は何より「聞くこと」を意識し対話をすることができていれば十分なんだと思いました。

ついつい講師や先生というのは、準備してきた学んで欲しいことを学んで欲しい気持ちで口を出したりしたくなるものですが、その人が何を学び取るかはこちらが操作することは決してできないんだと思えば、参加者に委ねられるものなんだなとも感じました。

 

最後の質疑応答の時間に2つ質問がありました。

「相手に関心を持つにはどうすればいいですか?」

「沈黙が怖いのですが、解決方法はありますか?」

インタビューゲームを続けてきたからこその、私なりの考えでお伝えできたと思います。

(この問いへの回答は、また記事にしようと思います。)

 

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いざ当日行ってみると、柔軟に対応しないといけない状況などありましたが、自分自身は楽しい時間を過ごせたと思っています。これからもお話を頂ければ、活動していきたいです。

 

という話の繋がりで、

11月19日(日)に教師塾にて同じような内容の講座を行います。

詳しくは下記のリンクにてご確認下さい。ご興味ある方はご参加お待ちしています。

第5回 教師塾 ~聞くとは何か?人生が変わる対話への扉~

 

終わり。