名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.1039 〜言われるうちが華〜

2019.02.27  【1068日連続投稿】

 

「言われるうちが華」

 

他人から自分のことをとやかく言われるのは、他人が自分のことを気にしてくれている。

他人から何も言われなくなったら、見放されている。

 

言われるうちが華とお節介は同じようで同じじゃない。

 

それは、受け手の受け取り方次第の部分が大きい。

 

言われることで、自分を見直すきっかけにしている人は華だろうが、

言われることで、他人にイライラしたりする人は、お節介だろう。

 

そういう意味でも、聞く姿勢次第で、自分を見つめ直す機会にするか、自分を正当化する機会になるかの分かれ道となる。

 

大丈夫、他人を傷つけるために言ってくる人はすぐに分かるから。

でも、そういう他人がいるってことは自分も誰かを傷つけているかもしれないね。

 

自分を見つめ直す機会を作ってくれるのは自分でもあり、他人でもある。

 

おわり。

 

 

 

本日のつれづれ no.1038 〜健常と異常はなぜ区別された?〜

2019.02.26  【1067日連続投稿】

 

 「十七世紀になって、狂気はいわば非神聖化される。(略)狂気に対する新しい感受性が生まれたのである。宗教的ではなく社会的な感受性が。狂人が中世の人々の風景の中にしっくりなじんでいたのは、狂人が別世界から到来するものだったからである。いま、狂人は都市における個人の位置づけにかかわる『統治』の問題として全景化する。かつて狂人は別世界から到来するものとして歓待された。いま、狂人はこの世界に属する、貧民、窮民、浮浪者の中に算入されるがゆえに排除される。」

『狂気の歴史』

 

内田樹『寝ながら学べる構造主義』p.90

 

健常と異常が分かれるという概念は最初からはなかった。

なぜ生まれたのか。

そこを見なければ、健常と異常が区別される世界を受容することもできないのではないかと思うようになってきました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.1037 〜自分の足で歩く人〜

2019.02.25  【1066日連続投稿】

 

今日は、職場に加藤啓太さんが見学に来られました。

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加藤啓太さんはロンドン パラリンピックのボッチャ日本代表の方で、自ら訪問看護(ヘルパーステーション)を経営されています。

彼は、電動車椅子を華麗に乗り回し、言葉を話せない代わりに文字カードを指差すことやスマホを使ってコミュニケーションを取られます。

その他できないことは、ヘルパーさんがついてきて食事の補助などして下さいます。

 

今日話した中で印象に残ったエピソードがありました。

彼は、愛知県内の特別支援学校に通っていた時、高等部に入る時大学進学に必要な単位が取れるクラスに入れなかったそうです。

しかし、自分でAO入試なら単位がなくても大丈夫なことを調べ、見事大学進学をされた。という話でした。その学校で大学進学したのは30年ぶりの出来事がったそうです。

 

なんで印象的だったかというと、障害があるとかないとか関係なく自分の人生を自分で歩いていることです。できないことは、他人の力を素直に借りれること。

 

彼の会社のHPをご覧頂ければ、幸いです。

名古屋市西区の訪問介護ならヘルパーステーションKEI愛

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.1036 〜人と遠ざかるための条件〜

2019.02.24  【1065日連続投稿】

 

今回のタイトルは、敢えて「人と遠ざかるための条件」としました。

 

人と遠ざかるとうのは関わりを持たなくなるということです。

 

「こうでなければならない」が自分の中で沢山あるほど、人から遠ざかると思っています。

 

自分のこだわりとは何のためにあるのか、それを考え尽くして必要なものはちゃんと個性というものになるのでないだろうか。

 

こうあるべきは、何のためにあるのだろうか?

 

おわり。

本日のつれづれ no.1035 〜見方と見られ方〜

2019.02.23  【1064日連続投稿】

 

見方とは、自分が自分自身や他人をどう見ているか。

見られ方とは、自分が他人からどう見られているのか。

(ということにしておいて話を進めると)

 

見方と見られ方はほぼ一致しない。

 

本日、サムハプで人狼ゲームとコヨーテという遊びをしてて思いました。

もっと遊ぼう。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.1034 〜編集長:塩坂太郎「まなび おむすび」第2号〜

2019.02.22  【1063日連続投稿】

 

今日は仕事のあとに寺子屋塾へ。

帰り際に、静岡で自然農の畑を耕し、人々の学びの場を作り始めているたろちゃんこと塩坂太郎さんが月に1回発行している記事を渡して頂いた。

 

たろちゃんは、地方で繋がったいろんな方へ月に1回インタビューをしてまとめて「まなび おむすび」という通信を発行している。

 

誰かの話を編集して書くということは、正解がない。

 

正解がないんだけども、大切にしていることがあるから、こんなにも語り手が話しているような文章が書けるのだろうと思う。

 

来週は、お久しぶりに静岡に会いに行きます。

こりゃ相当楽しみです。

 

おわり。

本日のつれづれ no.1033 ~「健常/異常」の境界はあるのか?~

2019.02.21 【1062日連続投稿】

 

