名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.423 〜愛ピックの様子を見て思ったこと〜

2017.05.20  【425日連続投稿】

 

今日は、愛知県障害者スポーツ大会(通称:愛ピック)に生徒の付き添いとして参加してきました。

 

午前中しか様子を見ていませんが、競技者や運営の方々の姿、生徒の頑張っている姿を見ていると、ふと色んな思いが湧いてきました。小学生から大学生までサッカーをしていた私にとってはスポーツというものや何かを達成するとか頭の中で色んなテーマが複雑に絡み合って言葉になっているような、言葉になっていないような気持ちになりました。

 

家に帰って少し休んだ後に、今読み進めている本『寄る辺なき時代の希望 ー人は死ぬのになぜ生きるのかー』(著:田口ランディ)を読んでいると、ふと書こうと思い、今書いています。

 

自分というものをありのままに表現し、認めることができないと、人間は自分を他者の評価によってしか確認できなくなる。そうなってしまったとき、人間はゴミを必要とする。絶対的な無用な存在が必要となってしまう。人権という言葉は、人権を与える人がいるから存在している言葉だ。少なくとも、日本ではそうだ。

 すべての人は唯一無二の自分であると自覚し、他者に頼らずとも自分の弱さもありのままに表現し、自らの堕落を認めれば、他者を蔑むことはない。自分に奢ることもない。人間としての権利は、与えるものでも授かるものでもなくなる。存在するあらゆる生命にとって自明のものになる。

 

『寄る辺なき時代の希望 ー人は死ぬのになぜ生きるのかー』(著:田口ランディ)p.128-129

 

私がサッカーをやっていた時の反省と言いますか、こうしておけばもっと楽しめただろうなと思うことがここに書かれているような気がしました。

 

純粋に楽しむことをすればよかっものを、周りから評価に気を取られ、自分より上を目指すよりも自分を保つために自分より下のものに目を向けてしまうことがあったように思います。そんな時期は楽しくない時期でした。

 

競争によって自分の価値が決まるわけはない。

あの頃の楽しそうにサッカーをしていない自分に、周りからいくら「やったことに価値がある」とか「頑張ったんだからそれでいいよ」と声をかけられたとしても、本人が周りと比べていたらあんまり響かないように思います。

 

「できない」「失敗」からくる情けなさや惨めさっていうのは、「自分は本当はできるようになりたんだ」っていうサインがちょっと違う形で出てきてしまっているだけなんだと気付けばよかったんだと思います。

できるようになるには、自分なりの上手くなり方があるだろうし、進むスピードも周りとは違うのは当然だと思たらさらによかったんだと思います。

 

今さら、気付いたなって感覚だけれども、スポーツに限らず、勉強とか仕事とか他になんでもそうなんだと思う。

 

手に入れたいものを手に入れたいと思うのは、当たり前だと思っていても

手に入れたいものを手に入れられない自分を非難するのも当たり前にしていないか?

 

手に入れたいものを手に入れられない自分をも受け入れられる。

どん底の自分を受け入れられることから、失敗しても元々でなんでも楽しめたらなら、その人はなんでも手に入れられそうな気がする。

 

愛ピックに出ていた人々がそういう人々だということはインタビューをしたわけではないし、言うことはできないですし、私がいいたいことではないんです。でも、彼らの姿を見た私がこのような気持ちになったということだと思っています。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.422 〜押す時と引く時がある〜

2017.05.19  【424日連続投稿】

 

先日、問題が起きることへの向き合い方について書きました。

 

本日のつれづれ no.419 〜問題への向き合い方〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

問題については、色々生じると思いますが、人間関係におけるものは結構多いのではないかと思います。ちなみに、アドラー心理学をはじめ、色んな立場から「全ての問題は人間関係の中にある」と言われるくらいです。

 

最近は、運動会の準備で忙しくしておりまして、色んな人との関わり合いながら進めています。

その時に、問題が起きるというよりもこうなってしまうようになっていて、すでにどうしようもなく一旦、成り行きを引き受けることしかできないなと思うことがありました。

 

こういう感覚になる時が最近は多く、一年前までは「自分から何か動けば何かが変わる」と思って、動こうとしていました。しかし、今は自分ができることと変えようがない部分があり、言うなれば、「押していくときと引く時がある」という感覚になっています。

 

働いて2年目になる違いがこういう形ではじめて感じました。

 

相変わらず、お金を頂きながら楽しく学んでいる感覚で働いている廣安でした。

 

おわり。

本日のつれづれ no.421 〜日常からみた「支えるってこと」〜

2017.05.18  【423日連続投稿】

 

 最近、お味噌汁を作ることが多くあります。

 

なんでだろうな?

