名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.691 〜諫める言葉はその人への関係性を示すもの〜

2018.02.28  【706日連続投稿】

 

 親に愛され親を愛しいている幸福な者は、目の上にもよく愛されるのではないだろうか。そういう人こそ、自分の親が間違ったことをしていると思えば、「それはおかしいよ」と言えるのではないだろうか。そういう人こそ、主君が間違ったことをしていれば、勇気をもって諫言することができるのではないだろうか。親に諫言するのに怯えを感じる者が、主君に諫言するのに、怯えを感じないでいられるだろうか。

 親に怯えずに、しかし失礼にならず諫言できる人は、多いだろうか、少ないだろうか。そういうことは、本当に好い親子関係が前提でなければできないように思う。そして私は、本当に好い親子関係を取り組んでいる人は、実に少ないと思う。そしてそういう人なら、危険を冒してでも、目上の人に自分の考えをしっかりと、しかし失礼にならないように言えるのではないか、と考える。

 

安富歩『生きるための論語』p.152〜153

 

目上の人に対して諫める意見を言うことのみならず、「こんなこといっていいかな?」「失礼にならないかな?」と思うこと全般に言えることだと思う。それは「その人との関係性」である。良い関係性だから言えるし、言えるからこそ良い関係性だと思います。そもそもどうでもいい人に諫言するなんてことはないです。

その人のことを思うなら、「おかしいことは言う」ことは愛になりうるのかもしれません。

ただ、現実なかなかこれがすぐにできるかどうかは難しいと思います。私自身、難しいです。

だからこそ普段からの関係性が大切なんでしょうね。

 

おわり。

本日のつれづれ no.690 〜目的のための行為?その行為が目的?〜

2018.02.27  【705日連続投稿】

 

現代人は、何事も何か外の目的のためになすべきで、それ自体のためになすべきではないと考えている。〈中略〉大きくいえば、金銭を儲けることは善事で、金銭を費やすことは悪事だとされている。だが金を儲けるのもつかうのも共に一つの取引の両面であると悟ると、こういういい方は間違いである。鍵はいいが、鍵穴は悪いともいえるだろう。

 

バードランド・ラッセル『怠惰への賛歌』 堀秀彦・梅村峻訳

 

しばし、本来の目的を行うために生まれた行為がいつのまにか本来の目的であったように思ってしまうことがあります。時々、立ち止まって見ることは必要だと思われます。 

 反対に、目的のために行う行為が本来の目的であったなんてこともあるんじゃないかと思います。

目的って結構使われる言葉ですけど、気をつけて使いたいです。

 

おわり。

本日のつれづれ no.689 〜言葉が世界をつくっている〜

2018.02.26  【704日連続投稿】

 

人間は、世界そのものを認識して思考しているのではなく、「名」によって世界の「像」を構成し、それによって思考しているからである。名と名との関係性を組み替えたり、あるいは名を与えられた像の運動を構成したりすることで、我々は思考し、行動している。それゆえ、名を歪めてしまうと、我々は自らの世界に生じる事態についての正しい像を構成できなくなってしまう。

ウィトゲンシュタイン

 

安富歩『生きるための論語』p.137〜138

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.689 〜力まないインタビュー〜

2018.02.25  【703日連続投稿】

 

 インタビューゲームでは注意事項で「普段の会話や雑談にしない」というものがあります。意味合いとしては、聞き手と話し手の立場をはっきり決めているので、聞き手が自分のことばかり話し始めないようにするために用意された注意事項です。聞き手は基本的に「質問を発して相手を知る役割」と捉えていただいて構いません。

 しかし、この注意事項を遵守するあまりに、「いいこと聞かなきゃいけない」「相手の話したいことを引き出してやろう」と肩に力が入ってしまうことがよくありますし、私もあります。でも、力んでいる時ほど、なんだか相手と距離があって、本当の相手が見えていなかったりするんです。

 

 では、インタビュー取材そのものは、どうのぞむといいのか。ここでインタビューのコツをお伝えしようと思います。

 とういうかこれ、編集ワークショップなんかやると、必ず質問されるんですね。

 「どうしたら緊張せずにインタビューできますか?」とか「インタビューの心構えを教えてください」とか。

 でね、僕からすると、もうこの質問がある時点で、どこかインタビューを勘違いしてしまっているなと思うんです。

 

 というのも、インタビューとはいえ、あくまでも、普段に会話と違いはないからです。「はいっ、いまからインタビューさせていただきますね」なんてはじまったら、取材相手がぐっと身構えちゃうのは当然だし、何よりも自分が緊張しません?

