名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.338 〜自信ってそんなに必要?〜

2017.02.17  【333日連続投稿】

 

これはできる、できそうだ。

 

この判断には「できる自信があるから」「できそうな自信があるから」という言葉がしばしば付く気がする。

 

自信によって物事をジャッジしていることが私自身もよくある。

 

らくだプリントの話に置き換える。

私は、昨日4-36の約分の計算に取り組んだ。

昨日までは、「2と3と5を使って約分しなさい」とお助けフレーズが書いてあったこともあり、ノーミスで目安時間より2分ほど早く解き終わることができていた。

そのことから、約分に対しそこそこの自信が生まれていたのだろう。

 

しかし、昨日は1問ミスであったが目安時間を1分ほど超えてしまった。

解いている途中「あれ?もっと簡単にできると思っていたのにな」という気持ちから焦りが生まれた。結果、気持ちが乗り切れない時間が多く、不合格になってしまったのだろうと思う。

 

自信が自分を支える時は、今までやったことがあるようなことをやる時なのかもしれない。

 

やったことないことをやる時には、かえって自信は枷になることが大いにありうるのではないだろうか。

 

変な自信は、目の前の現状と的確に見ようとする姿勢を崩し、現実を歪めて見てしまうことに繋がってしまうと思う。

 

長年積み重ねた経験を自信にしてしまいがちだけれども、それはすぐに慢心にも変わることを心に留めておこう。

 

今までの経験はもちろん大切だけど、目の前のことを枠や先入観なく取り組める人でありたいと思う。

 

今日もよい一日になりそうです。

 

おわり。

本日のつれづれ no.337 〜教えないことの方が難しい〜

2017.02.16  【332日連続投稿】

 

ちょうど1年前の2016年2月16日に書いたことを見返してみました。

 

教えない教育と出会った。

教師を目指していた僕にとっては衝撃的な内容。

熱く子どもに教えることが教師の役目だと思い込んでいた。

全10回の井上淳之典さんによる「教えない教育シリーズ」のうち7回を受講した。

最初は、理論は理解できるけど、本当にできるのか?という疑問があった。


それでも、毎回のようにおこなうインタビューゲームやワークショップを通じて、

自ら気づいたことしか学びにならないという事が腑に落ちてきた。

教えるのではなく、学び手がいかに気づくように関われるか。

それには、そもそも学び手が学びたいと思わなければ意味がない。

そこがまず1番難しいところ。

教師を目指していた頃は、如何に導入で引きつけるか。生徒のやる気を引き出すか。と考えていた。

今はその考えに違和感がある。

どの子にも、「学びたい気持ち」「自ら学んでいく力」がある。

それを無視して、やる気を起こしてやるぞなんて少々上から目線すぎるなと思う。

「教えて伸ばしてやるぞ」という考えは、もっと上から目線でおこがましい。

教えるという行為は、その子の成長の機会を奪う。

そして、相手が求めることで初めて成り立つ行為。


教育者の仕事の醍醐味の1つとして、「子どもの成長に携われること」があると思う。

それは、そんなに子どもを成長させてすごいとか、
子どもから感謝される自分など
何かのgiveによって感じるものではなく、

ただ、相手のこうなりたい、こうしたいにスッと乗れる人が教育者。

支援でも指導でもない。

強制でも放任でもない。

そんな関わり方ができる人が僕にとっての真の教育者。

教えないのは、教える内容がないことではなく、

教えたいことはあるけど、本当に教えるためには教えないことが大切。

その人自身で学んで行けると信頼するところからスタート。


まだまだ僕も序ノ口で、分からないことだらけ。

でも、何も分からないわけではない。

毎日どーでもいいことをコツコツやり続けることからやっていこう。

井上さんをことばこさんをはじめ、色んな方と関わる中で学ぶことができました。
ありがとうございます。そしてこれからも、学び続けていきましょう。

 

現在、私は特別支援学校の常勤講師として教育者という側面があるが、教えないことは教えることより難しいと日々痛感しています。

 

ただ単に、全く関わりを持たず放任することは放任に過ぎない。

こっちが教えないようにして学んで欲しいなって思っていても、相手が同じ土俵に上がっていなければ、それはすれ違いなのだと思います。

時折やってしまうことが、「教えないことを目的化させてしまっている」ことです。教えない教育は、教えないことが目的ではなく、教えるために教えないという手段を取っていることのはずです。