GWが開けたくらいから、2日に1回は作っていると思います。

 

もしかしたら、冷蔵庫に余ってる具材で何作ろうかと考えたら、お味噌汁だったらできそうだと思ってから作るようになったのかもしれないです。

 

昨日は、一昨日作っておいた味噌汁を鍋で温め直そうとして火をつけた後に、その間部屋に入ってブログを書こうとしていたら、ウトウトしていまい、気づけば日をまたいでいました。

 

「しまった!」と思い、キッチンへ行って鍋を見てみると、汁なしで具材しか残っていませんでした。

次に、もしかしたら大惨事になっていたかもしれないことに気づいて、火を止めてくれたシェアメイトに感謝の気持ちと申し訳ない気持ちになりました。

 

今晩、シェアメイトに会うと当然「あれは危なすぎだったぞ」と言われました。

完全に一人で暮らしていたら、どうなっていたか分からない事態です。心底、自分の中で自戒しました。

 

それと同時にやっぱり人と人は助け合うというか、支え合ってというか、一人じゃ生きれないんだなぁと思いました。

助け合うとか他人を支えるとか、なんだか自分から良いことしようとする側面が強い印象を持ってしまいがちだと私は思っていますが、一緒にいるだけで、助け合ったり支え合ったりしてるのではないかと思うのです。

 

自分は相手を支えていないつもりでも、支えている部分はきっとあるんじゃないかな。

いやむしろ、支えられてるという状態は、互いに支えようとしていないから生まれるのかもしれない。

客観的にみたり、後から振り返ると支える状態だったり、助け合っていたとか思うのではないだろうかと思いました。

 

だから、助けようとか支えようとか思わなくても、きっと誰もがどこかで誰かと助けたり支えたり、助けられたり支えられたりしてるのではないかと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.420 〜満たされるは気づいていないかも〜

2017.05.17  【422日連続投稿】

 

「ああ、今日はいい1日だったなぁ〜」と思わない時も、

 

いや、むしろそんな時こそ

 

満たされる時なのかもしれない。

 

おわり。

本日のつれづれ no.419 〜問題への向き合い方〜

2017.05.16  【421日連続投稿】

 

日々の営みの中で問題は絶えず起きています。しかし、起きた問題に気づいた時、問題が起きることを予測している人はその問題で悩みません。問題を解決しよとせず、問題が解決していくプロセスをながめていれば、問題はこじれることなく、問題が問題にはならなくなっていくのです。

 

引用:「〜しなさい」と言わない教育   (著:平井雷太)

 

 やったことないことで初めてやることに対しては特に、不安になってしまいがちだと私は思っています。なんせ教師生活(厳密には、常勤講師)2年目をやっている私がそうだからです。1年やると多少は分かることできることがありますが、まだまだ数えきれない程初めてのことをします。周りに頼れる方々が沢山いても、なんだかんだ不安はあります。

 

 不安があるってのは、上手くやりたい、問題が起こらず進んで欲しいと思っているから過度に気にしてしまうもので、上手くいかないことは当たり前、問題が起きるのは当たり前という姿勢でいれば過度に振り回されることもなく、問題の本質を見ようとしやすいのかなぁと思います。

 

 そして、「問題を解決しようとしない」ということが、私にとっては衝撃的なフレーズだったのですが、よくよく考えてみると問題を放ったらかしにするということではないんだと思いました。

 

 問題について色んな視点から見てみる。

 自分一人で考えるのではなく、色んな人の考えや見方を知る。

 少し経過を見てみる。

 

 問題だからといってすぐに無くそうとすることが「問題を問題視していること」なんだろうと思いました。

 いきなり解決を図ろうすると、特に集団内でおきる問題については色んな思惑が交差していることもあり、こじれる原因になりかねないのではないか。それぞれ視点の解決の仕方しか認識していないかもしれないし、そもそも問題視している人の思い上がりかもしれません。