 フーコーは、歴史を「生成の現場」にまで遡行してみることによって、「常識」をいくつも覆してゆきました。フーコーが覆した「常識」のうちでいちばん衝撃的なものは、おそらく精神疾患における「健康/異常」の境界という概念でしょう。

 フーコーはその最初の学術的主題に「狂気」を選びました。彼が最初にめざしたものは「歴史から排除され、理性から忘れ去られたものー狂気ーに語る機会を提供すること」でした。

(中略)

  「しばらく前まで、狂気は白日のもとで大いに活躍していた。『リヤ王』も、『ドン・キホーテ』もそうだ。しかし、それから半世紀も経たないうちに、狂気は押し込められてしまった。強制収容所の城塞の中で、『理性』と、道徳の諸規制と、それがもたらす彩りのない暗がりに縛り付けられてしまったのである。」

(『狂気の歴史』)

 

内田樹『寝ながら学べる構造主義』p.87〜88

 

17〜18世紀のヨーロッパでは精神病者の囲い込みいわゆる病気と診断された者は一箇所にまとめて管理されていたと言われています。

フーコーは「語られない事実」をいかに観るかという視点で過去を見ました。

17〜18世紀以前は、地域に溶け込んで共同体の成員として認知され、共同体の中で役割を持っていたようです。

宗教的な考えも含まれ、狂人(精神病者)は人間社会にとって自然であり、有意義なこととされていました。

 

では、そこからなぜ変わってきたのか?

その「なぜ」が「健常/異常」の境界が生まれたヒントがあると思っている。

 

おわり。

本日のつれづれ no.1032 〜どうでもいいことをやる価値〜

2019.02.20  【1061日連続投稿】

 

余裕があると、新しいことをやり始めたり、じっくり腰を据えたいことに取り組むこともできる。

 

仕事で又は事業が大きくなるということは、やることが多くなることがほとんどな気がする。

だからこそ、いかに余裕を生み出すかってことが重要なんだなあ。

 

余裕ってのは、何もしないことからは生まれない。

何もしない時間があったら、これもできる!あれもできる!となって、あったはずの余裕は瞬く間になくなってしまいがちだからだ。

 

だから、敢えてやらなくてもどうでもいいことをやるのは、余裕を生み出すという価値がある。

毎日算数のプリントを解くのも、

ブログを書くのも、

それをやること自体以外に意味があるんだなぁ。

と最近身にしみております。

本日のつれづれ no.1031 〜語られていないことは何か?という視点〜

2019.02.19  【1060日連続投稿】

 

 フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。

 それは、「これらの出来事はどのように語られてきたか?」ではなく、「これらの出来事はどのように語られずにきたか?」です。なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。

 その答えを知るためには、出来事が「生成した」歴史上のその時点ー出来事の零度ーにまで遡って考察しなければなりません。考察しつつある当の主体であるフーコー自身の「いま・ここ・私」を「カッコに入れて」、歴史的事象そのものにまっすぐ向き合うという知的禁欲を自らに課さなければなりません。そのような学術的アプローチをフーコーニーチェの「系譜学」的思考から継承したのです。

 

内田樹『寝ながら学べる構造主義』p86

 

過去を見る時、直線的に見るのが「人間主義」。

これは、あらかじめ決まられたストーリーが流れるように物事の事象を観ることである。

ただ、そのストーリーから弾き出された事象はないのか?

フーコーはそのように考えた。

 

語られることが全てなのか?

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.1030 〜いま・ここ・私が最高到達点という「人間主義」〜

2019.02.18  【1059日連続投稿】

 

 私たちは、歴史の流れを「いま・ここ・私」に向けて一直線に「進化」してきた過程として捉えたがる傾向があります。歴史は過去から現在めざしてまっすぐに流れており、世界の中心は「ここ」であり、世界を生き、経験し、解釈し、その意味を決定する最終的な審級は他ならぬ「私」である、というふうに私たちは考えています。

 「いま・ここ・私」を歴史の進化の最高到達点、必然的な帰着点とみなす考えをフーコーは「人間主義」(humanisme)と呼びます。(これは「自我中心主義」の一種です。)

 「人間主義」とは、言い換えれば、「いま・ここ・私」ということです。「いま・ここ・私」をもっと根源的な思考の原点と見なして、そこにどっしりと腰を据えて、その視座から万象を眺め、理解し、判断する知の構えをフーコーは「人間主義」と呼んだのです。この人間主義歴史観によれば、歴史は次々と「よりよいもの」、「より真実なもの」が連続的に顕現してくるプロセスとして理解されます。(だって、「いま・ここ・私」がすべての基準なのですから、それが最高到達点であることは自明の前提です。)

 

内田樹『寝ながら学べる構造主義』p.80〜81

 

「いま・ここ・私」がすべての基準なのだから、それが最高到達点という考え方は、人生をながーく見て語るとき、あの時のことがあったから今があるってときの考え方なんだな。

私が私であってよかったそう思いたい自分が滲み出てるなぁと感じます。

 

おわり。