そこの前提が崩れると、すれ違いが起きるのではないかと思います。

 

まだまだ日々、自分の未熟さを痛感しながら子どもたちと関わっています。

 

ついつい教えてしまって後で後悔する時もあります。

そんな自分への自戒を込めて書きました。

 

おわり。

本日のつれづれno.336 〜興味ないことは書けない〜

2017.02.15  【331日連続投稿】

 

書くことを続けていると、今日もまた同じ様な内容だなぁと思うことがある。

 

むしろ、最近は毎日のように思っている。

 

そんな時にハッとした。

 

そもそも自分の意識や認識していることしか思い浮かんでこないし、ましてや書くことに移そうと思うと興味がないことは書けないのではないだろうか。

 

実際、毎日の書き始めを振り返ると「これは書き始めると何か湧いてきそう。また、書くと決めたら湧き出してくるものを書いている」と思う。

 

やはり、これは書けないやこれを書くには注意を払って書かなければならないと思うときもある。

 

すっかり忘れてしまうほど一瞬かもしれないけど、色々と考えた挙句書いているのだと思う。

 

そして、書きたくないことをわざわざ書こうとしないと書きたくないことは書かないだろうと思う。

 

いや、書こうとした時点で本当は書きたいことになっているのかもしれないな。

 

だったら、今まで書いてきたことを見返して、最近こんなことばっかり書いてるんだなぁと自覚しておけば、自然とほかに興味は移る気がする。

 

書いていることが書きたいことになっていくのかもしれないな。

 

それなら、書いたもん勝ち。

 

書くという行為が、自分の枠を気づかせてくれて、少しずつ広げていく手助けになると思いました。

 

おわり。

(2017.01.25)

 

本日のつれづれ no.335 〜いつでも変わらないこと〜

2017.02.14 【330日連続投稿】

 

何かを成し遂げたり、達成したとしても次の日には日常が待っている。

 

一瞬の華々しく輝く時は、一瞬最高の気分になるが一瞬の輝きにすぎない。

 

何かを変えたいという気持ちは、自分の欲から来ていることをまずは自覚したい。

 

何かを求めるということは、自分の手元にはないと思っているものを自分のものにしたいと思っていること。

そういうものは、手元にきてもずっと手元にあるわけではない気がする。

 

「いつもは早く過ぎ去ってしまえ」と思ってしまっている時間もやりたいことをやってる時間も同じ1秒が存在している。

 

むしろ、自分が多くの時間をかけて過ごしていることを大切に生きたいと思っている。大切に生きるってのは、どう言うことなのかはっきりと言えないけれども、自分の考えや気持ちを無視せずに生きたいことは大切にしたい。

 

自分を大切にしたいという気待ちは、どんな時も変わらないのだと思う。

 

さてさて、今日も学校に行くのが楽しみだ。

 

おわり。

本日のつれづれ no.334 〜「おばけ」はつきまとうんだなぁ〜

2017.02.13  【329日連続投稿】

 

思い通りにならないことにイライラするくらいなら、今の自分にできることや与えられたことを愚直にやればいいと思う。

 

大抵、イライラしたり落ち込んだりする時って自分にとって想定外な出来事が起きることから生じるのではないだろうか。

 

先のことなんて誰にもわかりゃしないのだし、想定外なことなんか毎日起きているはずなのに、いちいち振り回されるのはなんだか馬鹿馬鹿しい。そんなこと頭で分かっていても、いざ日常に浸かると私は忘れてしまいがちになってしまう。

 

いや、想定していたけれども、いざその瞬間になればすぐに受け入れられないこともある。

 

そんな時は、感情にどっぷり自分が全て浸ってしまっていて、私は感情に振り回されてしまうのだろう。

 

どっぷり浸ってしまっている時に救ってくれるのは、他者であったり別の自分であったりする。

気付く時ってのは、やっぱり、自分で有りもしない「おばけ」のような存在を自分自身で作り上げていると気付く時だと思う。

私が言う「おばけ」は、自分の主観の中で作り上げてしまった事実に基づかないこと。

 

例えば、職場の人に挨拶したのに返してもらえなくて、「その人から嫌われている」と思うのは自分で「おばけ」を作ってしまっている状態だと思う。

そもそも聞こえていなかったかもしれないし、挨拶を返す余裕がないくらい考えにふけっていたのかもしれない。

人は頭が良すぎて、本当か分からないことを繋げて考えてしまうのかもしれません。

 

もしかしたら、世の中の色んなことを複雑にしている要因の大きな一つが各人がそれぞれ作り上げている「おばけ」なんじゃないだろうか?

