名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.344 〜流れに任せて、飲み込まれないように。〜

2017.02.24  【340日連続投稿】

 

誰かに何を言われたとしても、それに従わなければならないといけないことはないと思います。

 

相手が自分のために言ってくれたアドバイスだったんだなって思うくらいでちょうどいいと感じます。

 

いろんな物事が流れで決まることって結構多いと思います。

 

決まる前にあれこれ考えたり、決めても始めるま前に不安になることは、当たり前だと思います。

やったことないことは、たとえやりたいことであったとしても不安がつきまとうと思います。

 

ただ、それはどうな人もそうなんだと思たら気が楽になるし、今までの自分がごそっと変わるかといったらそうでもない気がするから、対して不安になることもないとも思うのです。

 

流れに身を任せながらも、飲み込まれないように生きていきたいと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.343 〜「頑張ること」と「成長」の関係について〜

2017.02.23  【339日連続投稿】

 

頑張っていない子どもなんていないとふと思いました。

 

それぞれの可能な範囲で頑張っていると心底思っています。

 

学校で眠ってしまう生徒は、24時間や1週間など大きな時間枠で捉えると「そりゃ学校で寝てしまうよな」と思うような生活をしていたりしており、その子自身に全て責任があるとは言えない気持ちになります。

 

私の目の前にいる子どもの姿は、一側面でしかないですし、関わる人が変われば子どもも変わるのだと思います。

 

だから、「この子は、私の目の前ではだらしないからダメ」「人を選んでやっている」という考えは範囲を狭くして子どもをみていることになると私は思っています。人を選ぶのも力だと思うようになってきました。

 

そもそも、「相手の行動をだらしない」と捉える自分自身の捉え方を見つめ直す方がいいと思うのです。

目の前のその人を変えたいと思うのは、自分の欲望が大部分を占めると思うからです。相手を支配しようとまではいかなくとも、少なくとも相手を自分が思っているように動かしたいと思っていることに無意識でいることは、私は好きではないです。何か違和感を感じた時は少なくとも「相手」と「自分の捉え方」という二軸で分けて考えた方が、変な思い込みを外せるように思います。

 

 

「頑張らなければ、成長しない」

または、「頑張れば、成長する」

 

そんなことを無意識に思っていた自分がいるような気がします。

 

「頑張るってなんだ?」

「成長するって、何を持って成長というんだ?」

 

子どもたちをみていると、日々過ごしているだけで成長しているように思える。

それは、こちらが求めなくともすでに頑張っているということなのだろうか?

 

成長ということが、できることが増えることだけでなく、幅が広がることや深められたりすることも成長であると思うから、過去のその子どもと今のその子が変化していれば成長なのかもしれない。

そもそも頑張らなくても人は変わってゆくのだから、子ども限らず人は勝手に成長するということになるな。

 

だから、肩の力を抜いて今やれることを淡々とやることで自然と成長は促進されるのだと思いました。 

 

私の中では「頑張ること」と「成長」の因果関係はなさそうです。

 

おわり。

本日のつれづれ no.342 〜分からないことはチャンス〜

2017.02.22  【338日連続投稿】

 

分からないことに出会った時の心得として、まず自分は分かっていないことを分かることが大切なんだと思います。

 

それは、「分からないことを自覚すること」と言えるのではないでしょうか。

 

分からないことを自覚するってことは、自分の思い込みで済ませてしまおうとか適当にそれらしい言葉を選んで並べて分かってるフリをしまおうとしている自分に気づくことでもある。

 

今の自分は、分かってないのに分かってるフリしちゃったなぁと思うことが私はよくあるのです。そのたび、ちょいとばかり心がけざわつくのですが、最近は大分そんな自分との折り合いがついてきています。

 

やってしまったら、後には引けないから何とか分かろうとするのですが、そんな中で分かったことは、分かったことにはほとんどならないと思います。

 

分かることより知ったかぶりをしてしまった自分を諌めるために知ろうとすることは、自分を守ろうとしているだけなのではないかと思えてくるのです。

 

