名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.973 〜仕事納めました〜

2018.12.28  【1007日連続投稿】

 

今日は仕事納めでした。

4月に転職をして、今日まで本当にあっという間に時間が経ってると感じます。

 

とにかく色んなことを経験させて頂いて、本当に今までの人生の中で一番忙しくしていたと思います。

せっかくの体験を学びにつなげていかなきゃ勿体無いなと思っていて、「鈴木先生」という漫画を思い出しました。

 

鈴木先生は「学び/体験(分数)=学習率」ということを漫画の中で言っていました。

今年体験したことを学びにできるかどうかっていうのは自分次第。

これは来年も学んだことを生かせるかどうかっていう意味で楽しみであります。

 

まだ仕事が続く方もおられると思いますが、一年お疲れ様でした!

 

おわり。

本日のつれづれ no.972 〜自分が無くても、確立してても〜

2018.12.27  【1006日連続投稿】

 

自分があやふやでも他者と上手くはいかず。

自分が確固たるもの過ぎても他者とは上手くはいかず。

何だろうなと思います。

 

むろん、他者に向かって出てゆけるためには、その出発点がなくてはならない。そのためにはわれわれは、自己のもとにいたのではなくてはならず、自己のもとにいるのではくてはならない。

マルティン・ブーバー『我と汝・対話』「対話」より 田口義弘訳 )

 

おわり。

本日のつれづれ no.971 〜『中動態の世界』再び〜

2018.12.26 【1005日連続投稿】

 

最近、新しい本もパラパラとかいつまんで読むだけでなく過去に読んだ本もパラパラと読む機会が増えてきました。

 

今日パラパラと読みたいと思ったのは『中動態の世界』(著:國分功一郎)でした。

強制はないが自発的でもなく、自発的でないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。

それが見えなくなっているのは、強制か受動かという対立で物事を眺めているからである。

そして、能動と中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できるのだ。

 

おわり。

本日のつれづれ no.970 〜自分を助けるという概念〜

2018.12.25  【1004日連続投稿】

 

この半年『技法以前』(著:向谷地生良)という本をかいつまんで読んでいます。

 

この本は北海道浦河にあるべてるの家という場所から始まった当事者研究の中で重要な概念(考え方)と出会ったと思っている。

 

その概念とは、「自分を助けることを助ける」という概念である。

著者の向谷地さんが大切にしていると語る「自助の援助」というものからこの概念を探っていくと、そもそもの始まりは「天は自ら助くる者を助く」という言葉からである。

この言葉の意味は「人に頼らず自分自身で努力する者には、天が助け、幸福をもたらすということ」だ。

 

自分で自分を助ける気がないのに、他人の助けばかりに頼ってしまうことは、言い換えれば「依存」であると思っていた私に衝撃を与えたのは、「孤立」だと聞いたからである。

この言葉を理解するには、自分というものの捉え方が重要で自分という中に色んな自分がいると考えることが必須である。

苦労している自分のことを誰かに頼ることは、一見上手な自分の助け方だと思っていたが、何でも誰かに頼っていては自分の足では歩いていけない。

だから、自分で自分を助けることを助けるように向谷地さんはしてきたのだ。

 

だから、苦労している人にむやみに助けようとしてはその人自身が助ける機会を失いことに繋がってしまう。いつでも、本当に助けを求められたら応じられる距離感で見守っておくことも支援なのだと思います。

 

これは「支援」を「教える」という言葉に置き換えても全く一緒。

自分で学ぶ機会を教えてしまっては、奪ってしまう。

 

そんな教えたいと思っている自分自身もどうやったら助けられるのだろう?学べるのだろう?と苦労の出発点を自分に置き換えてみれば、むやみに手足を出さないことに繋がるのではないかって思っている。

 

おわり。

本日のつれづれ no.969 〜『平家物語』巻第一「祇園精舎」より〜

2018.12.24  【1003日連続投稿】

 

  祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

沙羅掃除の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。

奢れる人も久からず、唯春の夜の夢ごとし。

たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

平家物語』巻第一「祇園精舎」より

 

時の流れには逆らえない。

逆らえないからこそ、できることに目を向けてやるしかねえんだろうな。

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.968 〜久しぶりにサムハプへ〜

2018.12.23  【1002日連続投稿】

 