 小さな男の子がキャッチボールをするときに、まだそんなに腕力もないのにもかかわらず、自分から離れたところまで行って、ボールを投げようとするみたく、自ら会話というキャッチボールが成立しない距離まで離れちゃってるんです。

 インタビューはあくまでも会話なんだから、単純なキャッチボールだと思えば、何も特別なことはありません。

 

藤本智士『魔法をかける編集』p.155〜156

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.688 〜まとめることの罠〜

2018.02.24  【704日連続投稿】

 

2月上旬にインタビューゲームの個人セッションを脇田麻衣子さんと行った際に、話題に上がった一冊の本がありました。

それがこちら『魔法をかける編集』(著:藤本智士)です。

 

魔法をかける編集 (しごとのわ)

 

インタビューゲームで言えば、相手を20分インタビューしたのちにメモを頼りにしながら、相手の自己紹介文をB6のカードの片面に書いていきます。これぞ、まさしく編集力が問われていると私は思っています。20分聞いたことをB6のカードに全て書くことはできません。その限られた表現スペースをいかに活用するかは、書く人に委ねられています。インタビューをやり始めた頃は、聞いた話を聞いた順番で書いていくことしかできませんでした。それは、この本に書いてあるような「編集」とは呼べたものではなかったんだと思います。最近は、全部書こうとしても無理だから情報をいかに抽出するかということを試みていますが、その判断や表現はなかなか一朝一夕に上達するものではないです。

 

この本の作者である藤本智士さんは「のんびり」という秋田で発行されているフリーマガジンの編集長を務められています。

その藤本さんがインタビューをした後の記事にまとめるときに気をつけていることが、インタビューゲームをやり始めたことの私とは180度異なり、今後の「編集」をする際のヒントになると感じました。

 

 そういった現場の温度をそのまま伝えるために、気をつけないといけないのが、「まとめることの罠」です。

 もちろん世界をそのまままるごと伝えられるはずなんてないわけで、だからこそ編集の出番なんですが、それをイコールまとめること、だと勘違いしてはいけません。

 うまくまとまった!という満足感に満たされちゃうと、そこにはたしかにあったはずの現場の熱量が失われていたり、もともと伝えようとしていたことが伝わっていなかったりしていることに、気づかなくなるんです。

 僕の経験で言うと、「うまくまとまった!」と思えば、いい部分八割消えてます。

 とはいえ、尺の制約はつきものだから、そこに向き合うのなら、思い切って抜き出すのが一番です。

 たとえば百あったものを、全体から薄く取り出して、こちらの言葉で十にまとめてしまうくらいなら、ありのままを十抜き出したほうが、読者は残りの九十を豊かに想像してくれます。そしてそれは、まとまったものよりも、かなり真実に近いように思います。

 

藤本智士『魔法をかける編集』p.144〜145

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.687 〜人に頼れるということ〜

2018.02.23  【703日連続投稿】

 

人に頼ることは、自立していないことにはならないし、必要なことではないかと思います。

特別支援学校で2年働いていますが、生徒によく伝えることの中の一つが「必要なことを依頼する、お願いする」ということです。生徒に言っている割に、自分に置き換えると頼ればいいのに、自分で背負ってしまったりとかしそうになる時があります。頼るべき人がいるのであれば、ちゃんと頼ることがむしろ自立には不可欠なことなのではないかと思います。一人でなんでもできることは理想だと思えるかもしれませんが、実際には絵に描いた餅ではないでしょうか。人に頼れる人が、本当に頼れるひとなのでしょう。

 

 普通の考えでは、君子は、誰にも頼らず自立しているので、頼りになる、ということになりかねない。しかし、その考えは間違っている。君子が頼りになるのは、本当に頼りになる人に頼っているから、である。

 というのも、人間は所詮、一人では生きて行けないのであって、誰かに頼らざるを得ない。それゆえ、自立するためには、本当に頼りになる人を見出して、頼ることが大切である。間違って、頼りにならない人を頼ってしまうと、逆に頼られて重荷が増えて、ますます自立ができなくなる。また、たとえ頼りになる人を見出しても、頼ることに躊躇していれば、意味がない。それゆえ、君子たるもの、頼るべき人を見出し、困ったときには頼らねばならない、というのがこの句の教えである。

安富歩『生きるための論語』p.115〜116

 

おわり。

本日のつれづれ no.686 〜目的と手段〜

2018.02.22  【702日連続投稿】

 

目的がなくら手段を選ぶことは、選び方が好みであったり、理にかなっていなかったりする。

 

目的があっても、いつのまにか手段が目的になっていることがある。

目的と手段を取り違えるというやつだ。

 

それに気づくためには、そもそも目的を持っていることを認識きておくことが大切ではなかろうか。

 

目的に囚われすぎたら、それはまた不自由さが生じるが、目的があるからこそ手段が選べる。

 

何をやったらいいんだろう?