そもそも知ったかぶりも、分かっていない自分がダメだとか、カッコ悪いとか自分で思い込んでいるからなんだろうなと感じます。

 

だから、分かっていないことを自覚することは、分かっていない自分を悲観的にみていないスタンスなんだろうと思います。

 

分かっていないから人に聞こうとするし、本から知ろうとしたり、できるんだろうと思います。

 

分かっていないから、色んなことを知った時の喜びやハッとする感覚があるのだろうと思います。

 

分かった気になるより分からない方が、なんだか楽しそうです。

 

分からないことから、先に進むと思います。分かっていたら、そこから動かなくていいですからね。

 

分からないことを自覚することが、自分の可能性を拓くチャンスになるのだと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.341 〜自由にできる範囲を知る〜

2017.02.21  【337日連続投稿】

 

約11ヶ月働いて気付いたことがあります。

 

それは、自分が自由にできる範囲を知ることが大切だと言うことです。

 

私は、特別支援学校で講師の職に就いています。正規職員でないので、もちろん自分が何か大きな物事を決めることはほとんどなく、指示や指導して頂いたことをしっかりやることの方が圧倒的に多いです。

  

その中で11ヶ月働けば少しは身についてきていることもあり、周りに合わすことを大切にする部分と自分の裁量で自由にできる部分が見えてくるようになってきました。

 

その区切りがはっきりと今日は分かった気がしました。あくまでも、分かった気がしました。

 

生徒が帰るときは、毎日バタバタです。

私は大抵いつもある一人の生徒の着替えを担当しており着替えが済んだ時には、その子のクラスのみんなはもう教室からいないって状況になっていることが多々あります。

 

以前はその状況になると「この子だけ遅くなってしまった。まずいな。急がなきゃいけない。」と言う気持ちになっていました。

 

しかし、一緒に着替えて帰る生徒の迎えは遅いため結局、待ってしまうならこの時間にしっかり着替えることに関して一つでも自分でできるように時間を割きたいです。焦っていると、その生徒が少し時間がかかってもできることを私がやってしまうことが多くあります。

 

今日も同じ局面になりましたが、ここは明らかに自分が自由に決めてやっていいと思えたのです。だから、いつもより丁寧にその生徒と関わることができたと思います。

 

大学生の時は大きな構想や妄想をよくしていましたが、今は 置かれた環境でできることを見つけることを大切にしているのだと感じています。

 

小さなことを大切にせず大きなことをしても、一体何がそこにはあるの?

 

と過去の自分に言ってあげたいです。

 

そして、ここで言う自由は制限があるからこそ存在するものだと思います。やりたいことをやることが自由というより、思い込みや制限を自分の中で外そうとして生まれたもののような感じです。

 

制限や制約は縛られている。

自由は開放的である。

 

こんなイメージを抱きがちであるが、自分の自由の範囲を知ると心は縛られた感じはない。

 

むしろ、開放的であることの束縛ってのもあるんじゃないかな?

 

制限と自由の範囲の輪郭・分かれ目を認識しておくことが大切なのかもしれないなと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.340 〜友人と別れて1年が経ちました〜

2017.02.20  【336日連続投稿】

 

今日で友人とお別れして1年が経ちました。

 

中学高校の6年間同じ学校のサッカー部で苦楽を共にした仲間です。

 

その友人は中学高校時代より大学に入ってからの方が輝いていたと私は今でも思っています。

 

私が大学生の時に学外以外で活動していることにとても興味を示してくれていた存在でもありました。

 

中学高校より大学の時の方がその友人と話していて楽しかった記憶があります。建築家を目指していたその友人には、私だけでなく周りの多くの人が将来家を建てて欲しいなどの期待を寄せていたと思います。

 

1年と2日前の深夜、そろそろ寝ようかと思っていた時に、突然来たその友人との別れの知らせ。

 

翌日、すぐさま駆けつけました。

その道中、自ら命を絶ったかもしれないとの連絡がありました。

その連絡をもらった私は、悲しみと怒りとその他様々な私の心をかき乱す感情が湧き上がって来たのをどう抑えたらいいのか分からずにいました。

 

