名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

インタビューゲーム日記 no.35 〜がんばらない〜

2017.04.25  【400日連続投稿】

 

インタビューゲーム35人目のお相手は、井上太貴さん(以下.ボンちゃん)でした。

 

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《インタビューゲームとは??》

インタビューゲームについて - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

ボンちゃんは、私より2歳年上?の中学校の先生をやられています。STEPという教育に繋がる人が集まるイベントで初めてお会いし、3年ほど仲良くさせていただいている方です。今度、ボンちゃんが顧問をする部活動にインタビューゲームのワークショップをさせて頂くことがきっかけで今回、インタビューゲームを行うことになりました。

 

【がんばらない】

今回のセッションでは、この「頑張らない」の一言に尽きるものであったと思っています。振り返りの時に、ボンちゃんから「インタビューといったらアナウンサーの姿をイメージしがちだけど、インタビューゲームはアナウンサーになりましょうってことじゃなくて、言葉のキャッチボールができてばそれでいいんじゃないかな」という言葉を聞いて、今の自分がその通りだなぁって思えたことを掘り下げていきます。インタビューゲームを30回以上行って、まずます力を抜いてやっているように感じます。それは慣れというより、以前の私が人と会話する時妙に力が入っていたんだと思うのです。

「何を聞いたらいいのだろう?」

「こんなこときいていいのかな?」

ということに囚われすぎていたのだと思います。

 

頑張らないということは、相手を受けとめる姿勢であるということであり、問いがスッと出やすい状態に近づけているんだと思います。問いっていうのは、考え込んで出るものではなく、その状況・現状をよーく観たら自然と生まれるはずのものであるんだろうと思っているので、頑張っていると全体を掴めず、どこか見落としてしまうのではないかと思ってるので、「頑張らない」って言葉がスッと入ってきたんだと思います。

 

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5月13日(土)14時〜18時にインタビューゲーム会を私が住んでいるシェアハウス「サムハプ」で行います。まだまだ参加者を大募集中です。

【定員6名】第9回 インタビューゲーム会@サムハプ

 

もちろん、個人セッションのお相手も大募集しております。

 

おわり。

 

 

 

本日のつれづれ no.399 〜「生きるって...」 V.O.P予告編2より〜

2017.04.24  【399日連続投稿】

 

先日、べてるの家を取り上げた「V.O.P(ベリーオーディナリーピープル)の予告編4」を観ました。

そういえば、前回のV.O.P予告編2のラスト3分で武田千代美さんが話された言葉を忘れずに書き残したいと思っていたんだと思い出したので、書き残します。

 

生きてるってのは やっぱりね
簡単だけどむつかしい

生きてれば
いいことがあるのが本当

一つ一つが 明日生きてると
いいことがある
また 明後日も 生きてると
いいことがある
その次も 生きてると
いいことがある

淋しい時もあるけど そう思う

 

おわり。

本日のつれづれ no.398 〜V.O.P予告編4鑑賞会に参加して〜

2017.04.23  【398日連続投稿】

 

昨日、べてるの家を取り上げた「V.O.P(ベリーオーディナリーピープル)予告編4」の鑑賞会に参加してきました。

 

寺子屋塾の井上さんと友人の塩坂さんが企画して下さいました。

V.O.Pの鑑賞会は今回で3回目で、今のところ全部参加しており、毎回気づきと優しさを頂いています。

 

べてるの家については、いつくか記事を書いているのでご参照いただければと思います。

 

本日のつれづれ no.187 〜第1回 ベリーオーディナリーピープル 鑑賞会つれづれ〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

本日のつれづれ no.321 〜映画「ベリーオーディナリーピープル」-3度の飯よりミーティング-〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

今回の予告編4では、有限会社「べてる」で働かれている方々の様子が、主に描かれていたものでした。

病気でありながらも幸せに生きていらっしゃる方々の姿がそこはありました。

 

「無駄こそが豊かさ」

 