 

問題、問題ってばかり言っているけど、問題っていうのは結局は人の価値観やフィルターを通したズレから生じるもののような気がします。

 

 今の世の中、レスポンスとかスピードが要求されることがあり、そういう側面も確かに大切なんだと思うけど、大事なことほど「時間がかかるもんだ」と思ってやっていけばいんじゃないかと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.418 〜今日できることしかやっていない〜

2017.05.15  【420日連続投稿】

 

 今日1日でやったことは、その日にできる最大限のことだったんだと思う。

 

もっと早く起きていればな、、、

あれをやるの忘れていた、、、

 

1日あれば、悔いが残ることはそりゃ出てくる。挙げ出せばきりがない程にあるだろう。

 

でも、それらの悔いはきっと出来事が終わってから起きる感情なんだと思う。

 

やる前から悔いは生じない。

 

だから、その時の最良の選択がそれだったんだなぁ。

だから、今日1日はその時その時の最良の選択で作られているはずだと思う。

 

後から、振り返れば悔いが残るのは当然だからこそ、これからどうするかに目を向ければよい。

 

とは言っても、明日に色々詰め込んじゃってもそれは全部できないんだから、毎日2,3個でからば充分なんじゃないかと思う。

 

「できないこと」は「できること」へ

「できること」は「当たり前のこと」へ

 

自然とやっていれば、当たり前のことは変わって行くんだから、反省はそんなに必要ないのかもしれない。

 

おわり。

本日のつれづれ no.417 〜自分の生活に問いを持つ〜

2017.05.14  【419日連続投稿】

 

1日に三度の飯。

朝御飯はしっかり食べる。

早寝早起き。

 

子どもの時から元気で健康に過ごすには大切なんだろうなとなんとなく思っていたこれらは果たして本当なんだろうか?

 

誰にとっても本当なんだろうか?ってことでなく、自分にとって本当なんだろうかと問いを持つことが大事なんだろ思います。

 

ちなみに、私は基本的に朝御飯は抜き昼と夜のみの食事を中学生くらいからやっています。

身体は本当に正直者で、必要な時に必要なものを求めてくるんだと思っています。今は、自分の体に合う食材を探して生きたいなと思って、とりあえずお米は食べなくていい時は食べないスタンスでいます。最近、晩御飯は蕎麦が主食となっています。

 

食と身体の探求は、面白いです。体のことも日々振り返っていくこともして生きたいです。

 

おわり。

本日のつれづれ no.416 〜生きるだけさ、死ぬまでは。(谷川 俊太郎)〜

2017.05.13  【418日連続投稿】(2016.03.22から起算)

 

生きるだけさ、死ぬまでは。

(谷川 俊太郎)

 

自分の身近に起きる誰かの死に向き合うたびに、「生きるとは?」「なぜ生きるのか?」ということを考えてしまいます。

 

いつも「死」とういうものは突然訪ねてくるものなんだと、思わされます。

 

言葉で表せない気持ちで胸がいっぱいになり、時には自分を押しつぶしてしまいそうになります。

 

誰かの死に出会うことは自分事のように思い、悲しみ苦しいを持つことがありますが、生きている人はこれからも生きていきます。

 

これからも生きる人は、きっと亡くなられた人からたくさんのことを貰っているんだと思います。

たくさんの貰ったものを大切に自分の中にしまいこんで、自分も死ぬまでは生きてゆく他はないのだと私は思っています。

 

私にとって、毎日ブログを書くことや算数プリント(らくだプリント)に淡々と取り組むことは、亡くなられた方からたくさん受け取ったからやっていることであり、いつまでも繋がっていたいという気持ちの表れなのかもしれないなと思いました。

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.415 〜できない状況だから、できない自分を受け入れることをしようとする〜

2017.05.12  【417日連続投稿】

 

今週のらくだプリントにですが、月曜日に寺子屋塾へ行き、らくだプリントの小5ー30のプリントの1枚目を行い、見事不合格でした。

 

翌日にもう一回やろうと思ってファイルを手にとってみたら、

 

「小5ー30のプリントがない」と気付きました。

 

寺子屋塾に行くと、基本的にその日取り組むプリントを行い、先週の学習状況を学習記録表を見ながら、教室を開かれている井上淳之典さんと話した後に、取り組んだプリントを提出します。