とっさに取った行動が彼への手紙を書くということでした。

その手紙に書いていたのは、友人への怒りというか嘆きというか、、、

 

「生きてるだけでいいんだよ、バカヤロウ。」

 

と書いた記憶があります。

 

しかし、息を引き取っている友人と対面すると、その友人にとっては「生きてるだけでいい」と私からは言えないほどの、辛さや苦しみを抱えていたのかもしれないと思いました。

 

その友人の最期がどのようにして訪れてしまったのか、誰も知りません。

だから、あくまで私の個人の想いの中で書いています。

どうか読んだ人は鵜呑みにしないで下さい。

 

ただ、友人が亡くなった事実と1年経っても、上手く消化なんか到底できないことは確かなことだと感じています。

 

その友人の分まで生きるとか

その友人と同じような人を出したくないとか

自分の人生を精一杯生きようとか

 

色んな決意じみたことなんて要らないと感じています。

 

ただ、1年に一度でもいいから、その友人を想うということを大切にしたいと強く思いました。

 

今日は私にとって大切な一日なのでした。

 

おわり。

本日のつれづれ no.339 〜この記事はタイトルが思い浮かばない〜

2017.02.19  【335日連続投稿】

 

先週、私にとってなかなか難しい問題が職場の特別支援学校でおきました。

 

2時間目と3時間目の間の休憩時間にそれはおきました。

 

2〜4時間目と続く授業の休憩に入り、30人弱の生徒と約10名の先生はトイレに行くなどの理由で教室から出て行きました。

 

職員は私一人だけ教室に残っており、私一人で15名程の生徒を掌握している状況でした。ふと生徒が一番集まっている所に目を向けると独歩での生徒が車椅子に乗っている全介助が必要な生徒の頭を拳で叩いていたのです。

 

「これはまずい」と思うよりも先にすぐさま駆けつけて、叩いている生徒に「何やってんだ!」と止めにいっていました。

 

周りに多くの生徒が目撃していたので、何が起こったか尋ねると、「叩かれた生徒は何もしていないのにいきなり叩かれた」とのことでした。

 

叩いた生徒に「なんで叩いたの?」と尋ねてみると「ごめんなさい」の一点張りで、叩く行動を起こした背景が全く見えませんでした。

 

3時間目が始まりそうになると、担任の先生が教室にいらっしゃったので、事情を説明しました。

担任の先生が理由を尋ねても「ごめんなさい」の一点張りが続きました。

その後、どの先生が理由を尋ねても「ごめんなさい」しかその生徒から出てきませんでした。

 

3時間目の時間を使って、唯一教員でその瞬間を目撃していた私が別室で指導することになりました。正直理由が分からないのにこちらから指導することって難しいと思いながら、どんなことがあっても暴力を振るうことをして欲しくないこと、やってしまったことはどんなに謝ってもなくならないことなどを話しました。

少し反省した様子でしたが、話したことを分かっていなさそうな生徒の表情を見ると、「私はただ正論をこの子に押し付けたいだけでなんじゃないか」と思えてきました。

最後にもう一度理由を聞くと「じゃれたかった」と話してくれました。

 

その終わったタイミングで生徒指導部の先生が来られ、私からの指導は終わりということで生徒指導部の先生から話して頂きました。

 

その生徒は、知的な遅れがあるため認識力と理解力が低く、私たちの話をどれ程分かってくれたのだろうか、と思いながら授業に戻りました。

 

3時間目の授業が終わると、問題が起きた時に周りにいた生徒からも話をもっと詳しく聞いておいた方がいいなと思っていたので、聞いてみると「叩かれた生徒が叩かれる前に、別の生徒が叩かれた生徒の頭の上に手を拳にして置いていた」と言うのです。

 