 

他人の中のほんの一部だけ見て、羨んだり遠ざけたりするのは自分の中で「おばけ」を作ってしまっているからだと思う。

 

「おばけ」を作ってしまってると気付くことができると、目の前がパッと明るく開けた感覚に私はなります。

 

おそらく「おばけ」を一切つくらない人間はいないのだと思う。だから、おばけを作ってしまう自分を評価しないことは肝心なことだろう。一生、「おばけ」がいつどこでつくるか分からない自分と仲良く歩いて生きたいものだなぁと思う。

 

おわり。

インタビューゲーム日記 no.33 〜言葉にならないことを汲むこと〜

2017.02.12  【328日連続投稿】

 

インタビューゲーム33人目のお相手は、清藤明日香さん。

 

《インタビューゲームとは⁇》

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インタビューゲームについて - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

今回は、4人で集まってインタビューゲームをやることになりました。まだやったことない相手とやろうということで、私は清藤さんとやることになりました。

 

もうひとペアの岡田美春さんと小池菜月さんも盛り上がっていました。

 

清藤さんとは、大学時代からの知り合いですが、あまりお話ししたことがなく、お会いするのも久しぶりでした。

いつもは20分ずつのインタビューなのですが、今回は時間が限られていたので、15分ずつのインタビューでした。またお話したいと思う時間となりました。

 

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【言葉にならないことを汲むこと】

 

 今回は15分といういつもより短い時間でしたが、清藤さんからの質問が私の本質をつくような質問で、時間が足りないながらも深く濃い15分だったと思います。なかなか聞かれないと話さないことを聞いてもらったこともあり、私自身上手く言葉にできていないなぁと感じながら話していました。話もあちらこちらに飛んでいるような気がするし、なんだか言葉がフワフワ浮いているような感じで話し続けていました。言葉が見つからず沈黙の時間もあり、言いたいことすら言えなかったと私は感じていました。こんなにモヤモヤと言葉が見つからないまま終わったのは初めてだったかもしれません。 

 

 書いてもらった文章には私が口にした言葉を上手く繋げてもらえて、こんなことを言ったのかぁと思っていました。どちらかというと、清藤さんの主観や清藤さんから見た廣安はあまり存在しておらず、極力私の口から出た言葉を使って書かれていたような気がしました。

 

最後に4人で書いてもらったものを読み合わせて、それぞれ感想を書くことを今回の振り返りとして行いました。短い時間の振り返りでしたが、皆さんから素敵な感想を頂け、深い気づきがありました。

 

清藤さんから頂いた感想を引用させて頂きます。

自分と向き合うことはもっと深いこと。

それはやっぱり、ひろやす本人からの口から伝える言葉が一番しっくりきた。

 

お互い言葉にならないけど、なんか伝わってるというか感じていることがあるんだろうなということが私はとっても嬉しかったです。「その気持ち分かるよ」と言葉で言われる以上に、共感をしてくれた気分になりました。言葉にならないことに関心を寄せてもらえたこと、私自身も上手く言葉にできないことを分かってもらえた気が私はしました。

 

伝わることが良いコミュニケーションで伝わらないことが良くないコミュニケーションっていう考え方があるかもしれませんが、伝わらないことをお互いが分かる。そこにはもっと何か大切なものがあるんだろうなと感じました。

 

ずっとこの感じはなんだろうと思っていましたが、「言葉にならないことを汲んでくれた」優しさなんじゃないかと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no. 333 〜人狼ゲーム@サムハプ〜

2017.02.11  【327日連続投稿】

 

今夜は、住んでいるシェアハウス「サムハプ」で人狼ゲームをしました。

 

