名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.497 〜谷川俊太郎×荒木経惟『やさしさは愛じゃない』①〜

2017.08.09  【506日連続投稿】

 

私の行ったことのない場所、

会ったことのない人、

手に持ったことのない物。

 

私の見たことのない絵、

聞いたことのない音楽

感じたことのない気持ち。

 

足りないものがいっぱいあるから、

私はまだ私はなんだ。

私じゃない人にとりかこまれているから、

私はまだ私になれるんだ。

 

谷川俊太郎×荒木経惟『やさしさは愛じゃない』

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.496 〜映画『この世界の片隅に』を観て〜

2017.08.08  【505日連続投稿】

 

先日、8月6日に『この世界の片隅に』という映画を観ました。

 

原作の漫画がシェアハウスにあって読んだことはあるのですが、その日広島のことを考えていると思わず観たくなったのです。

 

主人公の鈴さんは、広島市育ちで突然の縁談で結婚し呉市に住むことになります。日に日に戦争が激化する中、前向きに生きるということはどういうことなのか、戦争中でも幸せがあるということを感じさせてくれるなど、胸を打つシーンがたくさんありました。

 

この世界の片隅に...私がいきているものこの世界の片隅であって、誰もがこの世界の片隅に生きてるんだなぁと感じます。日々の淡々とした営みの中で生きるということは、以前の私にとってはつまらないものというイメージを抱いていましたが、今の私にとっては、そういう生き方こそ生きるということを表してるように思えてきて心惹かれています。

今年、渡辺京二さん×津田女子大学三砂ゼミの『女子学生、渡辺京二に会いにいく』という本を読んで以降、渡辺京二さんの考え方や思想にどっぷり浸かってしまっています。「無名の埋没せよ」と渡辺京二さんは言われます。結婚して家族ができて夫婦仲良く家族も元気に過ごせたらそれはもう素晴らしい人生なんだということもおっしゃっています。

 

この『この世界の片隅に』という映画は、渡辺京二さんが言われる『無名に埋没せよ』を上手く描かれているような気に私はなってしまって、心惹かれたのだと思いました。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.495 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第7章 -自由と身分-④〜

2017.08.07  【504日連続投稿】

 

 チェンバレンもそれとそっくりのことを書いている。「原著者はこの国民と三◯年以上も個人的に交際し、日本人の礼儀は心底から生ずる礼儀であり、単に挨拶をして頭を下げたり微笑したりするものよりは深いものがあって、日本人の真の親切心に根ざすものであることを確信するに至った」と前置きしつつ、それでもこの礼儀正しい国民が西洋の規準に照らせば、礼法に背くことをすると彼は言う。「もっとも基本的で全般的な礼法違反は、召使やその他の下級者が目上の者に対する態度に表れている。・・・・諸君は料理人に羊肉を買いなさいと命ずる。彼はすぐに出かけて、牛肉を買ってくる。彼は牛肉のほうが安価であることを知っており、あなたの出費を少なくしようと考えているのである。事実、不服従が慣習になっている。それはわざと悪意を持ってする不服従ではない。主人がやるよりも自分のほうがもっと良く主人のためにやれるのだという、下級者がの側の根深い信念に基くものである」。なるほどこれなら、殿様が家臣団から祀りあげられたり、ときによって押込められたりもするはずだ。昭和前期の軍部の暴走を主導した佐官級幹部の「下克上」現象も、その淵源するところは深いと言わねばならない。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.282

 

おわり。

本日のつれづれ no.494 〜峠三吉『原爆詩集』 -序-〜

2017.08.06  【503日連続投稿】

 

今日8月6日といえば、私にとっては広島に原子爆弾が投下された日だという認識があります。

 

広島県を離れて6年目ですが、8月6日になるといつも広島のことが気にかかるということは、「自分は広島で生まれ育ったんだ」という証なんじゃないかと思います。

 

1945年8月6日から今日で72年が経ちました。

 