それを聞いて、「叩いた生徒はそれを見て、自分もやって見たかったのかな」とも思いました。また、みんなでワイワイ楽しそうに会話している輪の中に入りたかったことも重なり、より手を頭の上に置きたかったのかなと思いました。おそらく、叩いた生徒にとっては、戯れるような気持ちで拳を頭に置く感覚でしかなかったのかもしれないと思いました。

 

実際、私自身もじゃれてる感覚でその生徒から3度首を絞められたことがあるので、手加減をすることが苦手で、不器用なことが今回も出てしまったのかと思いました。

 

それを初めから知っていればもっと話すことが異なっていたなぁと思いました。

 

その後は担任の先生に指導が任されることになり、給食を終わりのギリギリまで食べさせないようにするなど、反省の時間を取っていました。

 

給食を食べることと叩いたことは個人的には別物だろうと思っていましたが、叩かれた生徒はかなり怒っていましたし、何らかの罰を与えなければ場が落ち着かったのだろうと思います。

 

給食後はからは叩いた生徒と関わることなく、その日は帰っていきました。

 

保護者にも連絡を入れるとのことでしたので、叩いた生徒は家でも叱られたかもしれません。

 

翌日以降はその生徒としっかり話せる時間は取れませんでした。

 

翌日には担任の先生と話す時間があったそうで、一応今回の問題は落ち着いたようです。

 

その生徒に対して、先入観を持たず接しようと思いますし、今回のことから生徒も学んでいると信じます。

 

今年度もあと1ヶ月ほどになりました。

もう少しでお別れかもしれないと思うと、自然と一日一日を大切にしようと思います。終わりやお別れが目の前に迫らなくても、日々を大切に過ごすことをできる限りやってきたつもりですが、やはり終わりが迫ってくる感じならではの感覚があります。

 

明日からも大切な一日が楽しみです。

 

おわり。

読物つれづれ no.3 〜自分をいかして生きる〜

2017.02.18  【334日連続投稿】

 

 2017年3冊目の本は、『自分をいかして生きる』(著者:西村佳哲)

 

自分をいかして生きる (ちくま文庫)

 

 2冊目の『自分の仕事をつくる』の続編というか、書ききれなかったことが書かれた本だと著作の西村さんが書かれたので、『自分の仕事をつくる』を読み終えた後にすぐ入手して読み始めました。

 

 1週間足らずで読み終えることができましたが、いざまとめようと思ったとき今作も心に残る言葉や書き残したい言葉にたくさん出会いました。そこで、もう一度読み直して書きたい箇所を3つに絞ることにしました。

以下の3つの箇所を引用させて頂きました。

 

【選択肢が多くあることが豊かさであるとは言い切れない】

 選択肢の多さこそ豊かさである、と語る人さえいる。選べないこと=貧しさだと言わんばかりの単純さには、ちょっとついてゆけない。物資に恵まれず、土地も肥沃でなく、しかし余所にも移らずに、先代から受け継いだ畑を家族と耕しながら、ただ太陽や土と生きていた人々の暮らしに触れた時の豊かさを思い出すからだろう。彼らは、経済的には貧しくても、旅人に温かかった。

 選択可能な現実が他にもある、と知ることは、精神の自由を可能にする。そのための知力や気力はあったほうがいいと思う。が、選べないことが貧しさになってしまうのは、選ぶことを課せられたゲームの中での話だ。そもそも与えられた選択肢の中から選ぶことが、豊かなのかどうか。

 カタログ化した社会で、価値をつくるのではなく、選んだり買ったりして生きること。自分に合わせて選んでいるように見えて、実は自分を与えられた枠組の方に合わせているような事態が頻繁に生じているんじゃないか。

 

【やりながら感じて考える】

 

なにがやりたいのかわからない、といったわからなさを抱えている人がいるんじゃないかと思う。僕自身、今も抱えることはある。ただ、いくら考えてもわからないことがある一方、「わかる」ことについては、考えるまでもなく瞬時にわかる。判断のもとになる経験や実感が足りていることについては。

 だから、まずは自分を丸ごと投入して、働いて、やってみて、その中で感じたり考えてゆけばいいはずだ。上手くできなくていいし、さまになっていなくていいから、今できること、力が出ることをどんどんやっていけばいいのだと思う。