今日は久しぶりにサムハプへ。

 

久しぶりに一緒に住んでいた人達とワイワイしました。

 

一緒に住んだこともあって、やっぱり友達ではない繋がりを改めて感じました。

 

自分が居てもいい場所があるってやっぱり人にとって必要なことなんだと思いましたとさ。

 

おわり。

本日のつれづれ no.967 〜「できない」が関連して「できない」が生まれる〜

2018.12.22  【1001日連続投稿】

 

ここ最近、ブログは書き続けることはできていても、らくだプリントは続けられていない状況です。

 

その理由は、やはりシンプルなもので、ブログは書き続けられる環境でもらくだプリントはやり続けられる環境を作れていなかったのです。

 

忙しさなどの理由にそのプリントに取り組めていない「できなさ」を見ることを避けていたら、その「できなさ」を生んでいる原因にを見ようとしていないということなんです。

 

プリントができていないと結果的にプリントができていない以外に他にもできないが生まれているんです。

 

僕の場合でいうと、自宅の机の上が片付いていないだとかか、生活リズムが乱れがちだとか、出てきます。さらに見てみると、らくだプリントは「家でやるもの」というような固定概念が自分にあるということが見えてきます。

 

色々の「できない」の中からどれか「できる」に変えていないと、プリントも続いていかないんだろうなって思いました。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.965 〜とりあえず1000日書き続けてみて思うこと〜

2018.12.21  【1000日連続投稿】

 

2016年3月22日より毎日このブログを書き続けて、思うことを今日は書きたいと思います。

 

でも、少し酔っているのでそんなに対して多くを書こうという気にはなれません。

 

1000日続けてみたいという気持ちはありましたが、1000日書き続けることは目的ではなかったので、1000日続いたんだと思います。

このブログを書いても一文たりとも入ってくるわけではない。

 

ただ、毎日書くを決めてやるということは、自分との約束を守らなければならないというよりも、自分を知りたいという気持ちがあったからこそではないかと今では思っている。

 

書きたいことがある日は、書きたい気持ちそのままに書けばいいんですが、やはり書きたくないという日はあります。

むしろ、1000日のうち書きたくない日の方が多かったです。

書きたくないけど、書くと自分の意識にない部分に問いかけているということなんだと思うんです。

なかなか言葉として出てこないことがあるけれど、それも言葉なんだと思います。

言葉にならないけれども、言葉にしようとすることが自分の認識していない自分を見ようとすることなんだと思っています。

 

1000日書けば劇的に自分が変わるわけでもないし、確かな何かを得られるわけでもないけれど、書き続けれいなかったら、間違いなく今の自分ではいないのです。

 

まぁ、これからも書き続けるんだとは思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.964 〜他人本位より自分本位でいいんじゃない〜

2018.12.20  【999日連続投稿】

 

他人のことを考えるより自分のことが先でいい。

 

他人の為で動き続けられる人は、先に自分のことが満たされていること。

 

他人の為で満たされようとする人は、他人から思うったように満たされなければ、満たされない。

 

もしくは、満たされるために他人を扱う。

 

他人を優先する人は、自分の苦労と向き合わずに他人の苦労に向き合うフリして自分の苦労と見ようとしない。

でも、他人の苦労を向き合っていると自分の苦労が自然と向き合わずにわいられなくなる。

 

不思議なもので、だれしも自分のことが大切じゃないと思っている人はいないんですね。

だから、もっと自分のことで苦労していいんだと思います。

自分の苦労と向き合う経験が後々、誰かのためになるんでしょうから。

 

おわり。

本日のつれづれ no.963 〜どう思われたいかを考えたほうがいい〜

02018.12.19  【998日連続投稿】

 

他人にどう思われるか?と考えるより

他人にどう思われたいか?と考える方が伝えたいことが見えてくるんだなぁと、最近仕事で思いました。

 

仕事で最近チラシを作っています。

自分はデザインとか一切できないので、実際に作成するのはプロにお願いしています。

しかし、自分たちがチラシで何を伝えたいかってことがわかってないと、チラシなんてただの紙切れに終わってしまうのです。

 

よく消費者目線に立ってとか、見る人の立場に立ってということを言われますが、今までその言葉を安易に捉えていたように思います。

 

おわり。