当時からは離れた今を生きている私ですが、なんとなくでもこの1945年8月6日に広島に原爆が落とされたという事実は忘れてはならない気がしています。

 

峠三吉 『原爆詩集』-序-

 

ちちをかえせ  ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもをかえせ

 

わたしをかえせ  わたしにつながる

にんげんをかえせ

 

にんげんの  にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ

 

年々、当時を知る方々が少なくなっていると聞いたこともあります。

少しでも平和を願った当時の方々やその関係される方々への気持ちを繋げていきたいとおもいました。

黙祷。

 

おわり。

本日のつれづれ no.493 〜500日間ブログを書き続けてみて〜

2017.08.05  【502日連続投稿】

 

先日、2016年3月22日起算でブログを用いて毎日書くということを続けて、500日が経ちました。

 

毎日書くということは、当たり前になっている感覚がありますが、はやり毎日何を書こうかと思いを巡らせるので、当たり前になっているからといって簡単にできることになっているわけではないんだと思います。

 

ただ、自分の気持ちをスッと書き言葉にしたり、公開することへの配慮と人の目を気にすることはほとんどなくなってきています。

 

誰かに「伝えたいこと」と「伝わること」は全く別物なんだということが腑に落ちると、大して人の目は気になり随分楽です。

 

2017年4月からは、極力仕事のことは書かずにやってきて、振り返ると仕事以外の面に目を向けることができるなと思っています。

どうしても昨年度の平日は仕事のことで頭がいっぱいになっている状態でしたが、今年度は書くこと通じて、仕事以外に目を向けるので、頭の中でいいバランスを取れているのではないかと思います。

頭の中で余白を作っておくとやはり、急な変更であったり新しく舞い込んでくることに対して、スッと向き合いやすくなる気がしています。

とりあえず、やってみたことがこんな意味があったんだと振り返ると自分なりの意味づけが生まれるんですね。

 

誰かに向かって書こうとするとそれはそれで素敵なことなんだけど、とっても難しいです。

難しいってのは、先程にも書きましたが、伝わるかどうかを意識し過ぎると難しくなるんだと思っています。

 

なんでかというと、言葉一つとっても人によって受け取り方は様々だから、いくら分かりやすく言葉を選んだとしても100%自分の伝えたいことが伝わることはまずありえないからです。

 

だから、伝わらないことを残念がったり悲観したりする必要は全くないんです。

「伝わらないからこそ伝える」という一見矛盾しているように思えることを、自分の中でしっかりと腹に落とすことができたなら、伝わることに重きを置かなくて済むんだと思っています。

 

要は、分かってもらうことに期待しすぎず、自分が伝えたいなら伝えよう。

 

そんなことを500日経った今現在は思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.492 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第7章-自由と身分-④〜

2017.08.04  【501日連続投稿】

 

 これは明治中期になってからのことだが、アリス・ベーコンはこう言っている。「自分たちの主人には丁寧な態度をとるわりには、アメリカとくらべると使用人と雇い主との関係はずっと親密で友好的です。しかも、彼らの立場は従属的でなく、責任を持たされているのはたいへん興味深いことだと思います。彼らの態度や振舞いのなかから奴隷的な要素だけが除かれ、本当の意味での独立心を残しているのは驚くべきことだと思います。私が判断するかぎり、アメリカよりも日本では家の使用人という仕事は、職業のなかで良い地位を占めているように思えます」。召使が言いつけたとおりでなく、主人にとってベストだと自分が考えるとおりにするのに、アリスは「はじめのうちたいそう癪にさわ」った。しかし何度も経験するうちに、召使の方が正しいのだと彼女は悟ったのである。