~中略~

  どんな成果も「結果」であって、頭が可能にすることもあるけれど、時間が可能にしてくれることもある。必要な時間を経たないことには姿を表さないものごとがある。

 自分の現状に満足できなくても、今できることを、できる限りやってゆけばいい。ただし力の出し惜しみはしないこと。

 

【働くことは、生きること】

どのような状況でも自分を見失わず、精神の持ち場を離れずに、その働きを成すこと。そして、『自分の仕事をつくる』という前著のタイトルを思い浮かべる僕の内面に、ちょっとした緊張感が生まれる。ただ、仕事を自給自足しようとか、手を抜かない仕事をしようといった話ではなく、「働くことを通じて自分という存在に責任を果たそう」という投げかけが含まれていることに、改めて気付かされる。

 

 選んだこれらの箇所から私の今の気持ちや考えが自分自身で気づくきっかけになるんじゃないかと思いました。

 

 一年前、私は働くについて考えているようなフリをして逃げているような感じでした。いや、考えてはいたけど、行動には移さなかったといった方が近い気がしています。 たった一つだけ「これをやりたい」と思える仕事を見つけましたが、その仕事に就くことは叶いませんでした。流されるように今の仕事に就くことになりました。振り返ると、就職に限らず就学も自ら行きたいとこに行くというよりなりゆきというか、そこしか行く場所がなかったと言えるかもしれません。

 

 その中で、様々な経験を積み重ね、自分が大切にしたいことがわかってきたのではないかと思います。今現在も与えられた場所で感じながら考えながら働き、時には辛いことや悲しいことがありますが、私はとても満たされた気持ちで日々過ごしています。

 

とても自分と重ねることが多く出てきた一冊でした。

 

気になった方は、『自分の仕事をつくる』の記事もどうぞ。

 ↓↓↓

読物つれづれ no.2 〜自分の仕事をつくる〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.338 〜自信ってそんなに必要?〜

2017.02.17  【333日連続投稿】

 

これはできる、できそうだ。

 

この判断には「できる自信があるから」「できそうな自信があるから」という言葉がしばしば付く気がする。

 

自信によって物事をジャッジしていることが私自身もよくある。

 

らくだプリントの話に置き換える。

私は、昨日4-36の約分の計算に取り組んだ。

昨日までは、「2と3と5を使って約分しなさい」とお助けフレーズが書いてあったこともあり、ノーミスで目安時間より2分ほど早く解き終わることができていた。

そのことから、約分に対しそこそこの自信が生まれていたのだろう。

 

しかし、昨日は1問ミスであったが目安時間を1分ほど超えてしまった。

解いている途中「あれ?もっと簡単にできると思っていたのにな」という気持ちから焦りが生まれた。結果、気持ちが乗り切れない時間が多く、不合格になってしまったのだろうと思う。

 

自信が自分を支える時は、今までやったことがあるようなことをやる時なのかもしれない。

 

やったことないことをやる時には、かえって自信は枷になることが大いにありうるのではないだろうか。

 

変な自信は、目の前の現状と的確に見ようとする姿勢を崩し、現実を歪めて見てしまうことに繋がってしまうと思う。

 

長年積み重ねた経験を自信にしてしまいがちだけれども、それはすぐに慢心にも変わることを心に留めておこう。

 

今までの経験はもちろん大切だけど、目の前のことを枠や先入観なく取り組める人でありたいと思う。

 

今日もよい一日になりそうです。

 

おわり。

本日のつれづれ no.337 〜教えないことの方が難しい〜

2017.02.16  【332日連続投稿】

 

ちょうど1年前の2016年2月16日に書いたことを見返してみました。

 