約80分に及ぶ映像は予告編と呼ぶには長いですが、その中には多くの気づきと優しさが転がっていました。

その中で、私が最も心に残っているのが「無駄こそ豊かさ」という言葉です。

スーパーマーケットの床のワックスがけの仕事をするシーンが出てきます。それぞれバラバラのペースで仕事を進めたり、ワックス液で床をびしょびしょにしてしまったり、お世辞にも効率的にやってるとは言えない働きぶりなのですが、やってる人たちは生き生きとやられているのです。

 

普段、できるだけ手間をかけず無駄なくやることが無意識的に良しとして働いてしまっていないかと、ふと思い返すシーンでした。

 

このシーンや言葉が心に残ったのは、豊かさとは何か?というのは大学生の頃にインドに行ったらしたことから気になっているテーマであり、色んな考え方に触れてきました。

「選択の多さが豊かさ」

「時間のゆとりがあることが豊かさ」

などなど。

今までは、色んな考えに対してなんだかピンときていなかったのですが、今回の「無駄こそ豊かさ」というのが私にとってなるほどなと思わせる考えだったのです。

 

無駄であっても生き生きと生きていることが、住んでいる国が途上国であろうが先進国であろうが、どんな病を抱えていようが、選択できるもので、誰でも豊かさを手に入れることはできるのだと思ったからです。

 

一人であっても、誰かと一緒にいても豊かであることはできる。

それぞれのペースで生きればよい。誰かがコントロールしようとするから、歪みが生じるのではないかと。

 

特急電車に乗らず普通電車になって書いていますが、これは一つの豊かさと捉えることができるのは、今回の「V.O.P予告編4」を見たからこそだなぁと思っています。

 

おわり。

本日のつれづれ no.397 〜なぜ「できない」を大切にしたいと思っているのか?〜

2017.04.22  【397日連続投稿】

 

 なぜは私は「できない」を大切にして生きたいと思っているのだろうか?

 

今日、寺子屋塾にて、寺子屋塾の井上淳之典さんと友人の塩坂太郎さんが企画されている「V.O.P(ベリーオーディナリーピープル)の予告編鑑賞会」を参加したことを機にこの問いが浮かびました。

 

それは、寺子屋塾関連の関わりから影響を受けていることが大きいと思いますが、そもそも自分が「できない」、「失敗」、「ショックなこと」が生きる上で欠かせないことになっているからだろうと思っています。

 

よく成功体験が大切なんだということが言われますが、私はどちらかというと成功体験よりも失敗やショックな出来事が今の自分を支えていると思っているので、できないことも成功することに引けを取らず、必要なものなんだろう思っているということです。

 

正直今でも、失敗したり恥をかいたりするのは嫌です。

おまけに、私は自分のことを失敗したり恥をかいた時には、一人で抱え込んでネガティヴになりやすい質であるだろうなと思っています。

でも今は、色んな人に関わることで自分で抱え込むことがなくなっていることが、日々起こる「失敗」や「ショックなこと」があったとしても楽しく過ごせていることに繋がっているのだろうと自分なりに捉えています。

 

一人で抱え込みがちな自分そのものを変えることはできなくとも、そんな自分があるからこそ、人と関わることをしようとしているのではないかと思うのです。仕事がない日は、極力グダグダしたくても、寝坊してでも人と関わるのはそういうことなんだろうと思います。

 

「できない」からこそその次が見えてくるからこそ、私の中で「できない」が大切なんだろうな。

 

そんなことを思わせてくれた「V.O.P予告編鑑賞会」については明日書きたいと思います。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.396 〜入試の基準は学力だからいい? 『見えない学校・教えない教育』より〜

2017.04.21    【396日連続投稿】

 

《基準》

大学は人生を決定しない

だからここに入る基準は

偏差値や共通一次センター試験)のように

いい加減なものがいいのだ

人間の価値と関係あるものが

入試の基準になったとき

社会はもっと息苦しくなる

 

『見えない学校・教えない教育』(著:平井雷太)

 

おわり。

本日のつれづれ no.395 〜「聴く力」 茨木のり子〜

2017.04.20  【395日連続投稿】

 