1ヶ月ほど前にも人狼ゲームをやってまたやりたかったので、友人に声をかけて6人集まりました。

 

まずは鍋を食べながらお話していると、人狼より話してるだけでも楽しい感じであっという間に時間が過ぎていました。

 

人狼ゲームってお互いを疑ったりするゲームだけど、ゲームだから安心して疑えるなって思いました。

 

ゲームだから普段は見せないその人が出てきたりするんだと思いました。

 

廣安はとにかく「ポンコツ」みたいです。

 

また、ゲームが終わるたびになぜか自然とみんなで振り返りが行われているのは、毎回不思議な感じになります。

 

振り返りが次に生かされることもあれば、そうならないこともあります。

 

どうなるか分からないし、人が変わればまた異なる感じで行われる。

 

とても人が表現されるゲームだから、またやりたいって思うのかもしれませんね。

 

3月もやろうと思ってます。

次は8人くらい集まってやりたいなぁと思っています。

 

おわり。

本日のつれづれ no.332 〜目の前からやるべきことが無くなることなんてないんだからさ〜

2017.02.10  【326日連続投稿】

 

目の前からやらないといけないこと・やるべきことが無くなることなんてないんだからさ、やること全部やり終えて、やることなしって状態じゃないと落ち着かないのは辛いなぁ。

 

そういう考え方だど、いざやることが無くなったとしても暇を持て余すことに落ち着かなさを感じてしまうわじゃないかな〜。

もしくは、次はいつやることがやって来るのか?とソワソワしながら待っていたりするかもしれない。

 

やることに対して「やらなきゃ」「やらなければならない」という気持ちがあるから、目の前の忙しさに翻弄されるんだろうな。

翻弄されてもいいけど、翻弄され続けると辛いな。

 

時には、自分と過ごす時間を取ることがやることに対して「やらなきゃ」「やらなければならない」という気持ちを外してくれると思うな。

 

料理を作るのもいいし

あったかいコーヒーと共に読書するのもいいし

ゆっくりお風呂に入るのもいいし

音楽聴くのもいいし

ぼーっとしてもいいし

自分と時間を共にする。

 

そんな時間があるからこそ、やることにグッと力を入れたいときに入れることができると思う。

 

忙しさの中にいると、大切にしたいこととかついつい忘れがちになってしまうときがある。

 

自分と過ごすと大切なことは大切にする環境だと思うから、自然と自分に大切なことを思い出すのではないかと思います。

 

最近、私にとって書くことは自分を緩めることにもなってきています。

マッサージやストレッチで体を緩めるのと同じように感じることを書くことによって心が緩まる気がしています。

 

仕事で疲れていても、帰りの電車の中で書いていると家に着く頃にはスッキリしているのです。

以前は、家に帰ってまずブログを書いてらくだプリントをやった後にご飯を食べると22、23時過ぎになっていたのですが、最近は時間ができてゆったりお風呂に浸かることもできているのは、自分にとって驚きです。

 

自分がどんなことをやれば緩むのかを知ってることって大切だなと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.331 〜ざわつく心・できない時を大切に◎〜

2017.02.09  【325日連続投稿】

 

なんだか心がざわついてると思っても、立ち止まることができない時はあると思います。

 

そんな時は、気付くことができていればいいと思えばいいような気がします。

 

なんかざわついて、目の前のことが手についていない状況の時は、この調子でいると落とし穴に落ちるというか、トラブルが起きそうというか、何か起きるだろうという感覚になります。

 

それは、らくだプリントをやってる時に「今日は調子が悪いな〜」「間違えてそうだなぁ」と感じる感覚によく似ていると思います。

 

常に周りの状況が変わり続けている仕事場などでは、ざわついてる真っ最中の気持ちをフォーカスすることは難しい。それより目の前の子どもを見ることを優先させなければと思っているからです。

 

でも、他人と接していても他人を通じて自分の気持ちを知ることにも繋がってしまいます。結局は、自分のざわつく気持ちを無視しているとざわつく気持ちはどんどん膨らんだいくばかりなのです。

 