 

と思った時には、目的に目を向けると糸口が掴めるかもしれない。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.685 〜成長に欠かせないもの〜

2018.02.21  【701日連続投稿】

 

「 成長欠かせないものは何ですか?」

 

と問われたとしたら、私は「他者」と答えると思います。

 

自分だけでは、自分の想像の範囲内の自分にしかなれないが、

 

他人がいるからこそ、自分が思ってもみたい自分になれるんだと思うのです。

 

おわり。

 

 

 

 

 

本日のつれづれ no.684 〜鉛筆の長さがパフォーマンスに影響することより〜

2018.02.20  【700日連続投稿】

 

最近、らくだプリントをやっていて思うことが鉛筆の長さによってパフォーマンスが変わってくるんじゃないかということです。

 

長くても短くても使いづらい、使いづらさが気になり、集中できない。

使いづらいという意識がなくても、無意識に余計な力が入ってしまって、それがパフォーマンスに影響されてるんじゃないかって思います。

 

最近は、中2-4のプリントに苦戦していました。検算をやらなければなないプリントで、ミスはなくなるが時間が足りなくて不合格が4回ありました。

ずっと短い鉛筆を使っていたとき手が痺れてきたことから、今日はもう手に収まりがいい長さに変えたら、昨日よりも1分30秒も短くなりました。

 

鉛筆のみならず、準備や環境設定は大事なんだろうなぁと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.683 〜対話とは、聞き手と話し手がが行うコミュニケーション行為〜

2018.02.19  【699日連続投稿】

 

インタビューゲームでは、ペアをつくり聞き手と話し手に分かれてインタビューを行います。そして、「聞き手」が重要だということをルールからも感じられます。

なぜ、「聞き手が重要なのか」?

著者(中原淳 長岡健) の『ダイアローグ 対話する組織』に、丁寧に書かれていました。

 

 対話の定義② 聞き手と話し手で担われる

定義の②では、聞き手と話し手の最低二人の主体が必要ということを述べています。ギリシア語で対話は、「ディアロゴス」といいます。「ロゴス」とは言葉のことで、「ディア」とは「分かちもつ」ということです。対話とは「言葉を分かちもつ」ことであり、これが可能になるためには、最低二人以上の主体が必要になります。そもそも聞き手がいない状態は単なる独り言であり、その人の中にある考えが表出しない限り、コミュニケーションにはなり得ません。

 とはいえ、聞き手がいるからといって、必ずしもコミュニケーションが成立するというわけでもありません。話し手が聞き手に対して一方的に話して「ああ、あなたに話を聞いてもらえてすっきりしたわ」となっているような状況は、やはり一方通行の「独り言=モノローグ」であって「対話」とはいえません。

 言葉を口に出すことは簡単です。誰かをつかまえて、言葉を投げかけることも簡単です。しかし、「相手に言葉を投げかけること」は、けっして、「相手と自分とのあいだに対話が成立していること」を意味しません。言葉を投げかけていても、受け手には届いていない。届いているつもりでも、届いていない。こういうことは容易に予想がつくことです。それでは、対話を実現するために、私たちは何に留意するべきなのでしょうか。

 それは、「聞くこと」だと思います。この重要性を強調しすぎてもしすぎることはないので、あえて「聴く」という字を使いましょう。この対話の本質は「話すこと」ではなく、「聴くこと」からはじまるのです。

 なぜなら、誰かが「話し手」として口火を切り、話を継続するためには、誰かが「聞き手」という役割を引き受ける必要があるからです。加えて、「聞き手」として役割を引き受けていることを、話し手に意図的かつ非明示的に「呈示」する必要があるからです。会話分析などで多くの社会学者がこれまで明らかにしてきたように、「聴くこと」は積極的かつ意図的な行為なのです。

 対して、一般的に「聴くこと」は誰でもできる「受動的な行為」だと考えられています。耳を通して脳内に聴覚情報を受動的にインプットすることが「聴くこと」であるとするのならば、それは誰にでもできることかもしれません。しかし、それは彼が「聞き手」であることを意味しません。「聞き手になる」とは、相手の話にじっくりと耳を傾ける役割を担う「積極的、かつ、意図的な行為」なのです。

 私たちはふだん「聞いている」かもしれません。しかし、本当に「聴いているのか」というと、それは疑わしいのではないでしょうか。直近数日の人々との会話を思い起こしてみてください。あなたは、「聞いて」いましたか?それとも「聴いて」いましたか?

 もちろん、相手の話の腰を折ったりするなどの不作法は、さすがに多くの方々が避けるでしょう。しかし私たちは、人の話を聴くときに、「即時の自分の判断」をどの程度保留し、虚心にその人の話に耳を傾けることができるでしょうか。相手の話を聞いていて、答えを即断・即答したくなかったとしても、そこは判断を保留し、「聞き取ること」をどの程度重視できるでしょうか。こういうと、私たちは「聞いているつもり」でも、実は「聞いていないこと」が多いことに気づかされます。

 いずれにしても、対話においては、話し手と聞き手が、おったん自分の考えや意見を保留にし、お互いが言っていることを「聞き取り」、やりとりを続けることが重要です。

 

中原淳 長岡健 『ダイアローグ 対話する組織』p.91〜94

 

おわり。