ここ最近、『あなたの人生を変える対話術』という本をもとに記事を書いています。

 

今日は、著者の泉谷閑示さんが別に書かれた『「私」を生きるための言葉』から詩を引用したいと思います。

 

聴く力

 

ひとのこころの湖水

その深浅に

立ちどまり耳澄ます

ということがない

 

風の音に驚いたり

鳥の声に惚けたり

ひとり耳そばだてる

そんなしぐさからも遠ざかるばかり

 

小鳥の会話がわかったせいで

古い樹木の難儀を救い

きれいな娘の病気まで直した民話

「聴耳頭巾」を持っていた  うからやから

 

その末裔は我がことのみに無我夢中

舌ばかりほの赤くくると空転し

どう言いくるめようか

どう圧倒してやろうか

 

だが

どうして言葉たり得よう

他のものを  じっと

受けとめる力がなければ

茨木のり子  『詩集 寸誌』)

 

「他のものをじっと受けとめる力がなければ」

 

それは一体どんな力なのだろうか。

相手を受けとめるということは、容易いものではないと思う。

受けとめるということは、相手を認めつつ自分が自分であるということなんだと思う。

コミュニケーションで言うなれば、相手の話を聴きつつ、自分の考えはしっかりとあるということなのではないだろうか。

自分があるから、対話ができる。

自分がなければ、相手の言うことすべてが正しいと思い鵜呑みにしてしまうだろう。

そんなのは対話ではないと私は思う。

だから、聴く力がある人は自分の核となるものがある人なんだろう。

核となるものがない人は、相手の話を聴きすぎてしまうが故に、安心して聴くことはできない。

じっと受けとめる力は、自分という存在と他人という存在を自覚して生きるということなんだろうな。

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.394 〜孤独だからこそ愛がある〜

2017.04.19  【394日連続投稿】

 

ここ数日、『あなたの人生を変える対話術』(著:泉谷閑示)をもとに記事を書いています。

 

昨日書いた記事には、二人称関係(二項関係)は人との関わりから生じる苦悩から逃げいていることに繋がることを書きました。

本日のつれづれ no.393 〜相手は自分と同じだろうと妄想する罠〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

今日は、苦悩から逃げなくていいんだよとう話でもあるし、そもそも人間は苦悩を持つような存在なのだという話を書きたいと思います。

 

そのキーワードとなる言葉が「孤独」です。

 

孤独が嫌だから、怖いからこそ自分と同じような相手を求めるのかもしれません。

孤独は、なんだか寂しい、悲しいという印象をどうしても抱きがちです。

 

大学生が学食で友達と一緒にワイワイしているグループが複数ある中一人で学食でご飯を食べている時、

飲み会で誰ともしゃべっていない時、

これらは「孤独」という言葉を連想しそうなシーンだなぁと思っていました。

 

私自身も「孤独」という言葉をなんとなくのニュアンスで捉えていたのですが、本書では、「孤独」と「孤立」は違うと書かれています。

 孤独について言えば、孤独とぼくたちに与えられる万人へ通ずる分け前なんだ。(中略)ただ、孤独と孤立はちがう。(中略)一人でいるとは、自分であるということ以外のなにごとでもないんだ。他のどんなものになれるというんだろうか。誰もぼくの代わりに生きることはできないし、代わりに死ぬことも苦しむことも愛することもできやしない。これこそ、孤独といわれるものであり、存在しようとする努力の別の言い方にほかならないんだ。君の背負っている重荷をかついでくれる人はどこにもいない。(中略)

 だから孤独とは、他人を拒否することじゃなくて他人を受け入れることであり、他人を他人として(自分の一部や道具や対象としてでなく)受け入れることなんだ。だからこそ、愛することは、ありのままの姿で見れば孤独なんだ。(中略)