 彼女は主著”Japanese Girls and Women”においてこの問題をもっとくわしく論じている。「外国人にとって家庭使用人の地位は、日本に到着したのそ日から、初めのうちはたいへん当惑の源となる。使える家族に対する彼らの関係は一種の自由がある。その自由はアメリカでならば無礼で独尊的な振る舞いと見なされるし、多くの場合、命令に対する直接の不服従の形をとるように思われる。・・・・・家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやり方で行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使にとって美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならぬ。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。日本での家政はつましいアメリカの主婦にとってしばしば絶望の種となる。というのは彼女は自分の国では、自分が所帯の仕事のあらゆる細部まで支配するかしらであって、使用人には手を使う機会的労働だけしか与えないという状態に慣れているからだ。彼女はまず、彼女の東洋の使用人に、彼女が故国でし慣れているやり方で、こんな風にするのですよと教えようとする。だが使用人が彼女の教えたとおりにする見こみは百にひとつしかない。ほかの九十九の場合、彼は期待どおりの結果は成し遂げるけれど、そのやりかたはアメリカの主婦が慣れているのとは全く異なっている。・・・・・使用人は自分のすることに責任をもとうとしており、たんに手だけではなく意志と知力によって彼女に仕えようとしているのだと悟ったとき、彼女はやがて、彼女自身と彼女の利害を保護し思慮深く見まもろうとするする彼らに、自分をゆだねようという気になる。・・・・・外国人との接触によって日本人の従者が、われわれが召使の標準的態度とみなす態度、つまり黙って主人に従う態度を身につけている条約港においてさえ、彼らは自分で物事を判断する権利を放棄していないし、もし忠実で正直であるならば、仮にそれが命令への不服従を意味するとしても、雇い主のために最善を計ろうとするのだ」。

 

おわり。

本日のつれづれ no.491 〜らくだプリントを1年やってみて〜

2017.08.03  【500日連続投稿】

 

2017年8月3日でらくだプリントを初めてちょうど1年が経ちました。

 

らくだプリントを説明するのは難しいので、らくだプリントってなんだ?という方はこちらのリンクをご覧いただければと思います。

 

らくだメソッドの教材|どの子にも学力がつく らくだメソッド 

 

そして、過去に書いた私の振り返り記事。

 

本日のつれづれ no.234 〜らくだプリントで初めて不合格になりました◎〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 本日のつれづれ no.249 〜行き過ぎた自分を引き戻すということ〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

本日のつれづれ no.355 〜自分から見る自分は、時に歪んで見ている〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 本日のつれづれ no.426 〜算数プリントのミスが人間関係を見つめるきかっけに〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

一年経ってどうかなぁと振り返ると、「ゆるみ」という言葉がまず浮かんできました。

 

らくだプリントを続けるということは、

学習に対してだけでなく、大袈裟にいうと生きることに対して肩の力を抜くってことが今の私が最も大切に思うことなんだと思います。

また、らくだプリントに限ったことでなく、色んなことに繋がっているのだろうという見解です。

 

私の場合、ブログを毎日書くということも同じような意味合いでもありますが、らくだプリントを毎日する方がわたしにとってハードルが高いです。毎月欠かさず取り組めた月なんてほとんどないでしょう。机があって、鉛筆があって、計測するタイマーがなければ、らくだプリントは取り組めません。(それに対して、ブログはスマホさえあれば書けますから、私にとって続けるということにおいては、らくだプリントよりもハードルが低いです。)

 

気持ちよくできたと思っても間違いが多い日。

どーしてもやりたくない日。

酔っ払って帰ってきてもやってしまう日。

速さを意識し過ぎてミスが多い日。

できなかったプリントが急にできてしまった日。

 

この1年間、らくだプリントを通じて色々な自分に出会ってきました。

らくだプリントを通して、自分を見つめることをしてきました。

評価に縛られない環境だからこそ、見えてくることがたくさんあるものだなぁと思います。

縛られてる自分を緩ませられるのは、自分自身です。

しかし、縛られてること自体に気付かないことがほとんどではないだろうか。

らくだプリントは、そんな縛られてる自分を鏡のように自分に見せてくれる。

やり続けることで、そんな自分を少しずつ緩めるにはどうするかってことを自然と分かってくる。私はそんな気がしています。

 