自分なりに気持ちを掘っていくと、これは明らかに自分の失敗やミスだということを自分が自分に突きつけてしまうことだってあります。

自分の気持ちを掘っていくことは、誰かに責任転換したり、合理化することではないと思うからです。

気持ちを掘り下げていくと、自分の卑しさや未熟さなど受け入れたくない自分を発見してしまってもあるかもしれません。

気持ちが沈んで、もう何もやりたくないと思うかもしれません。

それでも「まぁ、いっか」と思えて目の前のことにスッと入り込める時は、今の自分を受け入れてるってことなんじゃないかと思います。

 

そんな時の自分は結構エネルギーが出ている気がします。

自分の弱さを知って受け入れた状態は強い気がします。

できるかできないかで判断しない感覚で何事にもスッとやる姿勢になっているからだと思います。

やる前にじっくり考えるよりもやりながら考える状態になっているからだと思います。

 

上手くいく時もあれば、上手くいかない時もあります。

その中で上手くいかない時こそ、チャンスがゴロゴロ転がっているんじゃないかと思うのです。

だって、上手くいかない時こそ心がざわついてるので、あくまで僕の場合は。

上手くいかない時は、自分を知るチャンスや自分を受け入れて目の前を大切にするきっかけだと捉えられることはできるはずだと思いました。

 

できるもできない問題ない感覚で日々いられるたらいいなぁーっとかずっと落ち着いた気持ちで居られるといいなぁーと思っていました。しかし、できないことやざわつく気持ちを大切にする方が好きだなぁと思いました。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.330 〜子どもにとって、オトナはみんな先生〜

2017.02.08 【324日連続投稿】

 

2月7日は、授業公開日でした。

 

授業公開日は参観日と違って、特定の授業を外部の人から見てもらうのではなく、一日中どの時間でも見学に来ることができる日です。

 

授業公開日は、授業中以外も保護者の方に見られていると思うと少し緊張した気持ちになります。

 

しかし、今回緊張から温かさに変わった瞬間がありました。

 

帰りの準備でトイレなどでバタバタの中、生徒2人とその生徒の保護者2人と私が教室にいました。お茶を飲むのが嫌いな2人の生徒対して、私がお茶を飲ませるのを保護者が見ているという状況でした。

 

私は、平静を装いドキドキしながらお茶を飲ませていました。

保護者の方々が、「あぁ、いつも通り嫌がってるわ(笑)」という感じで見られていたのが救いでした。

 

そこに1人の生徒が教室に戻って来ました。その生徒は、自分の力で帰る準備がある程度できるので遠目で見つつ、2人にお茶を飲ませていました。

自分で帰りの支度をしていた生徒は、順調に帰りの支度ができて、あとは上着を着るのみという状況になった時に、

「ひろやすセンセー着せてくださーい!」とお願いしてきました。

 

しかし、その生徒は異性で同性介助で基本行なっているため服を着せることはできないですし、そもそも自分で着る能力はある生徒だったので、

「今はなんとか自分で着るようにして〜」と伝えました。

 

すると、その生徒は保護者の方々の近くに行き、試行錯誤して自分で着ようと努めていました。

 

私は、その間に2人の生徒のお茶を飲ませ終わり、帰りの支度に取りかかると、保護者の方々が自分で服を着ようとしている生徒に対して優しく教えて下さっていました。

「〜しなさい」というような教え方ではなくて、少し上手くいってない所に対して「こうした方が可愛く着れるよ〜」と言ったり、上手くできたら一緒に笑顔で喜んでいたりしているのを見て、こういう光景いいなぁと思いました。

 

生徒、保護者、先生が一緒に過ごしている感じが僕にとってよかったのです。

今日の一日で最も忙しい時間帯であったはずなのに、気持ちは温かさと穏やかさに包まれていました。

 

ついつい、同じ大人であるはずなのに保護者と教師というカテゴリーに分けて考えがちだけれども、子どもにとっては大人はみな先生なんだなぁとしみじみ感じました。

 

 

余談の告知なんですが、

工業高校の先生と一緒に教師塾という先生も先生でなくても一緒に学ぶ機会を定期的につくっています。 

直近は、3月12日にございます。

皆さんと一緒に学びを通じて、同じ場所で同じ時間を過ごせることをことを楽しみしています。

 

第3回 教師塾 相互理解のための認識力をつける

 

おわり。