 愛は孤独の対極じゃない。愛とは、他人の孤独によって分かち合い、満たされ、照らしだされた        ー  そしてときに曇らせる  ー  孤独なんだ。愛はつねに孤独なんだけれども、それはどんな孤独も愛をふくんでいるからではなく、それどころかあらゆる愛が孤独だからだ。ぼくの代わりに、ぼくのうちで、ぼくのように愛することは誰にもできやしない。自分の周りに、あるいは愛する対象の周りにあるこの砂漠こそが、愛そのものなんだ。

『愛の哲学、孤独の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィルより

 

どうやら先ほど書いた孤独のように思っていたシーンは、孤立のような気がします。

 

まさに私自身「孤独」と「孤立」が混同していました。

 

人は皆生まれながらにして孤独なのでしょう。

孤独を認識するから、愛が生まれるのでしょう。

孤独を認識することは、あなたが自分とは違う「他者」であり、私はあなたから見た「他者」であることを知ることなんだと思います。

 

他人同士が生きているんだから、ちょっとした意見のすれ違いなど取るに足らないのだし、人の目を気にしても結局全てを分かることはないのです。

お互いが異なるから、知りたい気持ちが生まれるし、関わりたい気持ちが生まれるのだと思います。

 

孤独は時に、辛いものになるかもしれません。しかし、孤独だからこそ、一層の喜びや幸せがあるのだと私は思っています。

だから、人との関わる苦悩はどうしても付き纏いますが、苦悩があるから愛があるんだと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.393 〜相手は自分と同じだろうと妄想する罠〜

2017.04.18  【393日連続投稿】

 

昨日の記事で登場した「二人称関係(二項関係)」の続きについて『あなたの人生を変える対話術』(泉谷閑示)を元に書きたいと思います。

 

本日のつれづれ no.392 〜複数人数いると話しにくいのは?〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

昨日の部分だけ読むと、二人称関係ってお互いが仲良くていいじゃないと思う節もあるかもしれません。確かに、多くを言わずともお互いの気持ちが何となくわかってくれたり、安心して接することができる人がいることは助けになると思います。

 

しかし、二人称関係でいるってことは、こんな一面もあるようです。

 私は、「二項関係」は、一人称-三人称関係が本質的に持っている苦悩的要素からの逃避を意味している、と考えている。二人称関係においては可能的に最大限のものが既知のものに還元される。(中略)たとえ人間関係から起こって来ることでも、思いがけないこと、非常に困ったことは、天災的なものと見做される傾向がある。(中略)それを甘受して、それが過ぎ去るのを待つということになる。(中略)人間的矛盾に対する時に起る「苦悩」(ANGOISSE)がそこには欠如している。

 しかるに「二項方式」の内部では凡てが一変する。お互いに相手は自分にとって二人称であり、「汝」であり、しかもそれが「私的な」関係であるということから、そこには「恋」あるいは「慰安」(CONFORT)と「苦悩(ANGOISSE)ちの絶え間のない交替が始まる。(中略)しかし本当は自己も相手もいつでも一人称になり、相手にとっては三人称になる可能性を保持している。また現実にそれは起こって来る。そこから「安心」は「不安」へ、「慰安は「苦悩」へと変貌する。

森有正森有正全集 第12巻』

 

 この文章を読んで、二人称関係(二項関係)とは、人と接する上で傷つくことを恐れているため自分の守りに入っている関係性とでも言い換えることができると思いました。

 

 そして、二人称関係で安心安全だと思っていても、人と人が接することでありますから、自分と違うことが許せなかったり、相手に裏切られたと感じてしまうのも二人称関係だからこそ起きるのだろうと思います。

 

どれほど仲が良い友人でも変わってゆくし、自分も変わってゆくのだから、私と異なる相手と接しているということを、いつも心に留めておくことが大切なのだろうと思います。ついつい近しい人と接する時ほど忘れがちになる時がありますがね。

 

そもそも自分が思っているんだから、相手も同じようなことを思っているとはかぎらないってことを知ることからだと思いました。そんなことを妄想するから、人と接することが怖くなったりするのかもしれません。

 

おわり。

本日のつれづれ no.392 〜複数人数いると話しにくいのは?〜

2017.04.17  【392日連続投稿】

 