そんなことをちょうど1年経った2017年08月03日に思いましたとさ。

今は、小学6年生の途中なので、今年中には小学生過程は終えたい気持ちでいます。

これからも淡々とらくだプリントで自分と向き合う日々が続きそうです。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.490 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第7章-自由と身分-③〜

2017.08.02  【499日連続投稿】

 

 専制下における民衆の自由と満足というオールコック以下の所見には、実は先從があった。1820年から29年まで、出島オランダ商館に勤務したフィッセルが、1833年に出版した著作には、すでに次のように述べられていたのである。「日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく反対の現象を経験した。専制主義はこの国では、ただの名目だけであって実際には存在しない」。「自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには行われない。勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している」。日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない・また上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができよう」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.275

 

おわり。

本日のつれづれ no.489 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第7章 -自由と身分-②〜

2017.08.01  【498日連続投稿】

 

 大名行列の前に平伏する庶民を見ればわかるように、世襲貴族と一般大衆のあいだには越えがたいへだたりがある。「だが、ほかならぬこの理由があるのかも知れない」とオールコックは考える。ヨーロッパの封建時代でも、人民が服従したのは、王や貴族の暴力が彼らまで到達するのがまれだったからだ。嵐が高い木を痛めつける場合でも、ずっと下の灌木は無事なことが多い。日本でもそういう事情は同一だろう。「外見的な服従は皮ひとえのものにすぎないのかも知れず、形式的外見には一般民衆の自由があって民主的な制度をより多くもっている多くの国々以上に、日本の町や田舎の労働者は多くの自由をもち、個人的に不法な仕打ちをうけることがなく、この国の主権をにぎる人々によってことごとに干渉する立法を押しつけられることもすくないのかも知れない。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.263

 

おわり。

本日のつれづれ no.488 〜キャンプでの一コマ〜

2017.07.31  【497日連続投稿】

 

7月29.30日に愛知県の知多郡美浜町でキャンプをしました。

 

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場所は、中日小野浦キャンプバンガロー村。

 

 バンガローが立ち並び、私たち以外にも家族ぐるみで来る方々が多くいらっしゃいました。

 

子どもが私たちの周りを水鉄砲しながら駆け回ってたら、

隣の男性グループから罰ゲームで一発芸を私たちに披露してくれたり、、、笑

 

バンガロー「村」なんだなぁと感じました。

 

そんなキャンプ中に、子ども同士のやりとりを見ていて、印象に残っている一コマがありました。

 

水場で洗い物をしていると、男の子が水鉄砲の水を補充しにやってきました。

それにつられるように、その男の子の友達は水鉄砲に水が満タンの状態で水場にやってきました。

 

水を補充してる男の子は、自分が狙われていることに気付いて

「ここは安全な場所だから、攻撃ダメだよ」

と狙ってる子に伝えます。

 

しかし、狙ってる子はお構いなく攻撃。

おまけに水鉄砲を使うのではなく、水鉄砲の水が溜まってるタンクを使った豪快な攻撃でした。

 

結構豪快にやられてたので、「こんなことされたらケンカになってもしょうがないな〜」と思って洗い物をして続きを見守りました。

 

すると、攻撃された男の子は、怒るどころか

「そんなのつまらないでしょ?」と軽く相手を一蹴。

そのまま他の子の元へ帰っていきました。

 

この一コマしから見てないので、子どもたちがどんな関係性があって、どんなルールで遊びをしてたのか全く知りませんが。

 

私は「この一コマを見れてよかったなぁ」という気持ちになりました。

 

大人が知らないところで、子どもは子どもなりに他人と関わっているんだと思い、大人が干渉しすぎる必要はないなと改めて感じる一コマであり、色々教えてもらいました。

 

次回は、9月にキャンプしたいと思っております♪

 

おわり。