教えない教育と出会った。

教師を目指していた僕にとっては衝撃的な内容。

熱く子どもに教えることが教師の役目だと思い込んでいた。

全10回の井上淳之典さんによる「教えない教育シリーズ」のうち7回を受講した。

最初は、理論は理解できるけど、本当にできるのか?という疑問があった。


それでも、毎回のようにおこなうインタビューゲームやワークショップを通じて、

自ら気づいたことしか学びにならないという事が腑に落ちてきた。

教えるのではなく、学び手がいかに気づくように関われるか。

それには、そもそも学び手が学びたいと思わなければ意味がない。

そこがまず1番難しいところ。

教師を目指していた頃は、如何に導入で引きつけるか。生徒のやる気を引き出すか。と考えていた。

今はその考えに違和感がある。

どの子にも、「学びたい気持ち」「自ら学んでいく力」がある。

それを無視して、やる気を起こしてやるぞなんて少々上から目線すぎるなと思う。

「教えて伸ばしてやるぞ」という考えは、もっと上から目線でおこがましい。

教えるという行為は、その子の成長の機会を奪う。

そして、相手が求めることで初めて成り立つ行為。


教育者の仕事の醍醐味の1つとして、「子どもの成長に携われること」があると思う。

それは、そんなに子どもを成長させてすごいとか、
子どもから感謝される自分など
何かのgiveによって感じるものではなく、

ただ、相手のこうなりたい、こうしたいにスッと乗れる人が教育者。

支援でも指導でもない。

強制でも放任でもない。

そんな関わり方ができる人が僕にとっての真の教育者。

教えないのは、教える内容がないことではなく、

教えたいことはあるけど、本当に教えるためには教えないことが大切。

その人自身で学んで行けると信頼するところからスタート。


まだまだ僕も序ノ口で、分からないことだらけ。

でも、何も分からないわけではない。

毎日どーでもいいことをコツコツやり続けることからやっていこう。

井上さんをことばこさんをはじめ、色んな方と関わる中で学ぶことができました。
ありがとうございます。そしてこれからも、学び続けていきましょう。

 

現在、私は特別支援学校の常勤講師として教育者という側面があるが、教えないことは教えることより難しいと日々痛感しています。

 

ただ単に、全く関わりを持たず放任することは放任に過ぎない。

こっちが教えないようにして学んで欲しいなって思っていても、相手が同じ土俵に上がっていなければ、それはすれ違いなのだと思います。

時折やってしまうことが、「教えないことを目的化させてしまっている」ことです。教えない教育は、教えないことが目的ではなく、教えるために教えないという手段を取っていることのはずです。

そこの前提が崩れると、すれ違いが起きるのではないかと思います。

 

まだまだ日々、自分の未熟さを痛感しながら子どもたちと関わっています。

 

ついつい教えてしまって後で後悔する時もあります。

そんな自分への自戒を込めて書きました。

 

おわり。

本日のつれづれno.336 〜興味ないことは書けない〜

2017.02.15  【331日連続投稿】

 

書くことを続けていると、今日もまた同じ様な内容だなぁと思うことがある。

 

むしろ、最近は毎日のように思っている。

 

そんな時にハッとした。

 

そもそも自分の意識や認識していることしか思い浮かんでこないし、ましてや書くことに移そうと思うと興味がないことは書けないのではないだろうか。

 

実際、毎日の書き始めを振り返ると「これは書き始めると何か湧いてきそう。また、書くと決めたら湧き出してくるものを書いている」と思う。

 

やはり、これは書けないやこれを書くには注意を払って書かなければならないと思うときもある。

 

すっかり忘れてしまうほど一瞬かもしれないけど、色々と考えた挙句書いているのだと思う。

 

そして、書きたくないことをわざわざ書こうとしないと書きたくないことは書かないだろうと思う。

 

いや、書こうとした時点で本当は書きたいことになっているのかもしれないな。

 

だったら、今まで書いてきたことを見返して、最近こんなことばっかり書いてるんだなぁと自覚しておけば、自然とほかに興味は移る気がする。

 

書いていることが書きたいことになっていくのかもしれないな。

 

それなら、書いたもん勝ち。

 

書くという行為が、自分の枠を気づかせてくれて、少しずつ広げていく手助けになると思いました。

 

おわり。

(2017.01.25)