今日も『あなたの人生が変わる対話術』(著:泉谷閑示)から書きたいと思います。

 

一対一なら話せるけど、複数人になったらあまり話せないってことが私自身、結構あるなぁと思います。

それは何故なのか紐解いていけたらなぁと思います。

 

日本人においては人間の一人一人が、つまり他人と区別された自分として、充分に独立的に、独立的な主体として自覚されないということがあります。他人と自分との間の区別が、はっきりとしていないということです。つまり、他人がいつまでたっても、私にとって「あなた」である。そこまではいいのですけれども、今度は、その「私」は「あなた」に対してのみ「私」なのです。(中略)天皇や親や、あるいは仕事上の上役や先輩から「お前」とか「君」とか「あなた」とか言われる人間として、自分を自覚しているのです。

 あるいは一家の中にあって、子供から親として考えられ、妻君から夫として考えられ、つまり全ての他の人から二人称として考えられるのです。だからその相手の意思を、相手の考えを推しはかってみなければ、自分の行動を決定することができないのです。また相手も同時に、自分にとって二人称なのです。

森有正『いかに生きるか』『Ⅱ  日本人の生き方』より

 

日本人は相手との関係性が変われば、相手の呼び名が変わったり、敬語になったりタメ口になったり、相手との関係性を前提に話し方や内容までをも決定するということみたいです。

 

そもそも、話す行為が一対一ありきの構成になっていることが、日本語を難しくさせ、大勢の人の前で話しにくい所以のようです。

 

私がここで思う肝心な部分としては、二人称ということがどういうことなのかということだと思います。

 

ここでいう二人称というのは、相手に自分の同意を求めることしかしない関係であるということだと思っています。

 

他人を他人としてみていない。

言える範囲内でしか物事を言わない。

そんなことを「二人称」という言葉を使って表現されているのだと思います。

 

お互いが違う人であることを前提に接することを受け入れることができれば、他人に伝わる伝わらないを問題せず、一対一でなく複数人数での対話のスタートラインに立てるのではないかと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.391 〜たかをくくらないために〜

2017.04.16  【391日連続投稿】

 

先日の読物つれづれでご紹介した『あなたの人生が変わる対話術』(著:泉谷閑示)から、「たたをくくらない  5つのポイント」をピックアップしたいと思います。

 

 読物つれづれ no.4 〜あなたの人生が変わる対話術〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

私は特別支援学校で講師をしていたり、個人的にインタビューゲームというコミュニケーションや対人関係を学ぶワークショップを行っている様々な場面から、他者に対して先入観を持つことで起きる対人関係の問題が結構あるのではないかと思っています。

 

自分をさらけ出すことへの恐れや苦手だと思っている人と接することなどは、自分が先入観を持っているから起きていることが多くあるのではないかと思います。

 

だからこそ、「先入観を外す=たかをくくらない」ということが重要なのだと思っています。しかし、具体的にどうやればいいのかということはなかなか私は分かりませんでした。

本書で紹介してある心構えは、具体的に示してあり、私にとって大変勉強になったものです。

 

「たかをくくる」ことへの説明とともに書き残したいと思います。

 

「たかをくくる」ことは、「対話」の精神の対極にあるものであり、これも〈「対話の死」〉を招いてしまいます。変化するもの同士だからこそ、今日の「対話」で終わることなく、明日の「対話」が意味を持つのです。

 

《たかをくくらないために  「5つの心構え」》

1、どんな相手に対しても、自分の感じ方や考え方を超えたものを持っているかもしれないと思って「聴く」こと。

2、昨日までのその人と今日のその人が同じとはかぎらない、と思って今日の話を聴いてみること。

3、途中まではいつも通りの話であっても、どこか微妙に変わってきているのではないかとおもって「聴く」こと。

4、相手が同じ話を何度もすることは、その話に込められている重要な意味をこちらが汲み取れていないからではないかと考えてみること。

5、昨日までは聞き取れなかった何かを、今日の自分ならば聞き取れるかもしれないと思ってみること。

 

おわり。