 

どうやらその際に、その日取り組んだ5ー30のプリントをまだやっていないプリントを含めて提出してしまったようなのです。

 

かなりやる気を削がれた気持ちになりました。

自分がやると決めたことをできない状況を自分が作っていたんだと思うと、逃げたい気持ちになりました。

それでもやると決めたのは、「らくだプリントを毎日やる」という原点に立ち返ると順番通りに進んで行かなくてもいいんじゃないか、と思ったので一つ飛ばして5ー31にプリントからやっています。今日で5ー32まで終えることができました。

 

最近は、全問正解して次に進むということがなかなかありません。

一応、3問までミスしてよくて目安時間内に解くことができれば次のプリントに進んで良いということになっているので、全問正解でなくとも進んでいます。

これがもし、このような基準が決まっていなく次に進むかどうか自分自身で決めなければいけない状況でだったら、私の場合は全問正解してなければ合格ではないとしてしまいがちだと思います。

 

どうも完璧でなければならないと思っている節があるのだとは思いますが、

その「完璧でなければならない」は自分の中で勝手に作り上げた判断・基準でしかないということに気づくのです。

 

いい意味である程度でいい姿勢って大事なんじゃないかと思うのです。

小学校の算数の問題でさえ、同じプリントを何枚やっても間違えることを繰り返していると、こんなことにずっと止まってる自分はなんてしょうもない枠で収まっているんだろうと思わされるから、小学校の算数より難しいことって沢山あるのにそれを完璧でやらなきゃいけないと思っているのは、だいぶしんどいです。

 

あえて、できないでいいという状況を作り出し、できない自分を受け入れないと前に進めない状況も作り出しているのはらくだプリントを使った学習で通る道の一つと言えるのではないかと私は思いました。

 

来週の月曜日は、5ー30に再び挑戦します。

 

おわり。

本日のつれづれ no.414 〜伝えたい気持ち〜

2017.05.11  【416日連続投稿】

 
昨日の記事にも書きましたが、現在は私の人生で最も積ん読している状況ではないかと思っています。

ということで、ブログを書くために読む作戦を決行してはどうかと思ったので、少しずつでも毎日本を読むことを決めたいと思います。

今日は、ちょうど今週の週末の5月13日(土)にインタビューゲーム会を行います。
それに当たって、インタビューゲームをやるきっかけにもなった寺子屋塾の井上さんがインタビューゲームに関する推薦図書を揃えてきていることもあり、その中の1冊から今日は書きたいと思います。

 

伝えたいという気持ち

 

 私たち言語の教育に関わる者は、子どもの表現力をつけるという名目のもと、スピーチだ、ディベートだといういろいろな試みうぃ行ってきた。その一つ一つには、それぞれ意味があり、価値があったのだろう。

 しかし、そういった「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで、「伝えたい」という気持ちが子どもの側にないなら、その技術は定着していかない。では、その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。

 いまの子どもたちには、この「伝わらない」という経験が、決定的に不足しているのだ。現行のコミュニケーション教育の問題も、おそらくここに集約される。この問題意識を前提とせずに、しゃかりきになって「表現だ!」「コミュニケーションだ!」と叫んだところで意味はない。

 では、どうすればいいのだろうか?

 子どもたちを千尋の谷に落とせと言っているわけではない。

 おそらく、一番いいのは体験教育だ。障害者施設や高齢者施設を訪問したり、ボランティアやインターンシップ制度を充実させる。あるいは、外国人とコミュニケーションをとる機会を格段に増やしていく。とにかく、自分と価値観やライフスタイルの違う「他者」と接触する機会を、シャワーを浴びるように増やしていかなければならない。

 ただこれには、予算や人員制約がある。セキュリティの問題もあって、なかなか子どもたちを簡単に学校の外に出すことはできない。

 ここに、演劇、あるいは演劇的な授業の大きな役割がある。

 演劇は、常に他者を演じることができる。

実際の体験教育ほどの効果はないかもしれないが、異文化、他者への接触をフィクションの力を借りてシミュレート(疑似体験)することができる。

 

『わかりあえないことから-コミュニケーション能力とは何か-』(著:平田オリザ

 

おわり。